魔女 013

禁転載

多くの過去を辿る夢。
無作為に抽出されたとも思える記憶に、共通するものがあるとしたら、それはいずれも彼自身の転機であったということであろう。
連なる点を繋いで線が生まれるように、オーティスはささやかな転機を幾度も踏んで今まで歩んできた。
それらの点を振り返る夢は、まるで覚えていながらも忘れてしまったことを一つずつ拾い上げていくかのようだ。
夢と夢の間に挟まれる暗闇に、彼は現実を思い出す。
変えられたもの、失ってしまったもの。
今、彼の眼前へと再び差し出された記憶は、一人の人間が人外へと変わる軌跡で―――― そして何よりも卑小なる人間の軌跡だった。






長い銀の髪は立っていても床につくほどだ。
石床をこすりそうになっている毛先を一瞥して、オーティスは「後で少し切らせようか」などと考える。
窓のない辺境城砦の一室。彼の気が散っていることに気づいたのか、女が軽く眉を上げた。
「ちゃんと話を聞いていたのか?」
「聞いてた聞いてた。よろしく頼む」
「……本当に聞いていたのか?」
念を押されるのも無理はないだろう。これは彼個人に限って言えば、最大の転機とも言える決断なのだ。
それを軽く肯定しては正気を疑われても仕方ない。女の黒い瞳が疑わしげに自分を凝視するのを見て、オーティスは顔の前で手を振った。
「本当に聞いてたって。つまり禁呪の一種ってことだろ」
「禁呪などという分類はそもそも人間が勝手に決めたものじゃ。
 だがこの術の代償は大きい。力を得る代わりにおぬしの運命を売るのじゃからな」
「分かった。じゃあ頼む」
「……本当に聞いていたのか?」
二度も同じ言葉で念を押され、さすがにオーティスは顔を顰めた。
普段からあまり信用されていないとは思っていたが、それにしてもこれは酷い。
彼は乱暴に自分の髪を手で掻き回すと、言われたことを確認し直した。
「俺はお前と契約して魔力を得る。でもそれには俺の運命をお前に売り渡さなきゃいけないってことだろ」
「そうじゃ。その間おぬしの肉体は成長しなくなる。髪や爪は伸びるがな。老化はしない。同じ時間に停滞し続けるようなものじゃ」
「それだけ聞くと別に大したことないって思うんだけどな」
「契約中は後継も出来ない。王になるのなら致命的ではないか?」
「別に俺、自分の子供に国継がせたいとか思ってないし。能力ある奴がやればいいんじゃないか?」
オーティスは無意識に親友の姿を探して振り返ったが、狭い部屋には他に誰もいない。
皮肉屋の青年に、オーティスは自分が結ぼうとする契約について何も話してはいなかったが、勘のいい彼は全てを分かっていてあえて触れないでいてくれるのかもしれなかった。
エルシリアの声は続く。
「それだけではない。おぬしの魂は契約によって妾たちの位階に近づくからな。
 まともに『人間』でいられるのはせいぜい五十年じゃ。人の男の体はこういう変質に弱い。
 その後は急激に精神が歪むか肉体が歪むかして、死に至る。
 力を得る代償としてお前を待っているものは、異形の死じゃ。―――― 分かっているか?」
「分かってる分かってる。どっちみち人間の寿命はその辺だからな。ちょうどいいくらいだろ」
「異形化して死ぬまでにどれだけ苦しいと思っている」
「大変そうっつーのは分かる。だからそん時は、よかったら殺してやってくれ」
気負いなく微笑するオーティスに、エルシリアは思い切り呆れ顔になった。
数秒間の静寂。石の部屋に立ち込める空気は、だが不快なものではない。
オーティスは、作りつけの机に置かれている小さな陶磁人形に目を留めた。
エルシリアの溜息が重く聞こえる。
「まぁ……おぬしの能天気についてはいいとして」
「能天気ってなんだ」
「いいとして。契約破棄についても一応説明しておく」
女は頬にかかる銀髪をかきあげた。
何処か氷を連想させる美しい容貌。けれどその黒い両眼だけは、いつも何処かしら熱を持って見える。
陶磁人形から視線を戻したオーティスは、女の貌をまじまじと見つめた。
「……契約破棄は、出来ないんだったな、確か」
「そうだ。だが一つだけ例外はある。それは」
「俺が、お前を殺すことだ」
まだ口にしていなかった結論を先に言われ、彼女の黒い眼は丸くなる。だがすぐにエルシリアは嫣然と笑った。
「そうだ。おぬしが妾を殺せば、その瞬間に契約は終わる。
 おぬしは契約によって得ていた魔力だけではなく妾の力も得て、だがその時から人ではなくなる。
 売り渡した運命は戻らない。半妖よりも遥かに魔に近いものへと、おぬしはなるだろう。
 そうして人であった記憶を失い、永遠にこの大陸を彷徨うことになる。……とは言え、そう悪いものでもないと妾は思うが」
「お前にとってはそうだろうな」
その辺りは人と魔の価値観の違いであろう。
記憶を失い永遠に大陸を放浪するなど、いいこととはとても思えない。
それならば異形となって死んだ方が余程ましだと、オーティスは思う。
そしてそれ以上に、或る意味友よりも近しい相手であるエルシリアを、自分の手で殺すことなど想像も出来なかった。―――― この時は。

