優しくない話

禁転載

エリクは絵が得意でないと、よく知っている。
平面部分だけを描かせるならそれほど酷いわけでもないのだが、奥行きを持たせようとすると途端に破滅する。
このまま同じ方向性を突き詰めていったらいずれキュビズムになるのかもしれない。そんな感想を抱きながら雫は壁の絵を見上げた。
「で、何ですか。これは……」
「構成図。見えない?」
「残念ながら。鶏と牛のキメラになら見えなくもありません」
混乱が何とか収拾されたワイスズ砦。その執務室に顔を出した雫は、数時間前の主君と同じく壁の有様に絶句していた。
青い絵の具で描かれた意味が分からない絵をただただ見つめる。
壁に描かれた「よく分からないもの」は二つ。その一つはファルサス国王の手によるものであり、もう一つを描いたのはエリクらしい。
それを聞いた雫は、オルティアにばれませんように……と祈りながら、何故落書きなどしたのか本人に聞いてみた。
「魔法装置書き換えの報告をしにいったら、図に描いて説明しろと言われたから。塗料壷を渡された」
「か、紙に描いてくださいよ……」
どうしてそこでラルスの基準に合わせてしまったのか。
二つの落書きは修復対象に入っているが、見たところかなり頑固に塗料がこびりついている。
シンナーなどこの世界にあるのだろうか。雫は乾いた線の上に指をなぞらせながら真剣に悩んだ。
「とりあえず削るしかないのかな」
「上から別の壁紙を張ればいいんじゃない?」
「この部屋だけ壁紙張ってあったら怪しくないですか? 死体が塗りこめてありそうですよ。黒猫とかも」
「何それ」
雫は聞き返してきた男に、元の世界で有名な短編小説について、そのあらすじを説明する。
あらかじめ創作だと何度も念を押したせいか、いつものエリクによる怒涛の突っ込みは何とか免れることが出来た。
その代わり話が全て終わると、「猫を塗りこめたのに気づかないって注意力散漫だね」と言われて雫は激しく脱力する。
「きっと必死だったんですよ。猫に気づかないくらい」
「そういう時こそ注意深くなるべきだと思う。ちょっとした見落としが命取りになるんだから」
「うう……その辺で勘弁してください」
真面目な顔で注意されても、雫には死体を隠蔽する予定は今のところまったくないし、将来的にもないと思っていたかった。
げっそりする彼女に、エリクは自分が描いた構成図を眺めながら締めくくる。
「まぁこの壁には何も塗りこめていないよ。入っててもせいぜい虫くらいだ」
「うわぁ」
聞いてもまったく嬉しくない情報の捕捉。
だが虫が塗りこまれていようがいまいが、この壁を修復しないことにはどうしようもない。
雫は自分用の書類草稿を日本語で書きとめた。執務室の二面に渡る壁の修復依頼。これを後で姫に報告して正式な書類に起こすのだ。
必要事項を書き出してしまうと雫は隣に立っている男を見上げる。
「エリクは何か知らないんですか? 怪談とか」
「怪談? 特には心当たりはないな。……ああ、せいぜい僕が体験したちょっと変わった出来事くらいか」
「実話!? 何ですかそれ! 聞きたいです!」
この世界に幽霊がいないことは知っている。が、エリクは何かおかしな体験をしているらしいのだ。
これは気にならないはずがない。雫は目を輝かせて話をせがんだ。
本来なら勤務時間中の女の懇願にファルサスの魔法士は呆れた顔になったが、自分も話を聞いた手前教えてくれる気になったらしい。
彼は記憶を探るような目で落書きを見つめながら口を開いた。
「あれは五年前のことかな。僕がファルサス城の図書室に通っていた時のことだ」

