彼の日常

禁転載

胃が痛くなる職場というものは、いつの時代も何処においても存在するものである。
そして魔法大国と呼ばれるこの国において、羨望の目で見られることもある自身の立場が、まさにその「胃が痛くなる」仕事であることをハーヴは知っていた。
別段変わった人生を送ってきたわけではない。生まれた時から魔力があり、城に仕える魔法士に制御訓練を受けるうち、能力を認められ宮廷魔法士見習いとなった。その中で歴史に興味を持ち、研究職を選んで今に至るだけである。
強いて変わっているところを挙げるならば、主君と友人がそれぞれ普通ではない性格の持ち主だということだろうか。
彼ら二人はどちらも能力は高いのだが、まったくそりが合わない。そんな二人の間に立つのは結構胃が痛いものである。
つまりは彼の気苦労はそこに由来していて―――― だから多分、どうにもならない。

「あ、また人参入れたな! 抜いても分かるぞ!」
「見抜かないで下さい、王様。あんまりうるさく言うから皿に盛る段階で避けてあげたんじゃないですか」
「味が染みてる……」
執務室に入ってすぐ聞こえてきた会話に、ハーヴは来て早々脱力しそうになった。
見ると机を挟んでラルスと雫が皿を覗き込んでいる。おそらく彼女の国の料理でも食べているのだろう。
何度言われても王の苦手な野菜を抜こうとしない彼女の図太さに内心感嘆しながら、ハーヴは持ってきた書類を机の隅に重ねた。
王は一番上の一枚だけをちらっと見て「ご苦労」と言うと、再び皿に手を伸ばす。
「これで人参が入ってなかったら完璧だったろうになー。人参のおかげで大崩壊だ」
「人参入ってなかったら締まらないですよ。文句言ってないで食べるんですか、食べないんですか」
「食べる」
全体的に茶色い料理は妙にいい香りを漂わせている。
それを作成した雫は本来研究者であって料理人ではないのだが、しょっちゅう自作のお弁当をラルスに取り上げられ、さすがに我慢の限界であるらしい。城に出仕する時は厨房を借りて王の分も料理を作るようになっていた。同様にしばしば友人の相伴に預かるハーヴは困惑して主君を見やる。
「私も頂いたことがありますが……人参の味などしますか?」
「する。大方あの有り得ないほど鮮やかな物体の中から色のついた汁でも出てるんだろう。それが汚染してるんだな」
「『おせん』って何ですか、王様。また人参の悪口ですか」
「『汚染』とはそのものの持ち味がこの上なく発揮されている状態のことを言う。
 帰ったらあの男に『お前の頭の中は汚染されている』と言うと喜ばれるぞ?」
「陛下……またそのような嘘を」
友人の妻を主君とひとくくりにするのもなんではあるが、正直言ってこの二人の会話を聞いていると胃が痛くなる。
ハーヴはげっそりした顔で書類の説明を済ませると執務室を退出した。
扉を閉める瞬間背後で「反抗しますよ! ウィリアム・テルのように!」「何だそれは。人参の品種か」と聞こえたが、気にしないことにする。
彼の日常はおおむねこのように、溜息をつかざるを得ないものであった。



そもそもハーヴは宮廷魔法士としては研究が本分の側の人間である。
その手の人間は大抵出仕しても自分が所属する研究室に篭りきりであり、書類処理などをすることはほとんどない。
にもかかわらずハーヴが文官のような仕事もしているのは、単に「王と意思の疎通が出来る数少ない人間」と周囲に思われているからであり、ささやかながらも主君に苦言が呈せられる人間だからだ。いつからか当然のように「これ執務室に」と書類の束を差し出されるようになった男は、ようやく研究室に戻ると一息つく。
「陛下はいつまでもああなんだろうか……」
「そうなんじゃないかな」
半ば独り言のようなハーヴのぼやきに、向かいで論文を読んでいたエリクは顔を上げぬまま相槌を打った。
友人から返されたいきなりの結論に、彼は机の上へと突っ伏す。
「……俺最近鉢植え育てるのが楽しくてさ。何か癒される気がするんだよね。ほんと」
「うん」
「あー……体壊したらどっか田舎で畑でも耕そうかな……」
「あれはあれで体力がいるみたいだよ」
「うう」
何処に逃げても大変なものは大変だ。
ならばまだ好きな研究が出来るこの環境は幸福な方なのかもしれない。
ハーヴは結婚してから幾分穏やかになったようにも見える友人を羨む目で見やった。自然と溜息が言葉になる。
「俺も嫁さん欲しいな」
「うん?」
自分と比しての言葉だと気づいたのかエリクが初めて顔を上げた。
あまり感情の見えぬ藍色の瞳が記憶を探るかのようにハーヴの上を往復する。
しばらくして彼は何かを思いついたかのように「なるほど」と呟くと―――― 「庭師に新しい鉢植えを貰いに行くといいよ」とこの話を締めくくったのだった。






