視界の回転

禁転載

夜の闇も、彼にとっては恐れるものではない。
ニケは何度目かの転移を経て、ついに屋敷の裏へと逃げ込む男を発見した。
自分に追っ手がかかっていることを知っているのだろう、高価な服をだらしなく着崩した男は、隠れるつもりなのか納屋の扉を開ける。
中からちょうど下働きの格好をした子供が転がり出てくると、男は顔を顰めて子供を打ち据えようとした。
その手をニケは無詠唱で拘束する。
女王の側近として知られる魔法士。彼が暗闇の中姿を現すと、男は愕然とした表情になった。
「さて、俺がどういう用件で参ったか、既にお分かりであろうな」
女王の失脚を狙い、そして失敗した男。
いまや敗残者である貴族の男は、何処にも逃げられぬことを悟ると、ニケに絶望の目を向けたのだった。





キスク女王に仕えるニケにとって、彼女の息子である王太子に呼び出された場合、その理由はおおよそ二つに大別される。
一つは真面目な仕事の命令。もう一つは何かの実験台だ。
だからこの日も彼はイルジェからの呼び出しを受けて、表面上はともかく内心はげっそりして彼の執務室を訪ねた。
そこに待っていた者は、当のイルジェと従者のシスイ。
―――― そして何故か、見も知らぬ若い女だった。

これはどういった理由で呼び出されたのか、すぐには分からない。
ニケに向かって深く頭を下げた女は、顔を上げると優美に微笑んだ。
「お会い出来て嬉しいですわ。わたくし、マーリア・ヤグ・セルソと申します」
その家名には聞き覚えがあった。
まだイルジェが生まれる前に、女王の次の王位継承者であった男の家名。
三代前の王の非嫡出子から続く血族の持っていた名が、確かセルソであったはずだ。
そしてその王位継承者であった男には、年の離れた妹がいた。
イルジェが生まれてからすっかり忘れがちになっていた事実を、ニケはようやく思い出す。
臣下の表情を見て納得が得られたと思ったのか、イルジェは何ということのないように言った。
「ちょっと面倒ごとがあってな。お前に後処理を頼みたい」
「かしこまりました。どのようなことでしょう」
「セルソ家の人間が一人、つまらぬことを画策していたようだ。
 とりあえずそちらは締め上げて痛い目を見させたが、代わりに人質を貰った。
 と言っても城には置き場がないからな。お前が引き取れ」
「………………はい?」
「下女でも妻でも好きに遇しろ。セルソ家への見せしめとして一生飼い殺しにしておけ」
「よろしくお願いいたします」
普段の命令と同様に言い切って書類に目を落とすイルジェと、その隣で頭を下げるマーリア。
二人の背後ではシスイがいつもと変わらぬ笑顔を見せている。
内心ではまたもや大笑いしているのであろう馴染みの少年の表情は、残念ながらこれが冗談ではないことを物語っていた。
ニケは激しく頭を抱えたくなった。



再来年には四十代になるニケは、彼の仕える女王と同じく未だ独り身のままである。
だがそれは、彼自身そうであることを選んだのであり、周囲に何と思われようとも彼はこの境遇にまったく不満を抱いていなかった。
今日この日までは。
期せずして、貴族の女の処遇を押し付けられてしまったニケは、女王を前に溜息を噛み殺す。
けぶる大輪の花のような美しさを持つ女王は、苦笑と共に彼の疑問を肯定した。
「セルソ家が問題を起こしたという件は嘘ではない。当主の男は欲のない男であったのだが、その妻が問題でな。
 夫を玉座につけようとイルジェとエウドラのところに刺客を送ってきた。勿論やり返されたそうだが」
半分は隣国王の血を引く王太子は、普段は苛烈さを表に出すことはしないが、その実、母である女王よりもよほど容赦ない人間だ。
彼ならば、自分や妹を害そうとする相手に手心を加えることはしないだろう。
ニケは愚かとしか思えぬ問題の女に、内心冷笑を向ける。
だが、彼としてはその後の方が問題だった。
セルソ家から人質として連れてこられた女。
何故その女の面倒を自分が見なければならないのか。伺いを立てる臣下に、女王は扇をあおぐ。
「一応内々に処理した話だからな。幽閉するわけにもいかぬ。
 かといって他の貴族のところに押しやれば、再びセルソの名を利用しようとする者が現れないとも限らない。
 城から遠すぎず近すぎず、かつ貴族から遠ざけたいということで、お前の名が挙がった。
 言い出したのは……まぁ妾ではないが」
微苦笑する女王の表情から言って、おそらく発案者はイルジェかシスイだろう。
王太子はともかく、シスイはあとで締めてやろうと、ニケは心の中で決定した。
返答に迷う間に、女王は続ける。
「一応王家筋の女だ。下女に、などということは出来ぬ。不服であれば今申せ」
「陛下」
「ただ妾は、お前であれば厄介な立場の女も御しきれると、思っているのだがな」
かつては妖姫と呼ばれ、周辺諸国を慄かせた女王。
その頃を思い出させるような挑戦的な物言いに、ニケは瞬間息を詰めた。脳裏をおよそ二十年間の記憶が過ぎっていく。
それらの流れの中において、思い出せた顔は決して多くない。
男は女王に向かって深く頭を垂れた。
「私でよろしければ。ご命令のままに」


