手紙

禁転載

『もし、この手紙をみんなが読んでいるのなら、その時私はこちらに残ることを決めたのだと思う』
一年ぶりに届いた姉からの手紙は、そんな出だしから始まっていた。



澪の姉である雫が大学からの帰り道、行方不明になったのは夏休みに入ったばかりの暑い日のことだ。
夜になって学生会館からもたらされた「点呼に戻ってこない」という知らせに家中が騒然となったことを覚えている。
両親からすると、三人姉妹の真ん中である雫は、海や澪と比べて大人しめで控えめ。
あまり自分の意見を言わず手のかからない子であったらしい。
だがずっと姉の背を見て育ってきた澪は、本当は彼女が強い芯を持つ人間であることを知っていた。
ただその芯を滅多に見せようとしないだけで――――



「絶対何かあったんだよ! 雫姉は家出したりしない!」
一番早くそう訴えたのは澪であったが、他の家族はその意見に賛同しても、では何があったのか、までは分からない。
警察に相談し捜索願も出しはしたが、それだけでは何の情報も得られなかった。
「捜してくれないんだよね。夏休みだしどうせ何処かに遊びに行ったんだって……でもありえないよ」
学生会館の雫の部屋から母と姉と共に荷物を引き取りに行った時、澪は憤りも露に声を荒げていた。
けれど娘がいなくなってから少しやつれた母は悲しそうに頷いただけで、姉は相槌を打たない。
彼女は自分だけが空回りをしているように感じて黙り込むと、乱雑にダンボールを組み立てた。
六畳に満たない小さな部屋には、余分な荷物はほとんどない。
ただ教科書らしき本と最低限の生活用品があるだけで、それらがきちんと整理されているところも姉らしいと思う。



家出をするような人間ではないのだ。家族に何も言わず姿を晦ます性格ではなかった。
ならば何故帰ってこないのか―――― その理由に澪は一つだけ、心当たりがある。
普段、家族の中でも物静かに落ち着いて一歩退いているかのようだった彼女。
その彼女が本当はずっと何かを探しているのではないかと、そう思う瞬間が前から何度かあったのだ。
それは例えば、両親が三人の娘のそれぞれの性格を話題に乗せる時。
あるいは一番上の姉が夢見がちに自分の理想を語る時。
雫の視線はまるでその場にはないものを探して彷徨う。
そして彼女は澪が自分を見ていることに気づくと、困ったように苦笑するのである。
だから雫が家を出て学生会館に住みたいと言い出した時、澪は淋しさを覚えながらもそれに賛成した。
姉が探しているものはもっと広い場所にあるのではないかと、そう感じて。






『どうせ信じないと思うけど』
そんな匿名のメールが入ったのは、雫がいなくなってから半年、業を煮やした澪がインターネットを使って情報提供を求めだした時のことだ。
『女の子がいなくなるのを見た』と書かれていたメールに飛びついた彼女は、渋る相手に食い下がって詳しい話を聞きたいと求めた。
名前も性別も明かさない相手は、直接会いたいという澪の要求は最後まで拒んだが、代わりに自分が見たという詳しい話を教えてくれたのである。

その日彼は、二階にある自分のアパートのベランダによりかかって煙草を吸っていた。
閑静な住宅街であるその場所は、少し道を登れば雫の通っていた女子大へと通じている。
けれど夏休みに入ったせいか、その日はほとんど人通りもなかった。そこに、一人の女子大生が通りがかったのだ。
何の変哲もない光景。彼は歩いていく彼女を風景の一部として眺めていた。
だが彼女は、彼の見ているその前で「穴に吸い込まれて消えた」。
まるで蜃気楼のような非現実的な出来事。
暑さのせいで幻でも見たのかと思った彼はしかし、しばらくして辺りに貼られた張り紙などから、本当に女の子が行方不明になっていることを知ったのである。

「信じらんない……」
詳しいメールを見た澪は正直なところそう思ったが、折角教えてくれる気になった相手にそのままは返せない。
だからその時は形式的なお礼を述べて終わった。
それきり彼女はもっと有力な情報を求めて必死になる。
しかし、澪がどれほど手を尽くしてもそれ以上の情報は得られない。
最初は張り紙を作ってあちこちに捜索をお願いしていた両親も、半年を過ぎると家で黙り込んでいることが多くなった。
「神隠しにあったのかしら……」と気落ちしたように呟く母親に澪は眉を跳ね上げる。
「ばっかばかしい! そんなことあるわけないじゃん!」
「だって、あまりにもおかしいでしょう? あの子は大人しかったから、きっと……」

きっと、何なのか。
澪はその場で叫びだしたくて仕方なかった。
いつまで経っても手がかりの得られぬことに、親戚などが「娘さんが一人じゃなくてよかったねぇ」と言っていることを彼女は知っている。
そして現に両親が海や澪を指して「あなたたちがいてよかった」と口にするようになったことも。
彼らにそんなつもりがないことは分かる。
彼らは彼らで雫が心配で、同様に海や澪も可愛がっているのだろう。
だがそう思いながらも澪は納得できない激情が燻って仕方なかった。
―――― そうやって雫を雫個人として見なかったからこそ、彼女は帰ってこないのではないかと。






