不憫と黒猫

禁転載

その日のキスクは、かなりの土砂降りとなっていた。
硝子の張られていない窓の外、湿り気のある涼しい空気に目を細めると、彼は手元の書類に視線を戻す。
女王に届ける本日分の執務書類―――― だが彼の主君は今、友人を迎えており休憩中だ。
普段多忙を極めている女王のささやかな安寧の時間を邪魔する気は彼にはない。
おまけに訪ねてきている女の顔をあまり見たくないとなれば尚更書類を届ける気にはなれなかった。
執務室の前の廊下で壁によりかかりながら、彼は湿ってしまった髪に眉を顰める。
「……何処か一周してくるか」
このままここで待っていてもいいのだが、それはあまりにも暇で落ち着かない。
どうせすぐには終わらないのだから、気分転換に辺りを歩いてきてもいいだろう。
そう思って寄りかかっていた壁から体を起こした彼は、しかし視界の端で何かが動いた気がして意識を切り替えた。
無詠唱で防御結界を張りながら窓の外を覗き込む。
「何だ?」
ずぶ濡れの黒い毛玉、のように見えるそれは、よく見るともごもごと動いていた。
毛先から水滴を滴らせながら石壁を蹴って窓枠に飛びつき、城の中へと入り込んでくる。
激しく体を震わせ水気を飛ばす毛玉に、水がかかったニケが憮然となった時、それは初めて彼を見上げた。丸く黒い双眸が男を見つめる。
「―――― 猫か」
どこから入り込んできたのか、そこにいたのはすっかり濡れそぼった子猫だ。
濡れてしまったことが嫌らしく、しきりに水気を払おうとする猫をニケはまじまじと見やった。黒い瞳を見て顔を顰める。
「誰かの飼い猫か? 風邪を引きそうだな」
動物が取り立てて好きというわけではないが、嫌いでもない。
彼は震えている猫に手を伸ばすと首の後ろを掴んだ。そのまま軽い体を目の前に吊り下げる。
子猫はもがもがと四肢を振って暴れ始めたが、ニケは軽く猫を振ってそれを留めると反対側の手に構成を組んだ。
「ちょっと大人しくしていろ。乾かしてやる」
彼の人生において猫を乾かしたことなどないが、人の髪を乾かすのと変わりないだろう。
猫は彼の言うことを理解したのか暴れるのをやめた。
ニケは小さな体に構成をかけようとして至近から黒水晶に似た目を見返す。
「……似てるな」
何に似ているか、そのようなことを彼は言わない。
呟きも半ば無意識に洩れてしまったものでしかなかった。彼自身、自分の言葉に気付いて嫌な顔になる。
こんなところで暇を潰しているから感傷的なことを口にしてしまったのだろうか。
ニケは舌打ちすると簡単な構成で猫の毛を乾かした。小さな体は見る間にほわほわと温かくなり、嬉しそうな鳴き声が続く。
晴れてふかふかの毛糸球となった子猫を彼は肩へと乗せた。逃げ出すかとも思ったが猫は大人しくそこに座る。
何となくくすぐったくも思える温かさ。その温度に相好を崩した彼は、城の廊下を歩き出した。肩の上の塊に語りかける。
「ついでだから食堂にでも連れて行ってやる。何か飲むか?」
「貴方優しいですね」
耳元で聞こえたのは柔らかな女の声だ。
思わずぎょっとしたニケは反射的に構成を組みながら跳び退った。
だがそこには誰もいない。ただ肩の上で猫が顔を洗っているだけである。



―――― 変な空耳を聞いてしまった。疲れているのだろうか。
首を振ろうとして猫の存在を思い出した彼は、だがすぐに気のせいだと片付けることにした。
再び廊下を歩き出そうとして……直後再び硬直する。
「いつぞやはおかしな味の魚を食べさせてすみませんでした」
意味の分からぬ謝罪。
しかしそれについて考えようとした時には猫の姿は何処にもなく……数十秒後、彼は少し寒く感じる肩を竦めると、真剣に自身の過労を疑いながらその場を後にする羽目になったのだった。






「ヴィヴィアさん! 猫のデンチ切れちゃったから、電撃通したんです! そうしたら!」
「……壊れますよね」
「壊れました……」