もしものお話

禁転載

朝起きた時に覚える違和感。それは現実味のある夢から急に目覚めた時などに感じるものなのかもしれない。
いつも通りの時間、時計の振動で覚醒した男は起き上がると額に手を当てた。強い違和感の正体を探ろうと記憶を辿る。
だが、その原因はまたたくまに指をすり抜ける砂のように彼の意識から消えうせた。ただ寝起きの倦怠感だけが体の中に沈殿している。
「何なんだ……」
気だるさに支配されながらの朝。
彼の「その日」はこのようにして唐突に始まった。

「おはよう」
大きくも小さくもない声。
朝の始まりとしては無難な女の声は、城の廊下で彼を待っていた雫のものだった。
分厚い書類を腕の中に抱えた恋人を、同じく執務室へと向かうニケは一瞥する。
「……って恋人だと!?」
「うわ、何?」
突然の大声に雫はぎょっとしたらしい。体ごと引いてしまった彼女をニケはまじまじと見つめた。
背の低い細身の体。違う人種であることが窺い知れる幼い顔立ち。
意思の頑なさが見て取れる双眸は、紛れもなく彼の同僚で―――― 恋人のものである。
ニケは自分が驚いてしまったことに遅れて驚きながら、隣に立つ女をじろじろと眺めた。
雫はその視線に更に引いてしまったらしく顔を引き攣らせる。
「な、何。どっかおかしい?」
「……別に何処も。普通に見える」
「いや、あんたが」
「人を異常者のように言うな!」
反射的にいつも通り返してしまったが、やはり何かがおかしいような気もしなくもない。
ニケは何となく現実を確かめたくなった。何も持っていない手を彼女に伸ばす。
しかし、その手が肩にかかるより先に、雫は「遅刻するよ」と呆れた声を残しさっさと廊下を歩き始めた。
いつも通りの淡白な態度。しかし彼女の言うことは事実であったので、ニケは舌打ちすると隣に並ぶ。
「おい」
「何?」
「お前は……俺の恋人か?」
言ってしまってから、ニケは自分でも意味が分からないと頭を抱えたくなった。
女はこれ以上ないくらい呆れ果てた目になる。
「今更何言ってんの? ―――― そうだと思うけど」
不安を払拭する言葉。それを聞いてようやく幾許かの落ち着きを取り戻した彼は「そうか」とだけ呟くと、綺麗に結われた雫の頭をくしゃくしゃと撫でた。
そして嫌がられた。



女王に仕える彼らの朝は早くもなければ遅くもない。
それはオルティアがまず早朝から起き出して来ないことが関係していた。
以前は時間に縛られない生活を送っていた彼女も即位後は詰まりきった予定消化の為、時間通りに執務をこなしている。
ただどちらかというと、オルティアは夜遅くまで仕事をする代わりに早朝からは動かない。
その為二人も主君に合わせた時間に仕事を始める習慣が当然になっていた。
書類を手に本日の予定を読み上げたニケは、オルティアに「分かった」と返され一歩下がる。
続いてお茶を淹れ終わった雫が、本日処理しなければならない書類の説明を始めた。
働く姿がどう見ても「ちまちま」としか形容出来ない恋人をニケは何とはなしに視線で追う。
何故朝から得体の知れない違和感を覚えていたのか、その理由は分からない。
ファルサスから成り行きでキスクに連れてこられた彼女は、ファルサスとの戦闘を終え、それでもキスクに残った。
そしてその上で彼の恋人になったのだ。どういう成り行きでそうなったのか詳しく思い出せないのは多分きっと疲れているせいだろう。
幸い今日は仕事が早く終わる。それは彼女も同じはずだ。ならば食事をしに城の外に出てもいい。
―――― そんなことをぼんやり考えていた彼は、女王に紙屑をぶつけられ「仕事をしろ」と怒られたのである。