「鞄が見つかった」と、警察から連絡が入ったのは、夏休みが始まる少し前のことだった。
澪はその連絡を受けると、母親の制止もまたず電車に飛び乗って警察署に向かう。
自分が身分を証明するものを何も持ってこなかったと気づいたのは、いざ警察署についた時のことだ。
両親の運転する車で先についていた姉は「澪ちゃんの気持ちも分かるけど、あんまり一人でどこかに行かないで」と涙混じりに彼女の手を引いた。
自分はいなくならない、と言いかけて澪は沈黙する。
それは確信を持っては言えない言葉だった。

鞄に入っていたのは、本と財布、筆記用具や音楽プレイヤー、細々した小物や携帯電話などで、それは間違いなく雫の持ち物だった。
そして本の間に挟まった手紙と「澪へ」と書かれた紙袋。
確認の為、この場で読んでみて欲しいという警察の要望を受けて、父親が封書を開封する。

『もし、この手紙をみんなが読んでいるのなら、その時私はこちらに残ることを決めたのだと思う』
雫からの手紙は、そんな言葉で始まっていた。
ルーズリーフの端を切り落として作られた便箋。綺麗に揃った文字はびっしりと裏表に渡って書き込まれていた。

自分はちょっとした事故で、とても遠い場所に飛ばされてしまったのだということ。
そこは簡単に行き来も出来ない場所で、今まで連絡の仕方も戻り方も分からなかったのだということ。
けれど向こうで色んな人に助けられてあちこちを彷徨って、帰り方を知った……

そこまで読んで、澪はその場から駆け出した。
帰り方が分かったのなら、何故帰ってこないのか。
どうして向こうに残ることを決めたのか。
こんなにもみんなが心配して、ずっと帰りを待っているのに、どうして戻ってきてくれないのか。
それとも―――― 三人姉妹の間に戻ることが嫌なのか。



「雫姉の馬鹿……」
「そんなことを言わないで」
車の影に蹲って泣いていた澪は顔を上げた。
そこには困ったような、けれど何処かすっきりしたような海が立っている。
少しだけ雫に似た顔。やはり自分たちは姉妹なのだと、その時澪は思った。
彼女は涙を手で拭うと姉が差し出してきたものを見やる。
それは、先ほどの手紙と澪に宛てられた紙袋だった。
袋を開けてみると、そこには数冊のノートが詰められている。澪は一番手前の一冊を引き抜いて中ほどのページを開いてみた。

『五月十二日
 報告書作成終了。レウティシア様からカカオを貰った! でもこれをどうすればいいのか……。
 現代人の自分に凹む。チョコレートの作り方くらい知っておけばよかった。カカオから』

「……何これ」
「チョコレートの作り方がわからないんじゃないかな? カカオから」
「普通知らないよ」

一日一日、詳細に書かれている日記。
見覚えのない固有名詞ばかりが並ぶノートを澪はどんどん捲っていく。その中に自分の名前を見つけて―――― 彼女は手を止めた。

『お姉ちゃんに会いたい。澪に会いたい。家に帰ってお母さんの料理が食べたい』

「帰ってくればいいのに」
「続きがあるわ」

『ここに来て分かったことは、自分が愛されていたということ。
 親から、姉妹から、当たり前のように多くをもらって育ててもらった。本当に恵まれていた。
 そして、そうでなければきっと、ここまではこれなかっただろう。
 でも私は与えられた基盤を持ってこの世界に来て、そこで今の自分になったのだ。
 二つの世界が私を形成した。家族と暮らした十八年間とこの世界で旅をした一年、どちらが欠けてもそれは私ではない。
 ―――― もっと自由に行き来が出来たらいいのに』

姉の書いていることは、分かるようで分からない。
ただ……雫は探していたものを見つけたのだと、そのことだけはぼんやりと感じ取れた。
澪は更にページを捲り、最後に近い一ページで手を止める。

『私は、この世界を変えてしまった。それがいいと思ったから。でも私のエゴなのかもしれない。
 病気などではないと信じて欲しかった。もっと人にも言葉にも可能性があるのだと。
 でもこれでいいのだろうか。私が帰ってしまって、その後この大陸はどう変わっていくのだろう。
 言葉を乱した私にはきっと責任がある。
 変わってしまった世界で可能性を示さなければならないのは、誰よりも私なんじゃないだろうか』

日記の最後は『迷っている』と、それだけで終わっていた。






四冊に及ぶ日記を、その晩澪は徹夜して何度も読んだ。
まるで絵空事のような御伽噺。
だがその中で姉はいつも必死になって苦労をして次へと進んでいる。
読み進むごとに変わっていくその姿は、澪が自分しか知らないと思っていた雫の芯の可能性そのものだった。



「雫姉の馬鹿」
机の上に並べられた手紙と携帯電話。
手紙には家族への謝罪と感謝、そして『愛している』という一言が綴られていた。
「いつからそんなこと言うようになったんだっての」
強い意志を窺わせる真摯な文面には、大人しく見えた姉の面影はほとんどない。
両親もそれに何かを思ったのか、溜息混じりに「元気そうでよかった」と洩らしただけだ。
澪は姉の携帯に残されていた写真を覗きこむ。
「そういうことは恋人に言うもんだよ、雫姉…………無理か」
長く伸びた髪。
すっかり大人びて「女性」になってしまった姉は、写真の中穏やかに微笑んでいる。
隣り合う男に向けた信頼と愛情。
そこに紛れもない幸福を見て取った澪は「ちぇー、負けた」と小さく溜息をつくと、いつか来た匿名の情報メールに改めてのお礼を送る為、ノートパソコンを開いたのだった。