手と指 007

禁転載

白い殻は 時の落とし子
眠り続ける過去の夢
殻の中身は 空ばかり
親なし雛は 考える
罅のむこうに人を見て
罅のむこうを記憶する
殻から出れぬ雛はひとり
今日も 現を知らぬまま



掠れた声で歌う歌は、ここではない何処かへと、響いているようだ。
黒い文字の上に、リルヤは手袋を外しそっと触れる。
まるで機械で打ち出したかのように整った文字。
あの時は確かに温かかった字を、彼女は指でなぞった。
「―――― 『おはよう リルヤ=ルルゥ』」
壁に書かれた挨拶。それは彼女の過去を知る者からの、唯一のメッセージだ。
他には何もない。屑拾いがてら一人でここまでやってきたリルヤは、左手に持ったマスクを床に置く。
「あなたは、誰?」
最初と同じ問いを乗せる。
これは書いた人間は、はたして彼女の記憶が失われることを知っていたのだろうか。
それとも知らぬまま、今でも何処かで彼女がやって来るのを待っているのか。

ひんやりと冷たい壁。
記憶がない不安は、もはや彼女の足下に穴を開けない。
リルヤ=ルルゥはマスクを拾い上げると、はじまりの部屋を後にする。
残された黒い棺は沈黙して、そこにはただ冷え切った文字だけが残った。



《デッドエンド》は、死せる安息の地だ。砂埃にまみれたこの場所には人影一つなく、静寂を脅かす者もいない。
捨てられた街には死者の遺物が転がり、その上を乾いた風が吹いていく。
人によって作られ、人を拒絶するこのエリアは、墓所よりももっと静謐で、何よりも在りのままだ。
屑拾いを兼ねて最初の部屋まで足を伸ばしていたリルヤは、階段を上って地上に出ると、長い袖を少しだけ捲くる。
手首の上には赤い小さな痣が浮き上がっており、彼女はそれを見ながら一言命じた。
「戻っておいで」
囁くようなその声は、けれど痣を通じて遠い本体にまで届いたらしい。
数分後、曇り空を切って赤い鳥が降下してきた。鳥は菱形の痣の上へと止まり、リルヤを見上げる。
窺うように首を傾げる鳥は、瞳までもが真紅だ。小さなその頭を、彼女はそっと撫でた。
「楽しかった?」
束の間の自由を問う言葉に、鳥は頭を下げる。
この不思議な生き物が、腕輪から元の姿に戻れると知ったのは、ほんの偶然によってだ。
一ヶ月程前、今日のように一人で屑拾いに来ていたリルヤが、帰る方角が分からなくなって困惑していた。その時に、袖口から滑りでた鳥が彼女を先導してくれたのだ。
リルヤは鳥が戻れることに驚いたが、知ってみれば腕輪としてずっと拘束しているのは悪い気もする。
それから一人で外に出た時には、こうして鳥を放してやることにしていた。
「じゃあ、帰るよ」
周囲は静まり返っているというのに、彼女の呟いた声は、たちまち罅割れた路面に吸い込まれて消えた。
鳥が再び腕輪に変じると、リルヤは袖を戻し歩き出す。
足取りに迷いはない。右手に持った布袋からは、からからと屑の鳴る音が零れ落ちていった。



ヒズのドームまでは《デッドエンド》からリルヤの足で三十分かかる。
最初の日はもっと近く感じられたのだが、それはカナンが近道を案内してくれていたからだろう。迷子にならぬよう分かりやすい道を行くリルヤは、多少遠回りをしても遠くからドームが見えるルートを選んでいた。
そうして今日も帰ってきた彼女は、中に入る前に入り口の脇に立って耳を澄ます。
微かに聞こえてくる客の声は、彼女も知っている人間のものだ。
知らない人間の前に出てきてはいけないと厳命されている彼女は、覚えのある相手ということでマスクを外しながら中へと入った。
老いた男の声と、ヒズの声。会話をしていたらしい青年の声が、急に大きくなる。
「リルヤ、そのまま水やりを始めろ」
「え、うん」
勘のいい青年は、何も言わずとも彼女が帰ってきたことに気づいたらしい。
屑拾いの格好のまま水やりとは不思議な気もするが、リルヤは素直に小道を逸れて木々の中へと分け入った。池の傍にゴーグルやマスクと袋を置いて、代わりにホースを手に取る。
「水、朝やったばかりなんだけど」
あんまりあげて腐ってはしまわないだろうか。彼女は加減をしながら水道の螺子を回す。
そうして準備をしている間にも、話し声は絶えず葉々の向こうから聞こえてきていた。
声からして客はセロという老人であり、月に一度ドームを訪ねてやって来る古物商だ。
普段はエリア9に住んでいるという彼は、掘り出し物を探して定期的にエリア10まで来るらしく、自ら屑拾いを雇って色々なものを集めさせては、そのうちのいくつかをヒズのところに持ち込んできていた。
リルヤは一度しか会ったことがないが、優しそうな老人だった。彼女の質問に嫌な顔一つせずエリア9のことを教えてくれたのだ。
今日は会えないのだろうかと考えながら、彼女は水を撒いて歩き出す。
「水、少なめでいいかな。いいよね」
辺りを見ると日陰部分はまだ土が湿っている。どうせ撒くのなら日が当たっていたであろう向かい側の方がいいだろう。
リルヤはそう考えると、いつものように小道を横断して、反対側へと向かおうとした。枝の下をくぐって道へと出た時、ふと視界の隅に見知らぬ人影が見える。
セロの隣に立っている、背の高い大柄な男。身なりのよい格好をしていることからして屑拾いではないのだろう。
興味を持ってリルヤがその後姿を眺めていると、彼女に気づいてヒズが顔を顰めた。
その表情の変化につられるようにして、大男が振り返る。まだ小道にいたリルヤは、その男としっかり目があってしまった。
三十代半ばに見える男は、小柄なセロと比べれば随分大きく見える。だがその顔立ちは血縁者であるのかよく似通っていた。
男は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに興味を宿してリルヤを見てくる。
彼女はいつものようにぺこりと頭を下げた。
「こんにちは」
顔を上げて待ってみたものの、男の反応はない。
挨拶もないまま、まじまじと見つめられて、リルヤは迷ったがそのまま小道を横断した。
水撒きを再開しようとして、ふと手を止める。
「……あー、ひょっとして、水やりしろって新しい人がいたからかな」
ヒズは基本的に、リルヤに会わせる人間を選んでいるようだ。
今日はその選定が済んでいない人間がいたから、彼女を来させないようにしたのだろう。
彼の意に反して見つかってしまったリルヤは、じょぼじょぼとホースから洩れる水を眺める。
そうして戻るに戻れず大きな水たまりを作ってしまった彼女は、セロたちが帰った後、予想通りヒズに大きな溜息をつかれたのだった。



