幸福の色

禁転載

焼きあがった菓子の匂いが居間にまで甘く漂ってくる。
穏やかな日の光。
窓から差し込む暖色の届かぬところで本を読んでいた男は「おみゃつですよ」という声に顔を上げた。
湯気の漂う盆を持って入ってきた女を振り返る。
「おみゃつ?」
「おみゃつ」
「……ああ、おやつか」
微妙な発音の差異を修正してやると雫は目を丸くした。首を傾げて「おやつ?」と聞き返す。
彼女の持っている盆にはお茶と、卵色のふっくらしたケーキが乗っていた。
それらをテーブルに並べ始める女を手伝って、エリクは皿を手に取る。

二人が暮らしているのはワノープの町。雫がこの世界に来た当初、一月を過ごした町である。
彼女がこの世界に残ることを決めてから三ヶ月程はファルサスの宮廷で暮らしていた彼らも、宮廷内で言葉が分からないとおかしな揉め事も避けにくいということで、ひとまず平和なこの町に戻ってきていた。
旅に出る時に図書館を辞めてしまったエリクは、レウティシアの要請もあって月に一度ファルサスの宮廷に出向いて研究報告をするという非常勤扱いになっている。一方雫はシセアの家に間借りしながら家業を手伝ったり町の子供たちの世話をして過ごしていた。
一日に一度はエリクの家を訪ねて勉強している彼女は、大分聞き取りも発音も出来るようにはなってきたが、まだかなりたどたどしい。
子供たちの流行病が実は病気ではなく、これからの世代には当然のことだという事実は各大国の努力で大分周知されるようになってきていたが、その中にあって「言葉を失った」彼女は、病の対策に関わっていたということもあり、職務中の事故か何かでこうなったのだと周囲に思われていた。
それでも温かく迎え入れてくれた住民たちの間で徐々に言葉を覚えている雫は、自分で作った単語カードを確認しながら問う。
「おみゃ、つ。おやつ?」
「おやつ」
「おやつですよー」
「正解」
男の微笑を見ると雫は相好を崩した。椅子を引いて座るとカップを手に取る。
「発音は、むずかしいですよ。聞き取りより」
「だろうね。身についた癖があるから。文脈を考えれば大意は取れるけど」
「ねおねおてろる?」
「……取れてないな」
彼女の語彙は決して多くない。エリクは反省すると「言いそうなことは、分かる」と単純に言い直した。
途端雫は困ったような笑顔になる。
「お前の考えそうなことは分かる」と言われて憮然とする人間もいるが、彼女はどうやらその中には入らないらしい。
小さな手がカップを置くとケーキに伸びた。肩に乗っている小鳥の為に卵色の生地がちぎられる。
他愛無い会話を交わしながらのひととき。
これが彼らの日常の光景であった。