気紛れで冷ややかな、だが情の深かった女。
魔族らしいと思った。人間のようだと思うこともあった。
魂の契約で繋がれた相手。この後オーティスは十三人の魔族を召喚したが、エルシリア程近く感じた者はいなかった。
トゥルダールを建国出来たのも、彼女と親友の存在あってこそだろう。
友と言うには分かり合えない。だが恋人よりも近かった。
懐かしいその姿を、オーティスは深い感慨を以って見つめる。
エルシリアは黙り込んだ男を不思議そうに見上げた。
「どうした、オーティス。悪いものでも拾い喰いしたか」
「そうだよな。お前はそういうこと言う奴だったよな……」
「ついに頭の病気になったか? 元々おかしな奴だとは思っていたが」
「病気でもないしおかしくもない。ちょっと黙れ、エルシリア」
「嫌じゃ」
女はあっさりとそう答えると白い手を伸ばす。言葉とは裏腹に気遣わしげに頬に触れてくる指は、ひんやりとしていて、だが温かかった。
彼女と共にあることが当然であった日々。オーティスは熱い息を吐き出す。
「エルシリア、俺な、今、魔法にかかってるんだ」
「魔法? どんな魔法じゃ?」
「過去を辿る魔法」
彼は机の上に置かれた陶磁人形を一瞥する。白い髪に蒼い瞳の少女を模したそれは、オーティスに一人の子供のことを思い出させていた。
今本当に彼と共に在るのはエルシリアではない。何も知らぬヴェオフォルミネという名の少女だ。
そしてオーティスは少女と共に旅をしながらエルシリアを探している。
自分と決別した女を見つけて、その後どのような結末が待っているのか。オーティスはそれを知っていて、けれど逃げることは考えなかった。
一度人を外れた自分に、まともな未来などあるはずもないと思った。
―――― それはしかし、自分だけがそうだと思っていたのだ。

