水月夜

冴え渡る夜空。青白い光の中をイセは失速していく。
永遠にも思える数秒。彼は空の中に在る自分を思って、小さく笑みを零した。






大陸において度重なり途切れぬ戦乱は、体を次第に蝕み死をもたらす病に似ている、とイセは考える。
国を、そして民を疲弊させ滅びへと向わせる戦。その結果がどれほどのものであったか、長い歴史は既に幾度も証明を果たしてきていた。
いつからか暗黒と呼ばれ久しい時代。人々の心に根ざすものは暗い諦観だ。
誰しもが国の有限を、命の儚さを、身に染みて感じ取っている。その上で今日の日を生きている。
それは人の業を表す度し難い病であろう。
だがそのような時代にあって、尽きせぬ闘争に拠り生きる人間たちも確かに存在していた。
古くから山間の小さな村に住み、竜種と共に暮らしてきた一族。
──── 契約を結んだ竜の背に乗り、空を駆け戦う彼らのことを、人々は「竜主士」と呼ぶ。






空が赤く光始めた夕暮れ。周囲を取り囲む山に日を遮られた村は、既に暗闇の中へと半ば絡み取られていた。
村はずれにある竜の寝床から坂道を駆け下りてきた少年は、家へと帰る途中、耳に馴染んだ声に呼び止められ振り返る。
「何だ?」
「イセ! もう支度はいいの?」
「全部済んだ。明日は朝早く出るから」
そこに立っている少女は彼の幼馴染のメルだ。
今年十五歳になった彼女は、イセの一つ下で小さい頃からずっと兄妹のように育ってきている。
親よりもある意味では遠慮の要らない間柄は、この十五年間煩わしくもあったが、支えられることも多くあった。
そして明日からはまた新たに道が分かたれようという今、メルは詰るような目でイセを睨む。
「明日なんて早すぎるよ。まだ約束が残ってたのに……」
「あれは無理だって何度も言っただろ。諦め悪いな、お前」
「イセだっていいって言ったじゃない」
「子供の頃はな。でもやっぱ無理だ」
頬を膨らませるメルが何を言いたいのか、彼はよく分かっている。
それは子供の頃の他愛無い約束、「ドラゴンに乗せて欲しい」という願いの履行を求める視線だった。

高等魔法生物と言われるドラゴン。
竜種と一くくりにされる彼らのほとんどは、その長い生涯を通常人里遠く離れた場所で過ごす。
しかし中には例外もあり、人と友好な関係を築く、或いは共に生きる種族もいくつか確認されていた。
その中の一つ、緑石竜と呼ばれる小型のドラゴンは、人間と共同体を作り暮らしている珍しい種のドラゴンである。
馬よりも一回り大きく、空中において比類なき機動力を誇る緑石竜は、人の手によって己の子を育てて貰い、その代わり成竜は戦士を背に乗せ戦場を駆けるという、変わった生活体系を取っていた。

イセとメルの生まれた村は、既に三百年以上ものあいだ緑石竜と共に在り、諸国に傭兵として雇われる竜主士を生み出し続けている。
長い戦乱のせいか、もはや大陸で唯一となってしまった竜主士の村。
その長い系譜の一員に、イセも明日の戦からようやく加わろうとしていた。
初陣を間近に控える少年は、聞き分けのない幼馴染に向かって溜息をつく。
「女はドラゴンに乗せられない。これは村の掟だろ」
「それが何だっていうのよ。男ばっかりずるいじゃない」
「ずるいずるくないじゃない。それが役目だ」
この村では、女はドラゴンに乗ってはいけないという決まりがある。
それは三百年の間に整えられた分業の結果であり、男は竜主士に、女は竜の育て手になることが生まれながらに決されていた。
破れば叱責を受けることが明らかな掟に対し、反抗心をむき出しにするメルを、イセは呆れた顔で見やる。
「竜を操るには腕力と平衡感覚が要るんだよ。腕力の方は女には難しいし、二人で乗るのはもっと危険だ。
 それを曲げて竜に乗って、万が一女が死んだりしたら誰が子供を育てるんだ? 
 お前たちがちゃんとやってくれるって思うからこそ、俺たちは戦場に出れるんだろうが」
「そんなことは分かってる。でも、私は……」
そこから先の言葉を飲み込んだ少女は、しかし萎れて諦めてしまったわけではまったくないようだった。生気のある目がきらきらと輝いてイセを見据える。
「とにかく、あんたが帰ってきたら絶対乗せてもらうからね。
 あんたのギーヤは私とお母さんが育てたんだから、怪我なんかさせないでよ」
「分かってるよ」
話を打ち切る為に手を振って、イセは少女に背を向けた。
夜の中に沈んでいく村は、明日の戦を思ってか不思議な緊張と高揚に満ちている。
明日からは自分もその一端を担うと思うと、少年の手の中にはじっとりと汗が滲んだ。遠ざかる背後からメルの声が聞こえる。
「怪我しちゃ駄目よ! 早く戻ってくるのよ!」
追って来る声に、彼は振り返ることはしない。
そして何の約束もしないまま、新たな戦が始まる次の朝がやって来た。