休憩を入れて五時間をエリクとの勉強に費やすと、雫はシセアの家に帰った。
当初彼女は一人暮らしをしようかとも思っていたのだが「言葉が分からないなら尚更うちに来なさい」と言われてシセアの好意に甘えることにしたのだ。
家の中に誰の姿もないと分かると、雫は仕入れた生地が置かれている倉庫に向かう。
そこでは今まさに仕入れられたばかりの生地をシセアと夫が整理し始めているところだった。
「てつだいますよ」
「ああ、ヴィヴィア。お願い」
二年前は周辺国の情勢不安により仕入れが安定していなかった生地もここ一年程は流通に滞りがない。
自分の背丈程もあるロール生地を運び終わった雫は、最後に生地ではないものが仕入れ荷に混じっているのを見つけて目を丸くした。
「すごい。結婚のドレスですか?」
『花嫁衣裳』の単語が分からなかった彼女は、白く大きなドレスを見て主人に問う。
男は笑いながら「町の娘が今度結婚するから。注文していた衣裳を一緒に持ってきてくれって頼まれてたんだよ」と答えた。
用意されていた衣裳かけにドレスを吊るしてしまうとシセアは雫を振り返る。
「どう? 綺麗でしょう」
「きれいです」
そう言えばこの世界に来てからまだ一度も結婚式に参列したことはない。
今後そのような機会があるのだろうかと考えて雫は悩んだ。
女性の適齢期は平民であれば二十代前半、貴族や王族は十代後半らしいのだが、彼女が知る王族の女性どちらもが未婚である。
彼女たちは既に二十代であるし、少々性格に癖のあることを考えると中々相手が定まらないのかもしれない。
雫はどちらも「美しい」と賞賛されてやまない彼女たちの花嫁姿を頭の中で思い浮かべて憧憬の溜息をついた。
だがその溜息を聞いて、シセアは僅かに表情を曇らせる。
「ヴィヴィアも、もうすぐ二十歳だっけ?」
「たぶん。あれ、もうなっているかな」
この世界に来てから、こちらの暦では二年が過ぎたが、元の世界とは暦にずれがあるので確信がもてない。
もう適当に誕生日を決めた方がいいだろうか、と思う雫にシセアは早口になると何か話しかけてきた。
「あ、シセア、待って」
興奮ぎみの時などにこうして口調が早くなる女は、雫の小さな制止にも気づかぬように話を続けている。
断片を拾うと「誕生日」「大人」「周り」「エリク」「いい子」などが聞き取れたが、繋がりが分かるようでやはりよく分からない。
苦笑した夫がそれを留めるとシセアは我に返った。改めて雫を見下ろし、ゆっくり言い直す。
「結婚式、ひらくの、いきたい?」
「あ、行きたい!」
町であるという結婚式に参列させてくれるのだろうか。彼女は目を輝かせて頷いた。だがすぐに他のことに気づく。
「服、ふつうでいい? ちゃんとした方がいい?」
この辺りをすぐに気にしてしまうのは日本人気質なのかもしれないが、雫は自分が礼儀に反しないか心配になった。
普段着を見下ろす女にシセアは笑顔になって頭を撫でる。
「作ってあげるから大丈夫」
「あ、ありがとうございます」
子供がいないシセアは雫を娘か妹のように可愛がってくれるのだ。
その日早速採寸をしてもらった彼女は、期待に胸を膨らませて眠りについた。






「うわ、論文が山積みだ」
つい日本語でそう呟いた雫にエリクが苦笑する。
どうやらもうすぐ城で研究発表会のようなものがあるらしく、それに出席を命じられた彼は城から多くの資料を持ち帰ってきたのだ。
とりあえずお茶を出しては見たが、これはあまり邪魔をしないよう勉強を見てもらうのを控えた方がいいかもしれない。
「いつですか」と聞いたところ「一月半後」と返ってきたのでそれくらいならば自習をしていればいいだろう。
彼女は手持ち無沙汰なのもあってエリクの家の家事をしてしまうと「今日はバイト行って来ます」と挨拶した。
論文に埋もれかけていた男は顔を上げると「ちょっと待って」と呼び止める。
「君、結婚式開くのに行きたいって本当?」
「あ、本当。楽しみです。服も、作ってもらってるし」
期待を膨らませて答えると、彼は判然としない微妙な表情になった。しかしそれに気づく前に雫は逆に聞き返す。
「エリクは、行かない?」
「いや行くけど」
「あ、じゃあ一緒に」
「うん」
この町の中なら一人でも平気ではあるが、彼と一緒ならそれ以上に安心である。
エリクは論文を指して「出来るだけ早く片付けるから」というと机に戻った。
その穏やかな笑顔に雫は不思議と嬉しくなると「頑張ってください」と彼の家を後にする。
―――― それが、一月半前のことである。






