無知と無垢 007

禁転載

女の手は眠れる我が子の髪をそっと撫でていった。
子供の冷え切った銀髪は寝台の下まで伸び、ゆったりと波打って石床の上に広がっている。
透けるような白い肌は、広い室内に跳ね返る眩い光よりももっと清んで儚く見えた。
血の気のない頬を、母親の指は優しくなぞっていく。そこに込められたものはただの愛情だ。
女は柔らかく微笑んだ。
「今日もいい天気よ。空気が澄んでいるわ」
そう言って彼女は部屋の中央を振り返る。小さな石の台座に置かれた透明の球体からは、凍てついた風が吹き出していた。
氷片混じりの風は球の周囲に渦を巻いて広がり、部屋全体を冷やしめている。
それをだが、女はまったく気にもしていない。笑顔で我が子に語りかけた。
「今日もいい日よ。―――― 誰もあなたを脅かす者はいないわ」
優しい声は眠る子の上を通り過ぎる。
氷の寝台に横たわる幼子は、そうして今日も目を覚まさぬまま、銀の髪だけが凍る風に揺れていた。



「この城にはな、狂女が棲んでいるんだ」
黒衣の男の声は、がらんとした城の広間によく響いた。忌まわしいものを語るような声音に、オーティスは眉を顰める。
「狂女? そいつが魔法士なのか」
「ああ。魔者狩りに追われて逃げ込んできたらしい。人里離れたここに来て、子供と一緒に暮らしている」
「なるほど?」
魔法士が人に追われて僻地に移り住むのは珍しいことではない。
だがそれだけでは説明出来ないこともあるのだ。オーティスは男の顔を指し示した。
「それで? お前は何でこんなところで人を襲ってるんだよ」
「そ、それは……」
「さっさと言えよ」
口ごもりかけた男は、けれどオーティスが指先に火花を生むと慌てた顔になる。
「ほ、宝石がもらえるんだ」
「宝石?」
「ああ。ここに来た奴を生きたまま一人捕まえると、その女から宝石が一つもらえる。だからこうして―――― 」
「捕まえられた人間はどうなるんだ?」
その切り替えしは痛いところを突いたらしい。押し黙る男の蒼白な顔を見て、オーティスは大体を察した。舌打ちしたい気分で髪を乱雑に掻き回す。
「まったくなぁ……子供を連れて、いつまでも続けられることじゃないだろうに」
自分たちを追い払った人間を憎み、追っ手を排除し続けたとしても、それで一生の安寧が買える訳ではない。
ましてやこのような場所で不穏な噂を立ててしまえば、いつ大掛かりな討伐隊が差し向けられるかも分からないのだ。
オーティスは窓もなく真っ暗な城内を見回す。
触れれば痺れそうな程冷やされた内部は、人を拒絶する住人の在り方そのものなのかもしれない。
わざわざ瘴気の濃い土地の只中に、浄化した空間を作って住んでいるということ自体、徹底した排他意識の表れだ。
オーティスは震えている男を見やる。
「とりあえず、お前はここ出て、もう来るな」
「え?」
「一応口外も禁止な。自信ないって言うなら記憶弄るが」
それは脅しではなく、考え事をしながら本当に思ったことを言っただけなのだが、男はそう取らなかったらしい。
ぶんぶんと首を横に振る男に向けて、オーティスは軽く手を払った。それだけの動作で開かれた転移門が、男を飲み込んで城外に放り出す。
一人になったオーティスは、頭上の明かりを強化しようとして己の失敗に気づいた。
「しまった。道聞いときゃよかったか……」
まだここは城の最初の広間だ。この先何があって何処に住人がいるのか、把握していれば楽に進めただろう。
だが外に放り出した男を追いかけて聞きなおす気にもなれない。
オーティスは軽く肩を竦めると、闇に閉ざされた城の奥に向かって歩き出した。

