無知と無垢 008

禁転載

見渡す限りの白の世界を、今でもよく覚えている。
そこは彼女が長い長い時を過ごした場所だ。誰もいない、何の姿も見えない場所。
雪と氷ばかりで変化のない世界に、一人の人間が彷徨い込んできたのは、いつのことだったろうか。
彼女が姿を現すと、男は掠れた声で「人に追われてきた」と言った。
初めて見る人間は、今にも凍えて息絶えそうに見えた。だから彼女は男が死んでしまわぬよう、雪のない場所まで導いた。
二人はそれから、十年を共に生きた。






女の纏う空気には明らかに敵意が混ざっていた。周囲の壁が急激な気温の低下にぱきぱきと音を立てる。
普通の人間であればすぐに身動きが取れなくなる程の冷気に、オーティスは素早く結界の気温調整を強化した。
「まずったかな……」
正面から事実を言うということは、魔物ではない人外を相手にする時の常套手段だ。
彼らの多くは純粋で、嘘を嫌う。だからこそオーティスも、言いにくい事柄と分かっていながらそれを口にしたのだが、女の目は爛々と怒りに輝き、まるで彼を子供の仇のように睨みつけていた。
オーティスは冷えた五指を軽く握って確かめる。寝台の上で美しい子供は相変わらず眠ったままだ。
―――― 彼女の子が何故死んだのか。
それを今更確かめることに意味はないだろう。
人間に殺されたのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
ましてやこの城の冷気に耐え切れずひっそり息を引き取ったなど、あってはならないことだ。
だからオーティスは握った右手を前に差し出した。
「一つ、詫びておきたい」
「なにを」
「人の愚かさによって、お前の運命を捻じ曲げてしまったことを」
人と人外との婚姻は、古くは神代から稀に聞く話ではあるが、それらの婚姻において不幸になるのはいつも人ならざるものだ。
彼らは人に請われ、その温かさを愛し、最後には裏切られ、また一人に戻る。
そもそもの寿命からして違うのだ。それに加えて魔法士弾圧の軋みを受けた彼女に、オーティスは心から申し訳なさを抱いていた。
しかし女は、その謝罪に理解出来ないといった目で返す。
「関係ないでしょう」
「俺には、か?」
「何も。何ものにも関係ない。私はただこの子を守るだけ」
拳を差し出すオーティスに、女は両腕を広げて見せた。
その手から氷片混じりの風が白く吹き出す。風は空中を走り、途中から細く鋭い氷柱となって彼へ向かった。
十数本あるそれらに対し、オーティスは握った拳を横に払う。
魔力を込めた一閃を受け、たちまち氷柱は全て砕け散ったが、その破片は正面から彼へと吹き付けてきた。結界が粒状の破片を相殺していく。
だが粉程にまで細かくなった氷は、その隙間を縫ってオーティスの顔へと向かった。
彼は、目を傷つけられないよう咄嗟に瞼を下ろす。むき出しになっている肌の上を、細かい粒の奔流が掠めていった。
痺れるような痛みが走る。それはけれどすぐに消えうせた。代わりに温かい感触が肌の上を包み、オーティスはようやく目を開ける。
「ヴェオフォルミネがかけてった結界か……。氷に気をつけろってこのことか」
おそらく氷精であろう女の力は、魔法とは似て非なるものだ。
魔法士を相手にする時とは勝手の異なる攻撃は、彼自身の結界をかいくぐったが、少女はここまでを見越して結界を用意していたのかもしれない。
オーティスは頬に触れて滲んだ血を拭う。相変わらず風を呼び出し続ける女の両手と、部屋の中央の球体を見た。
三箇所から生まれる風は、糸を縒りあわせるように絡み合って広間の中をうねっている。
まるで不可視の大蛇がのた打ち回っているような暴風。押し流れそうな空気の圧力の中で踏みとどまりながら、オーティスは右手を透き通る球体へ向けた。溜息混じりの声を落とす。
「傷つけずに済むなら、それが一番いいんだろうけどな」
このまま死した子と共に城にいても、それはやがて破滅する不毛でしかない。
オーティスは苦い思いを噛み締めながら、右手に精密な構成を練った。出来上がったそれを、球体に向けて打ち出す。
目に見える変化はない。
だが構成が球の中に溶け入った瞬間、風の勢いがふっと緩まった。銀色の目が訝しげに周囲を見回す。
「……なに?」
「んー、いやちょっとな。その球の効果を反転させた」
「反転?」
その言葉の意味はすぐに知れた。
若干弱まった氷風が、勢いを取り戻して動き始める。
ただそれは今までのように広間の中を渦巻くのではなく、真っ直ぐに中央の球体に向かって吹きつけ始めた。
正確には風が吹きつけているのではなく、球体が空気を「吸い込んで」いる。
―――― 効果の反転。
普通ならば人外が為した術の書き換えなど出来るはずもない。
風を召喚していた球が、今やその風を全て引きこんでしまっていることに、女は愕然とした表情になった。
「……あなたはなに?」
「人間だ。これでも一応な。そしてお前を殺すつもりはない。この城を出るよう勧めているだけだ」
対魔物用の準備はしてきている。女を殺そうと思えば容易い。
だがオーティスは、出来ればそのような結論をここで選びたくはなかった。