黄昏時に見える城都の景色は十二分に美しい
口に出したことはないが、ニケはそんなことを日々城の廊下から街を見下ろす度に思っていた。
夕闇がゆっくりと覆いかぶさり、暖色の明かりが増えていく。ささやかに揺らぐそれらの灯火は人の帰る場所を連想させた。
本日分の仕事を全て終えた彼は背後から近づいてくる足音に気づいて振り返る。
「仕事終わったのか」
「うん。あんたもお疲れ様?」
「終わった」
大きな黒い瞳は幼くも見えるが、それ以上に温かな感情を湛える愛らしいものだった。
目の前に寄ってきた小さな体をつい抱き締めたくなって、彼はここが城内であることを思い出す。黒髪を乱さぬようその上に手を置いた。
「久しぶりに外に食事にでも行くか」
「あ、ごめん。私今日、姫のところに泊まる」
「…………おい」
久しぶりに早上がりの日。
おまけに二人の休みが合うこと自体珍しいというのに、彼が半日考えていた予定を突き崩すような答が返ってきた。思わずしゃがみこみたい衝動に駆られ、だがニケは何とか踏みとどまる。
彼女が主君と親しいことはよく知っているが、さすがにこれは割り切れない。
「ごめんね」と手を振って踵を返そうとする恋人の肩を、彼は脱力しながらも掴んだ。
「待て。何だそれは」
「何だって言われても。姫が発注していた置物が届いたから、それを整理しろって言われて。すごいんだよ。二箱もあるの」
「女官にやらせろ! そんなことは!」
「ちょっとちょっと。問題発言になるよ」
女王の命令に対して不敬罪とも取られかねない失言に、ニケは後に続くはずの言葉を飲み込む。
それでもここで引いてしまうと何だか非常に損をする気がして彼は手を放さなかった。じたばたする体を手元に引き寄せる。
「待て。明日に出来ないのか、明日に」
「どうしたの急に。そっちこそ明日付き合うよ。駄目?」
「何だか分からんが、明日では遅い気がする!」
自分でもよく分からぬ焦燥に力説すると、雫は不可解、とでも言うように眉を寄せた。小首を傾げて男を見上げる。
「何? どっか予約でもしちゃった?」
「いや別に……」
「明日は他国に出かけるとか?」
「違うが」
「じゃあもうすぐ死ぬ病気?」
「不吉な想像をするな!」
雫はますます困惑した表情になったが、ニケ自身もはっきり説明出来ないのだから仕方ない。
ただ「今日を逃したらもう遅い」気がして焦りが募るだけだ。苛立ちが浮き上がってくる彼の目に、雫は苦笑すると手を伸ばす。
「本当ごめん。でも明日絶対埋め合わせるから……」
小さな手が両頬に添えられる。伝わってくる温かさ。困ったような瞳に彼はまなじりをさげた。小さく息をついて手を放す。
「―――― 分かった。絶対だぞ」
「うん。約束するよ」
腕の中に抱き寄せた体は柔らかすぎて現実味がない。
それでも頬に口付けた時に鼻孔を満たした香は淡い甘さを以って、彼に確かな満足感を与えたのだった。






「…………あの嘘つき女」
朝起きてつい洩れてしまった言葉は、これ以上ないほどに苦々しいものだった。
夢の中の約束。守られるはずもないそれに、ニケは深く溜息を吐き出す。
あの彼女は彼女であって彼女でないのだから、本人が悪いわけではない。
それでも溜息を繰り返しながら支度を整え仕事に向かおうとした彼は、廊下でたまたま遊びに来た雫に出くわして―――― 相変わらずなその顔を不機嫌たっぷりにねめつけてしまった。挨拶をする前に睨まれた雫は目を丸くして男を見上げる。
「どうしたの。なにかあった?」
「黙れ人妻」
八つ当たりを済ませたニケは執務室に入るなり女王に長期の休暇願いを出した。
苦笑しながらもそれを受け取ったオルティアに向かって「姫、おへやのおかたづけしときますよ」と笑いかける女はやはり、夢の中と同じ花の香りがしたのである。