「馬鹿じゃの」
己の度し難さに苦笑していたオーティスは、女の声に顔を上げた。
白い手を下ろしたエルシリアの目には皮肉も呆れもない。ただ穏やかな透徹がそこにはある。
「迷っているのか? オーティス」
「いや……迷ってない。ヴェオフォルミネのことも、分かってるんだ。俺があいつの幸せを決めるべきじゃないって」
普通の人間として幸福になって欲しいと思ってしまうのは、彼の我儘だ。
出来るなら全ての子が、全ての魔法士がそうであって欲しい。
けれど、何もかもがそう上手くはいかないことをオーティスはよく知っている。
知っているからこそ今、過去のこの夢に胸が熱くなるのだろう。
オーティスは手を伸ばして女の髪を撫でる。
「でも久しぶりにお前に会えてよかった。本当に」
「おかしなことを言う。いつも傍にいるじゃろう」
「そうだな……」
―――― そうであったならよかった。
後悔よりも郷愁を覚えてオーティスは微笑む。彼は手を離すと、女の黒い目を見た。
夜の闇の色。そこに宿る感情が何であるのか、いつも分からなかった。最後まで分からないのかもしれない。
だから彼は約束を口にする。
「必ずお前に会いに行く、エルシリア」
未来へと向けた言葉。
視界にふっと翳が差す。女の姿が遠くなる。
急速に遠くへと閉じていく過去の記憶。
闇の中からエルシリアの声が微かに「……待っている」と囁いた。






何もない暗闇の中を、オーティスは歩いていく。
新たな過去は始まらない。それは彼が「魔法の夢を見ている」と気づいた時に終わるようになっていたのだろう。
その代わりまだ目は覚めない。何処とも知れぬ場所を彼は進んでいく。
やがて果て無き暗がりの中に、ぼんやりと光って見える場所が現れた。
まるで現実への出口のように見える石扉。オーティスは黙ってそれを押し開ける。
扉の先は、見知らぬ城壁の上に繋がっていた。
日は既に落ちている。あちこちから聞こえてくる悲鳴や怒声。城壁の中にも外にも火の手が上がっていた。
死体の焼ける嫌な匂い。立ち込める血臭。そこから見渡せる空は、ひたすらに赤い。
オーティスは滅び行く国を城壁から睥睨すると、兵士たちの死体の間を縫って歩き出す。
その先にはヴェオフォルミネが立っていた。
全身に返り血を浴び、燃え盛る城を見ていた少女は、彼に気づいて振り返る。
「オーティス」
「ああ。待たせたな」
「わたし、夢を見てるの」
「知ってるよ」
彼女は自分の目を覚まそうとしているのか、軽くかぶりを振った。その時、足下で倒れ伏していた兵士が呻き声を上げる。
死体かと思われた男にはまだ息があったのだろう。ヴェオフォルミネはそのことに気づくと、左手を軽く振った。
不可視の刃が兵士の背を切り裂く。少女は何の感情もない目で、事切れる男を見下ろした。
「夢だけど、本当みたい」
「そうだな」
力を振るい続けるヴェオフォルミネに悲しみはない。
彼女はこうして自らを生み出した祖国を滅ぼしてきたのだろう。もしこれが現実なのだとしても、少女は何度でも同じことをするはずだ。
欠落を抱えた惨禍の子。その在り様を「二度と治せない歪み」とは言いたくない。
だが、ただの歪みとして消してしまえるものでもないのだ。それはまた彼女自身の一部でもあるのだから。
オーティスは少女の前で足を止めると、血塗れた白い頬を指で拭う。
「帰ろう、ヴェオフォルミネ」
「何処に?」
「元の時間に。もう大丈夫だ。俺がいる」
両手を伸ばし、その体を抱く。
痩せ細って頼りない少女は、それで安堵したのか疲労の色濃い目を閉じた。城壁に燃え移った炎が二人の足下へと這い寄ってくる。
視界の隅では大きな城が崩れ落ちていく。ヴェオフォルミネはか細い息を吐いた。
「一緒にいてくれる?」
「ああ」
―――― たとえ自分が、やがて完全に人ではなくなるのだとしても。
「ずっといる。お前が望む限り、俺はずっと傍にいるよ」
彼女が手を伸ばす限り、その手を取り続ける。歩き出す少女を守って支え続ける。
永遠を生き続けるものになるならば、それくらい可能なはずだ。突き放すことなく、決して分かたれることなく。
奇麗事だけの情では足りない―――― そう告げるこの夢の答に、オーティスは既に辿りついていた。