風が止む。
女が両手を下ろす。
それと同時に、球体へと流れていた空気もその動きを止めた。
男との力量差を感じ取ったのか、女は虚ろな声で問う。
「どうすればいいというの」
「元の棲み家に戻れ」
「この子を置いてはいけないわ」
「連れて行っても、もう目覚めることはない」
「でもそうしたら、わたしはまた一人になる」
女の声は、感情的ではなかった。
ただ銀色の瞳に浮かぶものは、どうしようもない欠乏だ。
おそらく彼女は人の温かさに触れて、それが恋しくなってしまったのだろう。
以前は当然であった孤独が今はもう厭なのだと告げる目に、オーティスは思わず押し黙った。じっと己の右手を見る。
「それでも……お前はこのままでいられない」
人と出会って変わってしまった彼女は、変わらないままではいられない。
彼女自身が不変を望んだとしても、やがては時の流れが彼女を押し流すだろう。
人の世に存在する者は皆、変化を受け入れなければならぬのだ。
オーティスは構成を宿した右手をかざす。
「いいか、お前はこれから自分の未来を選ぶんだ。
 子供や夫の記憶を持ったまま元の棲み家に帰るか、人との記憶を失ってただの氷精に戻るか。
 ……あるいはここで、俺に殺されるか」
彼女にとっては、記憶を失う方が幸せなのかもしれない。
オーティスは記憶操作の構成を手の中に生みながら、だがそれでも、彼女がその道を選ばなければいいとも願っていた。
忘れ得ぬ記憶を抱いて生きていく―――― そう出来るということは、とても苦しくて、だが幸福なことでもあるだろう。
たった一つの思い出が人を救うことも確かにある。記憶とは、人をその人足らしめる基盤だ。
だから彼女も自分を失わず生きていけばいい。
そう思うオーティスを、女の虚ろな目が見返す。
「わたしは……」
「みつけた、オーティス」
唐突に後ろからかけられた声は、抑揚のないまま広間内に響いた。
名前を呼ばれた彼はぎょっとして振り返る。閉ざされたままの扉の前には白い少女がいて、青い目で彼を見ていた。
宿にいた時のままの彼女は、彼のいる場所を探査して転移してきたのだろう。大きな目で男とその向こうにいる女を視界に入れる。
「なにしてるの?」
「ヴェオフォルミネ、お前なんで来たんだ」
「結界に触ったから」
「ああ……」
先程の結界が発動したことで、ヴェオフォルミネは異常に気づいたのだ。
少女はオーティスの前まで歩いてくると、血に汚れた顔に手を伸ばした。ぺたぺたと触れて傷の有無を確かめる。
彼は苦笑してその手を取った。
「大丈夫だ」
「ほんとう?」
「本当。だからヴェオフォルミネ、大人しくしてろよ」
細い体に自分の上着を脱いでかけたオーティスは、女へと向き直る。氷精は首を傾けて、彼の向こうの少女を見ていた。
しかしヴェオフォルミネは、自分を見ている人外よりもその傍に横たわる子供のことが気になるらしい。氷の寝台を指差した。
「あれ、死んでるの?」
言葉を選ばない問いにオーティスはひやりとしたが、女はそれに怒り出しはしない。ただ悲しげな目で我が子を見た。