―――― 魔法士への差別をなくして、それから先どうするのか、と。
かつて親友の男に聞かれたことがある。「今ある差別が消えても新たなものが生まれるだけだ」とも。
だが先ばかりを見て動かなければ、現状は悪化していくだけだ。迂遠に思えても一つ一つ潰して行くしかない。
そうして今、紆余曲折の末エルシリアを追っているオーティスは、行き当たった脇道において、凍れる城の階段を一段一段踏みしめていた。
完全な闇に包まれていた城内は、上に行くに従って明るくなりつつある。
彼はそれを最初、上階には窓があるのかと思っていたが、そうではなく壁の上に張った氷が上階からの光を反射しあっているだけのようだ。オーティスは見通せない上を仰ぐ。
「何処から入ってくるんだろうな、この光は」
妙に白く透き通っているところを見ると、自然の光ではないのかもしれない。
凍りついた階段は気を抜けばつるつると滑り、オーティスは壁に手をつきたく思ったが、冷え切った壁に触れたならたちまち指を痛めてしまいそうだった。
彼は仕方なく用心しながら、捻じ曲がった螺旋階段を上っていく。
吐く息は白く、冷たい空気を吸い込んで喉がしんしんと痛んだ。そう言った肉体の痛みはオーティスに、自分がまだ人間であることを思い出させる。
魔法を操ることに慣れすぎてしまえば、時に人並の感覚からも遠ざかってしまう気がするのだ。
彼は結界を調節しつつ、ようやく階段の終わりにたどり着いた。 そこには光に満ちた廊下が緩く弧を描いて左右に広がっている。
人の気配はない。動くものもない。オーティスは辺りを見回すと、左へと歩を進めた。
それは半ば勘のなせる選択ではあったが、勘だけでもない。
「こっちから魔力……の気配がするんだよな」
弧を描く廊下を吹き抜けていく風は、不思議な魔力混じりのものである。
その源泉を辿りつつ、オーティスはついに突き当たりの広間へとたどり着いた。
開け放たれたままの扉。一歩踏み込めば眩しい光に目が眩みそうになる。
床も壁も一面氷のその部屋は、外の真昼よりもずっと白く鋭い光によって満たされていた。
彼はまず、部屋の中央に置かれた透明の珠を見る。
この城中を冷やしめている風は、この球体が何処からか召喚しているらしい。
おそらくは雪山などから呼んでいるのだろう。風は球体が帯びる魔力と混ざり合い、それ自体が瘴気を払う風となっていた。
つまりこの城が凍えるような温度に保たれているのは、氷風の為せる業なのだろう。
普通の魔法士であれば、瘴気を払う為にこのような手段はまず取らない。
そのことに驚いたオーティスは、しかし球の台座の向こうに寝台を見て得心した。
氷で出来た寝台。その上には十歳になるかならないかという子供が仰臥している。
性別の分からない美しい顔立ちに銀色の髪は、隣に立つ女のものとよく似ていた。
魔法士狩りに追われてきたという母子。狂女と言われた女は、ゆっくりと視線を上げオーティスを見る。
そこに恐れや敵意はない。何もない銀色の双眸はだが、少しだけ憐れを思わせた。
青白いドレスの女はたおやかに微笑む。
「また誰かいらしたの」
「ちょっと人を探しててな。見当違いだったみたいだが」
短い応答は何の変哲もないものであったが、オーティスは急激に警戒を高めた。
それは女との間にどう変えることも出来ない「通じ合わなさ」を嗅ぎ取ったせいで、それがゆえに彼女は狂女と思われていたのだろう。
銀色の女はその手で子供の髪を撫でる。
「どんなに来られてもこの子は渡せません。わたしの大事な子なのです」
「子供を奪いに来たわけじゃないんだ」
「だとしても同じこと。ちょうどそろそろ次が必要なの」
女はオーティスに向かって手を上げた。
背後で扉が軋みながら閉まっていくのを、彼は肩越しに一瞥する。
―――― はたして話が通じるだろうか。
エルシリアを探してここまで来た。だから戦うならば、はじめから不足はない。
だがこの女はどうやら子供の為に動いている。それをどう言葉に直せばいいのか、オーティスは慎重に相手の様子を窺った。
扉が閉められたせいか、氷片混じりの風は広間の中で渦を描いている。
結界を張っていてもなお体温を奪っていくそれは、人を遠ざけ眠らせる女の意志そのものだ。
そして今、彼女の意識はオーティスの上にある。
彼は、寝台に眠る子が胸の上で大きな赤い石を握っているのを見て、納得とも溜息ともつかない息を洩らした。
血の気のない青白い肌。それは母親である女とも共通するものだが、その色の意味することまでが母と同じではないのだとオーティスには分かった。
一触即発の空気を肌に感じつつ、彼は口を開く。
「その宝石は、ここに来た人間を元にして作ったものか?」
女はうっすらと微笑んだ。何の抵抗も罪悪感もない表情は、オーティスをかえって冷静にさせる。
―――― 血の色よりも鮮やかな赤は、人の生命力そのものだ。
彼女は捕らえた人間たちからこの石を作り出し、自分の子供に与えていたのだろう。
そして石の力がなくなれば、それを黒衣の男に与えていた。
オーティスは宝石目当てで人間を捕らえていたあの男が、果たして石の正体を知っていたのか疑問に思う。
彼はもう一つの疑問を口にした。
「その子供の父親は? どうした?」
「人間に殺されたわ」
「魔法士だったのか」
「そう」
「この城を浄化している魔法はその男から習ったんだな」
「ええ。……どうしてそんなことを聞くの?」
不思議そうな目になった女は、そこで少しだけ空気を和らげた。オーティスはつられて苦笑する。
「俺も最初は魔法士がやってるんだろうって思ったからな」
だがそうではなかった。
彼は、自分に向けられる銀色の目へと向き合う。姿勢を正し、よく通る声で語りかけた。
「いいか、よく聞くんだ」
「なに?」
「その子供は、もう死んでる」
凍てついた風。輝ける広間はその一瞬、時を止めたようになる。
軽く見開かれる銀の瞳は空虚に近く見えた。オーティスは女へと続ける。
「半妖は半妖であって、やっぱり人間に近いんだ。お前とは違う。体が残っていても、生気を与えても、生き返ることはない」
「…………なにを」
「中級魔物って感じじゃないな。水妖か? 氷精か? 人を愛してその子を産んだか。
 だがもうこれ以上は無意味だ。その子はちゃんと弔ってやれ。
 そしてお前は元の棲家に戻るんだ。人間に捕まる前にな」
オーティスの言葉に、人ならざる女は沈黙する。
その双眸に人が持つような理解はない。彼は銀色の目がぞっとするような光を帯びるのを、注意深く見つめていた。