当時の彼は十八歳になろうかというくらいの若い魔法士だった。
禁呪資料の整理を主な仕事とし、カティリアーナの教師でもあった青年。
彼は暇さえあれば城の図書室に顔を出し、他では見ない資料の数々に目を通す日々を送っていた。
だがそれら資料の中の一冊、やけに古びた魔法理論の本を読んでいる時に、その出来事は始まったのだ。
「その本は二百年位前に書かれた本だったんだけどね。
 ふと頁を捲っている時に、その隅っこに『読んだ』って走り書きがされていることに気づいたんだ」
「読んだ? 何ですかそれ」
「多分、栞代わりに誰かがさっと書いたんだと思う。薄く書かれていたし、擦ればすぐに消えたからね」
「ひどいことしますね。栞挟めばいいのに」
「うん。僕も有用な走り書きでもないから、その時は消しながら読み進めることにしたんだ」
その本はエリクであってもさくさくと読み進められるようなものではなかったらしい。
彼は毎日図書室に通い、日に十頁から二十頁を消化していった。
「しばらくして、また先の頁に『読んだ』っていう走り書きがされているのを見つけた。
 最初と同じ筆跡で、五十頁くらい進んだところだったかな。僕はそれも消して先に進んだ」
「はい」
エリクの口調はいたっていつも通りの平坦なものだ。その声音にもおかしなところは何もない。
それでも雫は妙にドキドキと緊張しながら話の続きに聞き入った。
「それから僕は何度か同じ走り書きを見つけた。同じ筆跡で同じ言葉。読んだ、ってね。
 でもある時、僕は書かれている言葉の間隔が狭まっていることに気づいたんだ。
 最初は五十頁ごとに書かれていたものがいつの間にか三十頁ごとに。そのうち十頁ごとになって目に余るようになった」
「うわ……ちょっと気持ち悪いですね」
「うん。消すのが面倒だった。でもとりあえず見つけた端から消していって……ついに走り書きは一頁おきになった」
「ひぃぃぃぃ! 怖い! 怖いですよ!」
その光景を想像すると背筋がぞっとする。雫は相変わらず微塵も表情が変わらない男の服を掴みたくなってそれを堪えた。
まだ外は充分明るい。これが夜であったならもうちょっと色々我慢できなかったかもしれないが、彼女は心の中で「幽霊はいない幽霊はいない」と唱えて恐怖の波を乗り越えた。聞きたくない気持ちと聞きたい気持ち半々でエリクの声に耳を傾ける。
「捲る度にある走り書きを消すのは面倒だった。でも始めてしまったことだからね。僕はそのまま三十くらいは『読んだ』を消したんじゃないかな。
 でも本自体が残りあと数十頁というところで……突然走り書きの内容が変わったんだ」
「な、何て書いてあったんですか?」
「『消すな、今読んでる』って」
「いやああああああ!!」
雫は頭を抱えて悲鳴を上げた。
何だか後ろに見知らぬ誰かが立っていて、自分の手元を覗き込んでいるような想像をしてしまったのだ。涙目で飛び上がるとエリクの後ろに回りこむ。
一方エリク本人の方はそんな雫の反応の方に驚いたらしい。目を丸くすると彼女の額を軽く叩いた。
「どうしたの。大丈夫?」
「こ、怖いですよ。よく平気でしたね」
もし雫自身がその走り書きを見たなら、図書室にもかかわらず叫び声を上げてしまっていただろう。そしてエリクがいたなら怒られた。
そんな光景をはっきりと思い浮かべて彼女は身震いする。
けれど極寒の中に立っているかのように震える雫とは対照的に、エリクは怪訝そうな目をしただけだった。困惑を滲ませながらこめかみを掻く。
「別に怖くないと思うけど。誰かの悪戯じゃないの? 消すなっていうから最後のは残しといたけど」
「本当に悪戯なんですか!? 絶対?」
「さぁ……。数十年くらいは誰も触ってなさそうな本だったけど。中の理論もところどころ間違ってた。
 それに関してはせっかくだから、最新理論を記している本を注釈として書き加えておいたよ。書棚の番号を書くかどうか迷ったけど……」
「いや、もうその辺はいいです。書棚整理されたら番号変わっちゃうじゃないですか」
「そう思って書かなかった」
何だか急に話が脱線してしまった。雫はエリクの服の後ろを掴んだまま項垂れる。
幽霊などいないと分かっているが、なまじ嘘や脚色を加えるような人間の話ではないだけに妙に怖い。
彼女は左手に書類を握り締め、反対側の手で彼の魔法着を掴みながら幾分蒼ざめた固い表情を見せた。
「まだその本ってファルサスにあるんですか?」
「あるんじゃないかな。一応貴書の類だし」
「ちょっとファルサスに行きたくなくなってきました……」
「何で」
何でと言われてもきっとこの気持ちはエリクには絶対理解されない。
雫は「何でもないです……」と言いながら彼に手を引かれて部屋を出ると、ラルスと相変わらずの口論をしていたオルティアに「姫、今日一緒に寝てくださいませんか」と聞いて皆の困惑の視線を集めることになったのだった。