ハーヴの生家は城都にあるが、彼自身は宮廷内の宿舎に住んでいる。
単にその方が多くの時間を使えるからなのだが、最近鉢植えを並べている窓辺も手狭になってきた。
これは一度家に戻って庭にいくつか鉢を移してきた方がいいのかもしれない。―――― そんなことを考えながら、図書室に向かうエリクと中庭に面した回廊を歩いていた彼は、ふと外から聞こえてくる怒鳴り声に気づき足を止めた。何となく声の主を探そうと視線を巡らせ、そこで硬直する。
まず目に入ったものは、珍しく庭で弓を構えている主君の姿だ。
武人の中でも力あるものしか引けない強弓。その弦をラルスは難なく引き絞っている。
番えている矢は何故か鏃の代わりに花柄の布の玉がつけられており、そこだけは妙に可愛らしかった。
一体何をしているのか。唖然となったハーヴは王が狙いを定めている先を目で追って、絶句する。
そこには太い木の幹に縛り付けられた雫が青筋を立てており、彼女の頭の上には赤い林檎が乗せられていた。
まったく意味の分からない光景に彼の思考は刹那停止する。
「王様! 外したら怒りますよ!」
「安心しろ。俺は人以外射たことはない」
「それっていいのか悪いのか!」
「あんまり動くな。顔に当たるぞー」
「あーもう! ウィリアム・テルの説明なんてしなきゃよかった!」
意味が分からないのは二人の会話もそうなのだが、察するにどうやら執務室でのやり取りが後を引いているらしい。
思わず呆然となってしまったハーヴは、けれど隣から発せられる冷気に気づいて飛び上がった。庭に出て行こうとするエリクを必死で押さえる。
「すまん! 本当すまん!」
「いいから放して」
「待て! 俺が止めてくるから! 許してくれ!」
何故自分が謝っているのか。芯では忠実な王の臣下である男はそんなことは考えない。
ただひたすら静かに激怒している友人に詫び、詫びながら王を止めようと走った。今まさに放たれようとする矢と雫の間に割って入る。
―――― もっともそれは一瞬遅く、彼の額には見事に布の玉が直撃したのだが。
「うぐおああああああぁぁ!!」
「あ、お前。急に飛び出してくるな」
「ちょ、ちょっと王様! 救急車……」
「治療班呼んでくるよ」
額が割れそうな痛みに庭を転がり回るハーヴは、結局治療を施されるまで気を失うこともなく悶絶した。
だがその苦痛に絶叫している間は少なくとも胃の痛みは感じない。
つまりは彼の日常は大体、そういうものなのかもしれなかった。






「さ、散々な目にあった……」
治療を受けたり報告書類を書いたりなどごたごたしているうちに、すっかり外は黄昏時になってしまっていた。
先程までついていた友人夫妻が帰ったことにより一人になったハーヴは、暗くなりつつある廊下を歩きながら肩を落とす。
主君のやらかしたことに振り回されるのはいつものことだが、怪我までしてしまうことは珍しい。
彼はもう痛まない額をさすると小さく溜息をついた。
「俺って一応魔法士……なんだよな?」
魔法士として、また研究者として城に仕えているはずなのだが時々自信がなくなる。
このような生活に一体何歳まで体が耐えられるのだろうか。
そんなことまで考えた彼は、だが出るはずもない結論にかぶりを振った。硝子窓越しに暮れていく日を眺める。
赤みがかった残照は、綺麗に手入れされた城の庭をもうっすらと染め上げていた。
何処となく物悲しいその景色に、ハーヴはふっと友人からの言葉を思い出す。
「新しい鉢植えか」
少しずれた、というか酷い答をもらってしまったが、エリクはエリクなりに彼のことを考えてくれたのだろう。
窓際は既にいっぱいではあるが、小さな鉢一つくらいならまだ置ける。
いい気分転換になるかもしれないと思ったハーヴは廊下を引き返すと中庭に出て行った。
庭師たちがよく花の苗を育てている裏庭の一角へ回ると、残っていた人影に声をかける。
「あ、ねえ、君」
「は、はい!」
小さな影は急に背後から声をかけられたことに驚いたようだが、それ以上にハーヴも驚いていた。
体格からして庭師見習いの少年だろうと思っていたのだが、返って来た声は紛れもなく少女のものだったので。
庭師の見習いなど女の子にとっては体力的にもきつい仕事であると思うのだが、好んでこの仕事についているのだろうか。彼は少し興味を抱く。

振り返った彼女は頬に土をつけていたが、充分に愛らしい顔立ちをしていた。緑の瞳が新緑にも似て美しい。
少女はハーヴを見ると何故かもう一度飛び上がった。慌てて顔についた泥を擦ろうとする彼女にハーヴは軽く頭を下げる。
「あー、驚かせてごめん。小さな鉢で育てられる植物があったら、何か分けてもらいたいと思っただけなんだけど」
「は、鉢植えですか」
「うん。無理なら別に……」
「あります! ありますから! ちょっと待ってて!」
そう言うと少女は一目散に庭師の小屋に走っていく。
しばらくすると彼女は両掌で包み込めるような鉢を持って戻ってきた。中には薄青い蕾をつけた花の苗が植えられている。
「これ、朝一度だけお水あげてください。少しでいいんで」
「ありがとう」

小さな鉢は見ているだけで気分を和らげてくれるような気がする。
微笑して立ち去ろうとした彼はけれど、少女に「あの!」と呼び止められ振り返った。
「いつも、部屋の窓で鉢に水をあげてる人ですよね。ええと、第三棟の二階で」
「あ、うん。ひょっとして見られてた? かなり早朝だと思うんだけど」
「わたしはあれくらいの時間から働いてるので……」
彼女は大きな手袋を嵌めた両手で顔を覆う。まるで照れているような仕草が何を意味しているのかハーヴには分からなかった。
「またいつでも来てください」という声に手を振って、彼は部屋へと帰る。

次の日彼はエリクに「新しい鉢植えを貰いに行った」との話をした。それを聞いた彼は微笑して「そう」とだけ返す。
そしてこの時の友人の表情の意味をハーヴが知るには、もうしばらくの時間が必要だったのである。