無知と無垢 006

禁転載

ドアートは六十年前、大陸の中央北東部に出来た国だ。
戦乱によって国々の興亡が続く最中、隣り合う二国が婚姻によって結ばれたというこの国の成立は、誰から見ても例外的な平和に満ちたものだったろう。
隣国の王女を請うて娶った当時の王は、約四十年前に病没し、今はその第一子が王となっている。
標高が高く気温も低いこの国は、訪れる為に東西に広がる山脈を越えていかねばならぬ為か、王位が継がれてからは何処に攻め込まれることもなく静けさに似た平穏を享受していた。
そのドアートの街に到着したオーティスは、ひとまず宿を取ると部屋の内側に強固な結界を張る。その様をヴェオフォルミネは、床に座り込んで眺めていた。
どうにもこの少女は、椅子より床の方が落ち着くのか、菓子を出された時以外は床に座っている。
何度注意してもそうなので、オーティスはこれについてはのんびり直させようと思っていた。
「よし、俺が帰ってくるまでこの結界の中から出るなよ」
「わかった。どれくらいで帰ってくる?」
「夜までには」
そう言ったオーティスは、少し考えて付け足した。
「もし明日まで俺が戻ってこなかったら、トゥルダールに戻ってろ。座標は取ってあるな?」
「取ってあるけど、オーティスはどうするの?」
「後でそっち迎えに行く」
―――― 万が一エルシリアと戦闘になって敗北したなら。
そうなる可能性は低いが、まったく無いわけではない。念の為付け足す男に、少女は薄い青の瞳を向けた。
「オーティス」
鏡のように何もかもを映す双眸。自身を見上げてくる目は、彼女と同行するようになって二週間ほど経った今でもまだ慣れない。
オーティスは内心の僅かな動揺を押し隠して、彼女に向き直った。
「何だよ」
「わたしも結界かけていい?」
「ん? なんだ、そんなことか。別にいいぞ」
トゥルダールに行く行かないについてごねられるのかと身構えていたオーティスは、予想外の要求に拍子抜けしてしまった。
了承をもらえた少女は、音をさせずに立ち上がると、駆け寄ってきて彼の胸に抱きつく。
「―――― 『あなたを傷つけるものが何もないように』」
まるで祝福の言葉のようなそれは、だが確かに魔法詠唱だ。
初めて聞く形式の詠唱。オーティスの全身を少女の魔力が薄く覆う。
それは彼女の他の魔法と同じく構成の見えぬまま、体の表面に馴染んで消えた。もともと不可視の性質が強いヴェオフォルミネの術だ。必要となる時までそうして潜んでいるのだろう。オーティスはぽつりと呟く。
「結界って俺にか」
「うん。いってらっしゃい」
自分を守る為に部屋の結界を強化するのかと思っていた男は頭を掻いた。
誰かに守護されることなど随分久しぶりで、何だかくすぐったい気さえする。
「ありがとな。行ってくるよ」
―――― 待っている子供がいる以上、何としても無事に帰ってこなければならない。
国を出て一人になったはずの自分が、再びこのような繋がりを得たことに、オーティスは複雑な感慨を抱いた。
或いは王の指輪を返すようヴェオフォルミネを送り出した親友も、こうなることを見抜いていたのかもしれない。
現実と生に、彼を繋ぎとめる存在。
扉に手をかけたオーティスが振り返って手を振ると、ヴェオフォルミネは抱えていた人形の手を振り返した。






問題の古城は、宿を取った街から更に北へ細い山道を登った先にあるという。
オーティスは街の雑貨屋で幾つか物を買い込みながら、古城について店の主人に尋ねることにした。
旅の防寒具や携帯食糧なども扱うこの店には、似た質問をしていく客が多いのかもしれない。初老の男は、平凡な男に見えるオーティスを鼻で笑う。
「ろくなことにはならないと、一応忠告はしておくさ」
「魔物がいるからか?」
「何がいるかなんて誰にも分からない。あの城に向かった人間は誰一人帰ってこないんだからな」
「誰一人? 今までどれくらい行ってるんだ?」
「二月に一人は。多い時は数人連れ立って行く」
「それらが全員帰ってきてないのか?」
オーティスが念を押すと、主人は口の片端だけを上げて応えた。好んで死に行く者たちに向けるその笑いは、いささか乾き過ぎている。
だがどの道誰も帰ってこないのなら、有用な情報も得られないだろう。
礼を言って店を出て行こうとするオーティスは、しかし扉を開けたところで主人に呼び止められた。
「そういや、先月一人だけ戻って来たな」
「一人だけ? そいつは何か言ってたか?」
自分の力に自信が無い訳ではないが、情報はあるに越したことはない。
そう思って確認するオーティスに、主人は大げさに肩を竦めて見せた。
「それが、女がいたって言うのさ。えらい上玉が」
「女?」
人外であるエルシリアの冴えきった美貌が頭をよぎる。
―――― これはもしかして当たりかもしれない。
店を出たオーティスは改めて気を引き締めると、厚手の毛衣に細い剣だけを佩き、古城へと続く山道に馬を向かわせた。