ワノープの町で開かれる結婚式はそのほとんどが町外れにある時代がかった講堂で行われる。
稀に自宅で式を行う人間もいるが、支度が大変なのと広さの関係で、そういった式には滅多にお目にかからない。
その為本日の式も、講堂の扉を大きく開いて付属の庭に宴席を用意しながらのものになっていた。
シセアに連れられて会場にやって来た雫は、講堂の一室で鏡の中の自分を見ながら絶句する。
「……何故、ウェディングドレス」
日本語の述懐は誰にも意味が分からなかったらしい。
雫の後ろでヴェールを調整していた女が「若い娘は華やかだねぇ」と笑った。
シセアが横から雫の化粧を直す。
小さな顔に見慣れた黒茶の瞳。
大きな目を映えさせ、頬の薔薇色を増すように施された化粧は巧みに彼女の愛らしさを引き立てていた。
長く伸びた黒髪は後ろで結い上げられ、上げられた前髪の代わりに耳の前に一房髪が垂らされている。
そしてその一房にも白いレースが編みこまれていた。
あちこちに飾られた白い生花。円形に広がる生成り色のドレスは素朴ではあるが幼さの残る彼女の容姿によく似合っている。
何処からどう見ても非の打ち所のない花嫁である女は、困惑の淵に漂いながらシセアを見上げた。
「あの、これってアイテアの、神話の……まねですよね」
『模す』という単語が分からない雫は、四苦八苦して事態を問う。

何故こうなっているのか、確認するのが遅すぎたのかもしれない。
だが、朝早くから会場に来た雫はまず平服のまま化粧をされ、疑問に思う間もなく髪を結い上げられたのだ。
それくらいは自分でやろうかと思っていたのだが、よってたかって町の女たちに弄くられる雫は「人の結婚式に参列するのだからきちんとしなければ」と思って彼女たちの好意に任せた。
しかしそこにきて―――― 最後に渡されたのはどうみても花嫁衣裳である。
疑問に思いながらも、かつて複数の花嫁を用意しての結婚式に関係したこともあった雫は、またそれかと思い大人しく衣裳を着た。
そしてようやく支度が整ったので詳しい段取りを聞こうとしたところ、返ってきたのは「あんたの結婚式だよ」という衝撃の言葉だったのである。

「結婚!? 私が? 誰と!」
「僕と」
突然背後から降ってきたのは彼女の保護者とも言える男の声だ。
雫は慌ててドレスを引くと、何とか上半身だけ振り返った。戸口に立っている男を視界にいれる。
「うわ、似合ってる! とかじゃなくて何ですかこの展開は!」
「ごめん。何言ってるか分からない」
濃紺を基調とした魔法士の正装を纏っている男は、眉を寄せながら雫の日本語を留めた。
あちこちに銀糸の刺繍が施された魔法着。細身にも見える彼は、しかし線の細さは少しも感じさせない。
むしろ姿勢のよい立ち姿は、彼の精神をよく表して静かな存在感を周囲に与えている。
ファルサスで暮らしていた頃も滅多に見なかった正装に加え、綺麗な顔立ちをしている彼は実に人目を引く。
レウティシアと並んだらさぞ絵になるだろうなぁと想像しかけた雫は、しかしすぐに我に返ると言葉を探した。
「な、何で、結婚!」
「結婚式開くの行くって言ってたじゃないか」
そこまで返したエリクは、しかし何かに気づいたらしい。
支度を手伝っていた女たちに席をはずしてくれるよう頼むと、入れ違いに中に入って戸を閉めた。
苦い、という言葉で表現してしまうにはやるせない悔恨の表情で彼女の前に立つ。
「ひょっとして……熟語が分からなかったのか」
「え」
「結婚式を開きに行くっていうのは、つまり……結婚するってことなんだよ」
「………………」



雫には聞き取れなかったシセアの言葉。
あれは要約すると
「あんたは誕生日も来てもう大人になるんだし、いつまでも男の家に出入りしていては不味い。
 周りの目もあるのだから、エリクのところに通うならちゃんとしなさい。いい子だから」
ということだったらしい。
それに加えて彼女は雫に「結婚しないか?」と聞いたのだ。もちろん雫は「したい」と答えた。そう取られたはずだ。
結果、彼女を妹のように可愛がるシセアは張り切ってドレスを縫い、エリクにも事情を説明、というか「責任を取れ」と詰め寄った。
彼はその意見に納得しつつも雫の希望を聞き、同じく肯定されたので、そのまま式の手配をして本日に至るというわけである。