「あの男はアレイと言って、セロの息子だ」
「やっぱり。似てる」
屑拾いの作業着から、サフィに作ってもらったワンピースへと着替えたリルヤは、男の説明に納得の声を上げた。
既に時間は夕方を過ぎており、ドームの入り口は閉じられている。
普段であれば、そろそろ彼女は夕食の仕度をする頃なのだが、今日はまだ苦言の時間だ。
廃棄ブロックの上で膝を抱える少女は、話の先回りをして「ごめんなさい」と頭を下げた。
ヒズは手の中で工具をくるりと回す。
「謝る必要はない。タイミングが悪かった」
「息子の人は会っちゃ不味い人?」
「人買いをしているという噂がある。父親の前じゃまともな顔をしているが」
「私も売られそう?」
カナンから屑拾いに出るにあたって口煩く注意されたのは、「人買いに気をつけろ」というものだ。
その注意をリルヤは「自分が身寄りのない人間だから危ないのだ」と受け取っていたが、ドームで会ったのならヒズの関係者であることは明らかだろう。それともやはりただの居候だから駄目なのだろうか。
疑問に思って首を傾げるリルヤに、ヒズは端的に返す。
「お前に興味を持っていた。釘は刺しておいたが」
「そっか」
「しばらくは一人で外に出るな。特にそういう格好ではな」
「この服?」
サフィが作ってくれたワンピースは、リルヤの髪と同じ濃い茶色の布を使った、あっさりとした作りのものだ。
袖はなく、細い肩紐が吊っている胸元は大きく開いて、柔らかな曲線に途中から添っている。
ワンピースの上からは、腰を絞って胸を上げる為の白いコルセットを締めており、ふわりと広がるスカート部分の丈は膝よりも上だ。
ざっと見ると、確かに薄着過ぎてエリア10を歩くには不向きな格好だが、サフィが「あたしの趣味だから、あたしの目を楽しませなさい」と言っていたこともあり、リルヤは充分気に入っていた。
彼女は服の胸元を摘んで中を覗きこむ。
「外出る時は作業着だけど、それでいい?」
「いい。マスクとゴーグルを外すな。髪を上げて防護ヘルメットも被れ」
「暑そうだけど。分かった」
もし人買いが後ろから殴りかかってくるような相手だったら大変だ。それは確かにヘルメットをかぶった方がいいだろう。
ヘルメットをかぶると完全に個体識別出来ない「砂モグラ」になってしまうのだが、この辺りを歩いている屑拾いはそう多くない。誰かに間違えられる可能性もほとんどなかった。

話は終わりであると確認して、リルヤは立ち上がる。下に向かおうとする彼女に、何かに気づいたのかヒズが訝しげな声をあげた。
「その腕輪、前から持っているようだが、何処で手に入れたんだ?」
「……あ、最初から持ってた」
余計なことを話して、鳥が解体でもされてしまったら困る。
平然と嘘をついたリルヤは内心緊張したが、ヒズは「そうか」と頷いただけだった。






紫色の空は、昼夜共通のものであるらしい。
朝は白いに近い淡い色に、夜は黒とほぼ同じ色に変化はするが、基本は同じ紫だ。
太陽はあるが、月はない。代わりに少し大きな星が三つ、夜になると空に浮かび上がる。
季節というものは存在しないが、場所によって気温の変化はある。また人々の生活の様子はエリアによって様々だ。
機器に溢れ豊かな暮らしをしているエリアもあれば、荒廃した土地で細々と暮らさなければならぬエリアもある。
十二に分かれたそれらエリアの中央には塔が立っており――――
「分かるような分からないような感じだな」
崩れかけた柱の上に座る男は、手に入れた地図を眺める。
地図は全エリアを対象としたおおまかなものであり、それを見るだに男には、自分のいる地点がエリア10に程近いエリア9であることしか分からなかった。
今座っている柱も、本来はエリア間を繋ぐ環状線であったらしい。だが鉄のレールは少し先で途切れており、その先端はひしゃげて宙に留まっていた。
長剣を抱え込んだ若い男は、エリア10から吹いてくる砂塵に青い目を細める。
「随分向こうは荒れているみたいだな。一応行ってみるか?」
質問は誰に向けたともつかないものだ。彼の周りに人の姿はなく、それ以外の生き物もいない。
風の音だけが聞こえる中、だが男はひとりで頷いた。
「―――― そうか。ならそうするか」
軽い答とともに長剣が腕の中から消失する。けれど男はそれを気にもせず柱を蹴った。
そのまま遥か地上へと落下していく人影。しかしその姿は、地面に到達する前にふっと掻き消えてしまったのだ。