細い山道は、慎重に進めば城まで三時間程であるらしい。
だがオーティスは人目がないのをいいことに、魔法の補助を使って一時間足らずで問題の場所に到着していた。
標高が高い為、冷え切った空気が露出した肌の部分にしんしんと突き刺さる。
草木も生えない岩山の頂にあるその城は、のしかかってくるような曇天の下、青黒い壁を曝して聳え立っていた。
馬から下りたオーティスは、威圧感ある城の外観を見上げる。
「瘴気が濃いな……」
普通の人間ならば、すぐさま心身に変調をきたしそうな程の瘴気が辺りに充満している。
このままでは多少の耐性がある彼にも影響が出てしまうだろう。オーティスは霧を払うように右手を軽く振るった。自分に結界を張って瘴気を吸い込まないようにする。
「さて、行ってみるか」
その口調や素振りに気負いはない。彼は正面の扉へと続く石段に向かった。
「うお、滑るな、これ」
上り始めたところ、青黒い石段は薄く凍っているらしい。途中で危うく転びそうになって、オーティスは態勢を立て直す。
「氷に気をつけろってこれか?」
だとしたらヴェオフォルミネの占いもなかなか当たる。
階段を上り終えたオーティスは、大人の背丈三人分はありそうな扉を見上げた。様子を窺いながら、その表面に軽く手を触れさせる。
それだけで扉は石の軋む音をさせながら奥へと開いていった。途端中からは氷粒混じりの冷たい風が吹き付けてくる。
「ふーん……?」
容赦なく体温を奪っていく寒風は、吸い込めば肺の中まで凍らせてしまいそうだ。
オーティスは澄み切って冴えた空気の中へ、面白くもなさそうな顔で足を踏み出す。
城内は窓がないのか、まだ昼前だというのに暗い闇に閉ざされていた。外からの光で見える範囲は狭いが、かなり広い空間ではないかということは肌で感じる。
周囲を軽く見回したオーティスは、手の中に小さな光球を生むとそれを頭上に浮かせた。とりあえずは真っ直ぐ奥を目指して歩き出す。

扉から正面の奥へは、黒い円柱が左右等間隔に並んでいた。
まるで通路を示すようなその間を彼は進んでいく。冷え切った風は向かう先から吹いてくるようだった。
「ヴェオフォルミネ連れてこなくてよかったな」
あの少女は、オーティスの見るところいまいち肉体的疲労や苦痛への感覚が薄いようだ。このようなところに連れてきたら、凍えている自覚がないまま体調を崩してしまうかもしれない。
オーティスは魔法の光球をほんの少しだけ先行させながら奥へ奥へと前進した。
十数本目の柱の傍を通り過ぎた直後、背後でひゅっと音が鳴る。
暗闇からの不意打ち―――― 背に向かって鋭く振り下ろされた刃は、けれど彼には届かなかった。目に見えぬ結界に遮られ、音もなく跳ね返る。
驚愕の気配が生まれるのに対し、呆れ顔でオーティスは振り返った。
「そんな無防備に入って来るわけないだろ。瘴気避けや防寒も兼ねて結界張ってるっての」
「貴様……魔者か!」
「そういうお前は何の格好だ」
冷ややかに返されて、黒いローブを目深に羽織った男は動揺を見せた。身を翻して逃走しようとするのを、オーティスは指を弾いて留める。
突如足を動かせなくなった男は、上半身だけで泳ぐようにもがいた。
「な、なんだこれは……! お前は化け物か!?」
「単なる無詠唱の魔法だけどな。それより聞きたいことがある。……ここで何をしてる?」
オーティスの声音は、最後の問いだけすっと冷えて響いた。 吹き付ける氷片混じりの風にも劣らない程で、聞く者の心胆を寒からしめる。
黒衣の男は見る間に顔を青ざめさせた。
「何をとは何だ! お前こそ何しに来たのだ!」
「質問に質問で返すなよ。床にめり込ませてやろうか」
相手には魔力がない為構成は見えないのだろうが、その分オーティスが軽く手を上げただけで脅しになったらしい。びくりと身を竦めた男は凍りかけの唇をわななかせた。
「何も……何もしていない! ただ警告しようとしただけだ。この城に踏み入っては危ないと……」
「そりゃ強い魔法士がいるからか?」
オーティスの反問は、男の顔色を完全になくしてしまった。ただ口をぱくぱくさせるだけの相手に、彼は更に追い打ちをかける。
「この辺りは昔から異界に近いって言われるくらい瘴気の濃い場所なんだよ。でもそれが城の中だけ綺麗に拭われてる。
 こんな真似が出来るのは相当強力な魔法士だろ? 一体何が起きてるんだ?」
城の扉を開けた瞬間、「空気が澄んでいる」と感じた。
それはつまり、誰かが意図的に瘴気を取り除いているということだ。魔族であるならそんな必要がないのだから、おそらくは人間の為にであろう。
オーティスはすぐに自分が外れを引いたと分かったが、それでも城内の様子を確かめに来たのは、誰も帰ってこないという城で誰が何をしているのか気になったからである。
侵入者を待ち受けていたと覚しき黒衣の男は、うろたえて視線をさまよわせた。
「わ、私は何も知らない。奥になど行ったこともない」
「嘘ついても分かるんだよ。あのな、お前ここにいるなら魔法士を見たことあるんだろ?
 ならちょっとは状況を自覚しろ。俺は多分、ここの魔法士より強い」
それは黒衣の男にとって決定的な脅しであったらしい。
男は冷えきった喉を大きく鳴らすと、この城について知っていることを話し始めた。