海際

禁転載

南の海は澄んで青い。
それは知識として知っていたことだけど、実際に見ると本当に透明だった。底の白い砂が遠目にも透けて見える。
穏やかな風。美しいと言って差し支えない景色は、彼女にも感銘を与えたようだ。
両手を上げて子供のように喜んだかと思うと、メアと連れ立って砂浜に駆け出していった。
靴を脱ぎながら僕に手を振ってくるので、苦笑して振り返す。



「旅行にでも行ってくれば?」
そんなことを僕に言ってきたのは、研究発表会に出席していたファルサス王妹だ。
彼女は会終了後、僕を呼んでいくつか質問してきたかと思うと、最後にまったく関係ないことを付け加えてきた。
「旅行?」と眉を顰めた僕に、彼女は左右対称な目を非対称に細める。検証不足を注意するかのような声音で補足した。
「貴方、結婚してから何処にも連れて行ってあげてないのでしょう? ヴィヴィアもヴィヴィアで働き始めてるし。
 そのようなことではいつか逃げられるわよ。骨休めも兼ねてたまには旅行に行きなさい。兄上には私から掛け合っておくから」
「そういうものですか?」
「そういうものよ」
―――― 非常に疑わしい。
が、「旅行に行く?」と彼女に聞いたら喜んだ。ので行くことにした。
つまりはそれだけのことなんだよね。



水に入る用の服に着替えた彼女は、躊躇いもなく海の中に入っていく。
本当は彼女の世界ではもっと水抵抗のない専用の服を着るらしい。けどさすがにそれを着られると目立つから。
あまり遠くへは行かないだろうしメアもついてる。心配は要らないだろう。
僕は近くの岩に腰を下ろすと持ってきた本を広げた。
……直射日光で本が傷みそうだな。論文にすればよかった。



「エリク、大きい貝見つけましたよ!」
「うん?」
どれくらい時間が経っただろう。気付くと日は傾きかけていた。
本を見ながら書き付けを取っていた僕は彼女が持っている貝に気付いて目を丸くする。
細い両腕で抱えるほどの大きな二枚貝。少なくとも僕が持っている本の二倍はある。
艶やかな白い表面が目を引いたんだろうな。彼女は目を輝かせて「みてみて」と言わんばかりだ。
「クラボスか。よくこんなもの見つけたね」
「クラボス?」
「魚や動物の死骸を食べる貝だ。普通はもっと深いところにいるんだけど」
「うわああ!」
貝を放り出して飛びのく彼女は顔を引き攣らせていた。
突然何に驚いたんだろう。僕はクラボスを拾い上げる。
「生きてるものは食べないから平気だよ。それより珍しいから持って帰る?」
「も、もってかえれるんですか……?」
「中捨てればいいんじゃないかな」
護身用の突剣を閉じた貝の口にねじ込んで、中をこじあけた。赤黒い中身を剣先でこそぎ落とすと砂に埋める。
その後海水で軽くすすいで綺麗にするまで、彼女はこわごわと言った様子で手を出そうとはしなかった。
様子を見るだにあんまり貝は好きじゃないのかな。
一応「はい」と渡すと、けれど彼女は嬉しそうに笑ってそれを両腕の中に抱え込む。
「あ、ありがとうございます」
「重いなら捨ててけばいいよ」
「いえ。持って帰ります。記念になるんで!」
彼女は「デッカイサクラガイ」と呪文のように唱えながら砂浜を歩き出した。小鳥のメアがその後を追っていく。
よくは分からないけど気に入ったのならまぁいいか。木の実を運ぶリスみたいで面白いし。



暖かな潮風。
水に濡れた服から細い足が伸びている。彼女は裾から滴る水滴に気付くと、片手でスカートをたくし上げた。器用に巻き上げて水を切る。
膝よりも大分上まで顕になった肌は貝の色とよく似ていた。僕は後ろから彼女の肩を軽く叩く。
「そういうことしない」
「え。何でですか?」
「足が見える」
「元々見えてますよ」
「その通り」
異様に丈の短い服を着るくらいなんだから、こういうのは言っても通じないんだろうな。夜着についても無頓着だし。
彼女はまだ水の垂れている服を見下ろし首を傾げた。服の裾は変わらず握ったままだ。
「コウコウセイの時、よくこういうことしました。セイフクのスカート絞って」
「コウコウセイ?」
僕には何のことだか分からなくても、それは彼女の大事な記憶なんだろう。黒い瞳が郷愁に揺れる。
彼女のそういう表情は綺麗で―――― そこにあるものはお互いどうしようもない空隙だ。それをなくそうなどとは思わない。
彼女には彼女の蓄積が、思考が、選択があって、「彼女」となった。
僕もそれは同じ。人と人は、望もうとも完全に一致などし得ない。ただ選んで在るだけだ。



「エリク?」
問う声は心地よい。答える声は楽しい。彼女は僕の隣で僕を見上げる。
「コウコウセイって学徒の一種ですよ」
「そうなんだ。ところでまだ服絞るの?」
「重いんですよ。べたーって張り付くし」
「そう? じゃ、見えてるところなら触られても文句ないね」
剥き出しになっている腿の裏を軽く叩くと、彼女は「ぎゃー!」と叫んで走り出す。
あまりにも慌てて逃げていくからつい捕獲したくなるけど―――― その必要はないだろう。結局帰る場所は同じなんだから。