ヴェオフォルミネは不思議そうに女へと視線を移す。
「あの人、お母さん?」
「そうだ」
「子供でも、お母さんより先に死んだりするの?」
しんと冷えた広間にこだまするその疑問は、悲しげな女の目よりもずっと空虚な音を持っていた。
喪失を当然のものとして踏まえた問い。 それがヴェオフォルミネ自身の境遇から来るものだと、女も悟ったらしい。彼女は白い少女を見つめた。
「あなたのお母さんは?」
「いない。殺された」
「あなたも一人?」
ヴェオフォルミネはそれには答えない。
少女の双眸は、窓のない城で唯一つ自由の色を持っている。
澄み切って美しい蒼。だがそこにはあるべき人の感情が見えない。
人外よりも余程人外に近い少女の様子に、オーティスはその瞬間一つの危惧を抱いた。
そして女も同じものを感じたのだろう。彼女は声を和らげ、ヴェオフォルミネへと手を差し伸べる。
「なら、わたしと一緒に行きましょう」
「どうして?」
「一人だけだと悲しいから。わたしはあなたのお母さんになれるわ」
女はそう言って微笑む。彼女が初めて見せた穏やかな表情に、だがオーティスは手を広げてヴェオフォルミネの前に立った。
「駄目だ。この子は俺が預かってるんだ」
死した子の代わりにまったく別の人間を連れて行こうとする。―――― それは人間では理解しがたい行為なのかもしれない。
だがオーティスは、人外とは根本的には理解し難いものだと身を以って知っていた。彼らはどれ程人に似通って見えても人ではない。
実際女の目には、ヴェオフォルミネが自分に近しいもののように見えているのだろう。
女は少しだけ苦笑した。
「あなたには分からない。でもわたしたちはちょうどいいでしょう? 二人でいればもう悲しくないわ」
子を失った母と、母を失った子と、繋ぎ合わせて安息を得ようと望む純真さ。
それにオーティスが反駁しかけた時、だが彼の背後からは淡々とした答が返った。
「わたし、悲しいって分からない」
「ヴェオフォルミネ?」
「悲しくない。悲しいと思えない。わたしの魂は欠落している。わたしは作られた子供だから」
我が事を他人のように謳う声は、確かに悲しみに満ちたものではなかった。
目に見えぬ空隙が広間に生まれる。
欠落した、作られた子供。その言葉に、オーティスは或る過去の出来事を思い出した。


それは遠い東の国で行われた魔法実験。魔法士の尊厳を踏み躙る事件。
ある王が、五十人の女たちの命と引き換えに、強力な魔力を持つ子を生み出そうとした実験だ。
つい先日滅びたという国ローステン。
十五年前、彼の国が行った実験により生まれた子らは、皆が強力な魔法士で―――― そして全員が魂の不具者だった。


「お前、ひょっとして『惨禍の子』か」
人為的に作られた魔法兵器「惨禍の子」。彼女がそうだというのなら、異常な程の魔力があるのも納得出来る。
そうでなければいいと思うオーティスに、けれどヴェオフォルミネは無造作に頷いた。
「そう。言わなかった?」
悲しみのない少女の言葉に、咄嗟に何も返せない。
ただオーティスは女のことも忘れ、ヴェオフォルミネを腕の中に抱き寄せた。