身につけた鎧は、以前から何度も着て訓練を行ってきたというのに、その日は妙に重く息苦しく感じられた。
父や仲間たちと共に、雇い主である国の右翼方向に布陣したイセは、薄曇りの空を見上げる。
彼は隣のドラゴンに乗る父に向かって問いかけた。
「上は寒いかな」
「ああ。だがそこまでは滅多に上がらなくていい。
 あまり周囲を見失うなよ。不味いと思ったら一度離脱してもいい。ギーヤを信じろ」
「平気だよ」
槍を握る手が震える。だがそれは、皆が必ず通る道でもあるのだろう。父は労わるような目で息子を見つめた。
イセは頷くと、十年以上もの間共に暮らしてきたドラゴンの首を撫でる。
「ギーヤ、頼む」
淡い緑色の肌は、どのような新緑よりも美しく滑らかだ。
速く、軽やかに飛ぶ為に鍛えられた体。しなやかでありながら力強い竜の両翼を、イセは万感の思いを込めて見下ろす。
信頼と愛情を込めて首筋を撫でる手に、ドラゴンは深い緑色の目で振り返ると澄んだ声で一鳴き応えた。
心配するなと言っているような声。少年は苦笑すると槍を強く握りなおす。
「大丈夫だ。いつも通りやれば、きっと──── 」
その時、風を切って高い笛の音が聞こえた。
戦の始まりを告げる音。周囲のドラゴンが一斉に羽ばたき始める。
イセは緊張を飲み込むと、ギーヤの背を軽く叩き飛行を促した。
重い鎧や槍をものともせず、ドラゴンはゆっくりと地上を離れる。これから戦場となるであろう平野が、みるみるうちに眼下で広がった。
いつもとは違う空気。違う風の匂いにイセは唾を飲み込む。
「行くぞ、皆!」
村の当主である男の叫びに、彼らは意気高く声を上げた。
その只中にあるイセは父の方を見やる。頷く父の肩越しに、雲が切れ昼の月が見えた。

『わたし、ギーヤに乗って月まで行くの』

幼い願い。
そういえばずっと昔、彼女とそんな話をした。あの時はまだ小さかったギーヤを抱いて。
イセの脳裏にあどけない笑顔がよぎる。
「馬鹿か、あいつ……」
地上から聞こえてくる怒声。剣戟の音が上空にまで響く。
少年は奥歯を噛んで、敵軍を見下ろした。
次々急降下していく同胞と共に、ギーヤもまた空を切る。
イセは狙いを定めて槍を構えた。
「──── 俺たちは、月になんて行けない」