「うわぁ……」
「ごめん。僕が悪い。ちゃんと確認しなかった」
先日研究発表を終えたばかりの彼は、この一ヵ月半ずっとその準備にかかりきりになっていたのだ。
雫も邪魔をしないようほとんど顔を出さなかったのだし、食い違いに気づかなかったのも無理はない。
むしろドレスの仮縫いで試着した時に、気づかなかった彼女の方こそ問題があるだろう。
「生成り色の服を着ていってもいいのか」とシセアに聞いたが「もちろん」と言われたのでそれ以上不思議に思わなかったのだ。
あまりの唐突さに呆然とする雫を前に、エリクは苦笑すると扉に手をかける。
「ちょっと事情説明して取りやめてくる。待ってて」
「え、ま、待ってください」
自分の粗忽さは分かったが、肝心なところが分からない。
雫は慌てて振り返ろうとして、そのまま転んだ。ヴェールに絡まって床の上に膝をつく。
「ぐう」
情けないことこの上ないが、今は本当に自分だけでは方向転換が出来ないのだ。
何とか立ち上がろうとしたところに、けれど手袋を嵌めた手が差し出された。
「大丈夫?」
助け起こしてくれる男の手。
その手をじっと見つめた雫は、数秒の間のあと躊躇いがちに自分の手を添わせた。彼を見上げ、藍色の瞳を真っ直ぐに射抜く。
「どうして、エリクは、結婚してくれるんですか?」
後は式を執り行うだけ、という段階になって中止してもらうのは申し訳ないが、それよりも彼に自分の責任を取ってもらうのは申し訳ない。
この世界には自分の意志で残ったのだ。それは決して彼の人生を不当に縛る為ではない。
にもかかわらず何故彼は……唐突な話を抵抗もなく引き受けてくれたのか。
激しい困惑と、それだけには収まらない何かを持って彼女はエリクを見つめた。
小さな問いに一瞬目を瞠った男は、苦笑すると彼女を抱き上げるようにして床に立たせる。
「どうしてと言われても。君が好きだからかな」
「熟語ですか!?」
「違う」



意味が分かっても理解出来ない言葉があるとしたら、それはこういうものを言うのかもしれない。
雫は頭の中では「分からない」と思いながらも、だが感情だけは真っ先に反応していた。
顔が熱くなる。耳までもが熱い。
化粧の下の素肌が熱を持ったことを悟って、彼女は手袋を嵌めた両手を頬に当てた。
だがエリクはそれに気づかないのか彼女の前で踵を返す。
「多分笑い話で済むよ。言ってくる」
「あ……待ってください!」
彼の服を掴もうと伸ばした手。すんでのところで届かずまた転びそうになる雫を、しかし今度は男の手が支えた。
注意しようと口を開きかける彼を遮って、彼女は男の腕を掴む。
「あの、あの、私、不束者ですけど……」
「フツツカモノ?」
こんなちょっとした会話でさえ上手く通じない。
それでもこの一年、苦しいと思うことよりも楽しいことや嬉しいことの方がずっと多かったのだ。
言葉も通じず家族もいない異世界で穏やかな暮らしをしてこられたのは、紛れもなく彼が傍にいてくれたからだろう。
共にいると安堵する。時折照れくさくて、とても温かい。
胸の鼓動が落ち着かない速さになってきているのを自覚しながら、雫は声に熱を込めた。
「もしよかったら、取りやめないでください。あの、このままで、私」
「分かった」
もどかしく零れ落ちていく言葉から気持ちだけを掬い上げて男は微笑する。
大きな手が彼女の頬に触れた。遅れて唇が触れ合う。



分かち合う時間が一生になるのなら、それは幸福以外あり得ないだろう。
それをいつからか知っていたからこそ、彼らは寄り添って生きてきた。お互いの隣を安らげる居場所として。



「ヴィヴィア! そろそろいい? 始めるよ!」
廊下からの声。赤面し固まっていた雫は、エリクに手を引かれると慌てて一歩を踏み出す。
こうして彼らの平穏は少しだけ色を変え、緩やかに流れながら長く続いていくのだ。