幕開け 019

禁転載

森の中にある小さな湖は、冬の寒さのせいでもう二月もの間厚い氷に閉ざされていた。
全てが白く閉ざされた景色。積もりきった雪は枝を凍らせ、辺りの森は日の光の下きらきらと水晶に似た輝きを放っている。
周囲に生き物の姿はない。時折飛ぶ鳥や、雪の中を跳ねる小動物を見かけることもあるが、今は何の姿もなく、ただ清浄だ。
一帯に宿る空気の神聖さは、やはり美しい氷面あってのものだろう。
近くの村の住人からは「神の手鏡」とも呼ばれるその湖を、女は窓の向こうに眺める。
硝子窓越しに伝わるしんしんとした冷気は、彼女自身の結界に遮られ家の中までは届かない。
湖畔に建つ小さな家は、そうして温かな平穏をもう十数年もの間、部屋のうちに内包していた。
女は窓の外から視線を外すと、大きな揺り椅子を振り返る。
そこに座る老いた男は、彼女の気配に気づいたのか薄く微笑んだ。
「何が見える?」
「あなたが」
「質問の機微を読め、ヴェオフォルミネ」
「本当のことを答えたのだけれど」
女が首を傾げると、盲目の男は苦笑する。
妻とのそのようなやり取りは慣れっこであるのだろう。オーティスは手首から先だけを軽く上げた。
その仕草に応えて、ヴェオフォルミネは敷き布を拾うと彼の足下に座る。己の指を夫の指と絡め、そっと握った。


あの日から、数十年の月日が経った。
子供であった彼女は、多くを知り大人となった。
あどけなさが消えた美貌。混じり気のない水を思わせるその姿は、しかし多大な魔力の影響で二十代半ばのまま変化がない。
そうして彼女は老いることなく永きを生き続けるのだ。彼らは連れ添った数十年の間にその事実を受け止め、受け入れていた。
乾いて温かい空気に、オーティスは大きく咳き込む。
ヴェオフォルミネが急いでその体を支え、濡れた夫の手を布で拭った。
目は見えない。だが、中に血が混ざっていることは自分で分かる。
オーティスは常に感じる内臓の痛みをここ数日冷静に計っていた。 それはつまり、終わりを計っていたのだ。
彼は枯れ枝のような指を、妻の顔に伸ばす。
「ヴェオフォルミネ」
「なに?」
夫の手を取って、ヴェオフォルミネは自分の頬に重ねた。体温の低い彼女だが、それでも感じられる温かさは変わりがない。
オーティスは閉ざされた瞼の下に、ぼろぼろだった初めの少女を思い起こす。
「ヴェオフォルミネ―――― 俺はそろそろ行くよ」
「……もう?」
妻の声は、その時ほんの少女のもののように聞こえた。
悲しみを知らぬはずの彼女が、少しだけ震えたように思える。
ヴェオフォルミネはもう一度聞きなおした。
「もう、いってしまうの?」
「ああ」
いつかこれを、言わなければならない日が来る。そう思いながらオーティスは生き続けて来たのだ。
この日の為に長く生きてきたと言ってもよかった。彼は小さく咳払いをして続ける。
「ヴェオフォルミネ。これでさよならだ。お前はこれから少しだけ、一人になる」
出来るならその孤独が短く済むように。彼女がまた誰かに巡り合えればいいと、願う。
「いいか? 無理に生きるな。無理に死ぬな。お前はお前の好きなようにしろ」
決して死ねぬ体ではない。いずれ彼女が望むなら、終わりを得ることは出来るだろう。
それがいいことなのかどうかオーティスには決められない。決めるのは彼女だ。小さな背に多くの願いを負わされた女。
彼女は長く深い息を吐き出す。
「わたしは、あなたといたい」
「俺はもう行く。でもなヴェオフォルミネ、俺は、お前を愛しているよ。世界はお前を愛している」
自分は一人ではないと、いつか彼女も知るだろう。
この世界そのものが人を愛しているのだと。分からぬはずがない。彼女自身がそのよすがだ。
だからオーティスは、己の幸運と罪を思う。
「愛している。俺の、永遠の魔女」
それが彼女の未来だ。頬に触れた手に、温かいものが触れる。
女は嬉しそうに笑って、重ねた。
「わたしも」






雪の中に作られた墓は一つだ。
ヴェオフォルミネは墓標代わりに植えられた若木と、それを守るように張られた氷の蔦を見下ろす。
極寒のこの地において、だが小さな若木が寒さに凍えることはない。
それは彼女の魔法に守られ、根を張り枝を伸ばしていくだろう。小さな湖畔の家がそうして安らいでいたように。
ヴェオフォルミネは手の中に握った指輪と首飾りを、最後に身を屈めて木の根元に埋める。
飾り気のない指輪はこの下に眠る男の魂を表すものだ。そして白い石を通した首飾りは、彼が抜き出した記憶そのものだった。
女はそれを丁寧に地に埋め、雪を被せると立ち上がった。
背後に現れたもう一人の女に向かって、墓標を見つめたまま頼む。
「じゃあ、おねがい」
「もういいの? 私はいつでもいいけど」
「いい」
準備など何もない。全てはとうに終わっている。
けれど背を向けたままでは施術もしづらいだろう。ヴェオフォルミネは冷え切った髪をかき上げて振り返る。
そこに立っていた魔女は、想像よりもずっと優しげな微笑を見せていた。
ルクレツィアは人差し指を立ててそこに構成を生む。
精神魔法に特化した魔女の、構成の粋。それにけれどヴェオフォルミネは感嘆を覚えることはなかった。
細やかな構成の持つ効果を、彼女は一目見て看破する。
「完全忘却。肉体の擬似時間遡行……?」
「んー。あんたの精神だと十五歳くらいの肉体がちょうどいいみたいだから。その方が忘却指定も安定する。
 嫌だって言うなら調整するけど」
「嫌じゃない。それでいい」
「了解」
ルクレツィアは了承を得て、構成を更に展開する。
華やかに広がっていくそれを、ヴェオフォルミネはただ見つめた。女の声はまるで世界の外から響いてくるかのようだ。
「あんたはこれまで生きてきた全ての記憶を失う。肉体も作り変えられる。
 ―――― それはあんた自身の死と変わらない。それでいいわね」
「いい。ヴェオフォルミネは、オーティスと共に死ぬ」
彼の妻であった自分は、彼と共にここで終わる。
後に残るのは、未来を見続けるのはただの子供だ。何も知らない、永遠の子供。
それでいいのだと思う。そうでなければずっとは生きられない。
微笑むヴェオフォルミネに、ルクレツィアは頷いた。光の加減かその瞳が金色に光る。
「ただ……あんたのあの未来視は、あんた自身とは切り離せない。
 契約で離れても、あんたが生まれなおしたならきっと形を変えて戻ってくる。
 それは私にもどうしようも出来ないけど、いいわよね」
「うん。それが未来であるなら。構わない」
「分かったわ」
全ての過去は彼と共に眠る。これからの未来は彼の為に見続ける。
きっとそれは幸せなことだろう。惨禍の娘は嬉しそうに笑って目を閉じた。
悲しいことなど、はじめから一つもなかった。



そして魔女は生まれる。
彼女の愛した王の墓標は人知れず雪に埋もれ、誰もその物語を知ることはない。