夜の空には雲の一つさえない。冷たい月光が全てを顕に曝け出している。
イセは無数の死屍が積み重なる平野を見下ろし、きつく唇を噛んだ。血の味が乾いた口内へと広がる。
そこに見えるものは人馬の死体だけではない。イセは夜陰の中に見知ったドラゴンの死骸を複数見出して、暗澹たる気分に駆られた。激しい戦の最中、はぐれた父の行方が気にかかる。
はじめは優勢に思えた戦い。その状況が逆転したのは、相手方に見慣れぬ魔法士が現れてからのことだ。
深紅の髪の少女を連れて単騎現れた男。彼は敵国の人間ではないようだったが、竜主士を見るなりその排除を少女に命じた。
そこから全ては坂を下るように転がり始めてしまったのだ。
イセは他に飛ぶもののいない周囲を見回し、忌々しく歯軋りする。
「くそ……っ、なんなんだよ」
日が落ちるまで、もつれにもつれた戦闘の結果がどうなったのか、イセにはよく分からない。
地上にさえもう動くものは見えなかった。
何処かに戦場が移動したのか、兵が退かれたのか、少年は判断する要素を持たずただひたすら空を彷徨う。
だが見渡す限り、地上には見つけたいものも見つけたくないものも、何一つ転がってはいかなかった。
少年は己のドラゴンに向かって囁く。
「一旦帰ろう、ギーヤ。村の方角に飛べるか?」
彼の声に応えてドラゴンは向きを変えた。月の見える方向へと風を切り始める。
しかしそうして彼が平野を離れてしばらくした時、急にギーヤの体に強張りが見られた。イセは怪訝に思って身を低くする。
「どうした、ギーヤ」
「まだ残ってたの? 運がいいなあ」
幼い少女の声は、空を飛ぶ彼の更に頭上からかけられた。
一瞬で凍りつく背筋に、軽い笑声が聞こえる。
「お前で最後ね。竜主士とやら」
間近に迫る死。
それは、イセが覚悟していたよりずっと簡単で、ずっと抗えないものとして眼前に現れた。
疲労の為か恐怖の為か、右手には既に剣を抜く力もない。ただ左手が手綱だけを握って、微かに震えていた。
少年は頭上にいるであろう「何か」に向かって問う。
「何故、俺たちを狩った」
「王の命令だから。この戦争、どっちが勝ってもうちには関係ないから別にいいんだけど。
 私の王がね、魔法士以外に制空権を与えておきたくないんだって。
 ──── だから、死になさいよ」
軽い宣告と同時に、イセの視界は斜めになる。
彼の頭は一瞬、それを攻撃された為と思ったが、実際はそうではなかった。
夜を貫いて打ち下ろされた細い閃光。それをギーヤがかわしのだと、体で悟ったイセは、己のドラゴンに叫ぶ。
「飛べ、ギーヤ! 逃げるぞ!」
「何処に逃げられるっての? 馬鹿じゃない?」
少女の嘲りを無視して、イセはドラゴンを急降下させた。見えてきた森の木の中に紛れ込もうと、ギーヤの上に身を伏せる。
だがそれでも追って来る気配は消えることがない。
透き通る声が、月夜にこだました。
「何処にも帰れないっての。あんたたちの村だって今頃もう滅んでる。
 ここで一緒に死んだ方が楽なんじゃないの?」
投げられた言葉。
それは、戦場で射掛けられたどの矢よりも衝撃を持って、イセの胸を突き刺した。
思わず彼は顔をあげ、村のある方角を見やる。
何も見えるはずがない夜の中、母やメルの顔が浮かんだ。
「……馬鹿な」
今までずっと、村は安全であると思っていた。
他に知られていない場所。馬の入れない細い山道の果てにあるからと。
だがそれは、甘い勘違いでしかなかったのだろうか。
竜主士の存在自体が目障りだと言われた、先程の宣告が甦る。



終わらない戦は、まるで死へと向う病のようだ。
だが滅び行く国々の何処にも拠らない自分たちは、その病を越えていけるとずっと信じていた。
自分が戦う限り、彼女らもドラゴンの子たちも、皆無事でいられると思っていたのだ。
──── まるで何も知らぬ子供が、月へと行き着くことを願っているように。



「ギーヤ! 上がるぞ!」
左手の手綱を引く。それに応えて、緑のドラゴンは再び上空へと飛び上がった。
イセはドラゴンを旋回させると少女の方を向く。
人ならざる深紅の髪。美しい容姿の彼女は酷薄な笑顔で少年を見た。細い右手が彼に向かって上がる。
「覚悟が出来た?」
「ああ」
イセは頷くと、右手で何度かギーヤの背を叩いた。
白い光が少女の指先に灯る。先程と同じ光が、彼の体を貫く為にその強さを増した。
イセは息を止め、時を待つ。
少女はそれ以上何も言わない。
ただほんの一瞬彼女が笑うのをやめた、その時。
白光が暗い空を貫く。
それは真っ直ぐイセへと向かい、少年は手綱を強く引いた。
右手に抜かれた短剣が光を受けようとして砕け散る。



失速するドラゴンもろとも森の中へと落ちていくイセを、少女は冷然と見つめる。
その視線を感じながら、彼は迫り来る眼下に向かって意識を集中した。小さな湖と、そこに映る月が見える。
「このままだ……このまま落ちるぞ、ギーヤ」
小声での命に応えて、ドラゴンは水面に向い落ちていく。イセは衝撃に備えて手綱をしっかりと握った。
勝つことも逃げることも出来ないであろう相手。彼女を前に出来ることは「死を装うこと」しかない。
少年は迫り来る月に向かって、息を殺した。
「必ず村に帰る。まだ間に合う」
約束をしたのだ。共にギーヤに乗って月へ行こうと。
それが空に輝く月であろうと、水に映る鏡像であろうと構わない。指先の届くものであるのならば。



落ちていく水面。
直後、湖には高い水柱が上がった。少女は光る飛沫を確認すると、その場から姿を消す。
激しく揺らぎ消えた月。
飛ぶ影の消えた空に残るものはただの静寂で、それを壊すものは月影の下、何一つ見えなかったのである。