ニケがマーリアと再び会ったのは、女王の執務室を辞してまもなくのことだ。
一人で城内を歩くことを許されていないのだろう。彼女はシスイと共に中庭に通ずる回廊をゆったりとした速度で歩いていた。
シスイはニケに気付くと笑顔で彼を手招く。
「ちょうどよかったです。僕は調べ物がありますので、彼女をよろしくお願いいたします」
「俺にも仕事がある」
「存じ上げていますよ。ただたまにはお休みになってもいいかと思いますけどね。
 それくらいの穴埋めはすると殿下は仰っていましたよ」
「代わりの仕事を仰せつかっているがな」
その仕事は他でもないマーリアのことである。彼女は少し困ったような微笑でニケを見上げると、会釈をした。
シスイがその場を立ち去ると、彼女はニケの隣を歩き出す。
お互い話すこともなく、ただ回廊を行くだけの時間。
ニケは居心地の悪さを感じたが、相手がどう思っているのかまでは分からなかった。
けれどそれは、考えるまでもないことだろう。
年の離れた兄の妻に巻き込まれ、突然このような境遇に置かれることとなったのだ。
普通の女なら己の不遇を嘆かないわけがない。そう思ってニケが隣を見やると、マーリアは微笑んで彼を見上げてきた。
シスイのように作り物の笑顔とは異なる、固さの残る笑み。
そこに同情というほどではないが、運命の皮肉さを見て取ったニケは、熱のない声をかける。
「私はあまり屋敷には帰らない。貴女にもそう干渉する気はないから安心されるといい」
まだ具体的なことは決していないが、彼女を妻とすることになっても、それは名目上のことだけになるだろう。
彼自身結婚したいと思っているわけではない。問題にならぬ範囲であればマーリアも恋人を作るなり何なり好きにすればいいのだ。
そう思って十以上も年下の女を見やったニケに、だが彼女が返したものは、まったく脈絡がないように思える言葉だった。
マーリアは茶色の睫毛を伏せて笑う。
「わたくしの生きる環境が変化したのは、わたくしがまだ野を駆けることを好んでいた子供の頃です」

それは、二十年近くも昔のことだ。
今の女王の兄が変死し、彼女の他に王族がいなくなった時のこと。
あの時、王家を支える大貴族の当主たちは王家の血を遡り、辺境の一領地で暮らしていたセルソ家を改めて王族の一員とした。
それは平穏に暮らしていた彼らにとってはあまりにも突然のことであったろう。ニケは当時の激変を思い出す。
マーリアは遠くを見る目で回廊の先を見つめた。
「突然多くの親族が駆けつけ、わたくしは服装を改め、外で遊ぶことを禁じられました。
 何があったのかよく理解できぬうちに婚約者が決められ……子供心にひどく失望したことを覚えています」
ほんの一年の間、マーリアの婚約者であった男のことを、ニケもよく知っている。
その男の家は王家と縁続きになることを計算にいれ、あわよくばとオルティアの失脚を狙ってきたのだ。ちょうど今回、彼女の兄の妻が目論んだように。
まだキスクに王太子がいなかった頃、その陰謀を挫いたのは女王とニケだ。
当時の敗北によって男の家は失脚し、マーリアの婚約者の座は空席に戻った。
懐かしいとも言える過去の出来事にニケは目を細める。
「だが結局貴女は、それと大差ない……いや、より悪い境遇に見舞われることとなった」
少なくとも、元の婚約者と結婚していたのなら貴族としての誇りと暮らしは保たれただろう。
だが今のマーリアは虜囚のような立場に立たされ、平民出の男にその身柄を委ねられようとしている。
他者に翻弄され続ける女の人生に、ニケは今度こそ同情を抱いた。
頼りなく細い肩、そこにかかる茶色の髪を彼は見つめる。女は同じ色の睫毛をあげて、彼を見上げた。
「いいえ、わたくしはそう思ってはおりません」
きっぱりとした言葉。
そこには毅然とした姿勢と―――― 何故か悪戯っぽいはにかみが同居している。
つい目を丸くしてしまった男に、マーリアは真っ直ぐな視線を向けた。
優美な貴族の女。だがそれだけではない意思が、彼女の纏う空気には漂っている。
「わたくし、あの時のことをずっと貴方にお礼申し上げたかったのです。
 いけすかない権勢欲ばかりの男。貴方に手酷くやられた時の顔は、実に見ものでした」
くすりと笑った女の美しい目に、ニケはようやく思い出す。
あの晩、彼が捕まえた貴族の男。
その男が殴ろうとしていた子供こそが、このマーリアであったのだと。






「というわけで、僕を締め上げるのはお門違いです」
城内の資料室までやって来て詳しい説明を求めた男に、シスイは鉄の笑顔を向ける。
何を考えているのか分からない表情。だが、この少年が今の事態を面白がっていることは明らかだった。
疲れた顔で黙り込んだニケに、シスイは続ける。
「ちゃんと確かめてから来てくださいよ。
 彼女をあなたのところにやるって言い出したのは僕じゃないですよ。彼女自身です。
 大体今回の一件も、彼女からの密告があったからすぐに犯人が露見したんですよ。
 だから本当は人質っていうより功労者ですね。むしろあなたとのことが彼女に与えられた褒美というか」
「……先に言え」
「それじゃ面白くないですから」
しゃあしゃあと嘯く少年をニケは殴りたくなったが、それをしても何にもならないことは明らかである。
シスイは選び出した資料を一旦机に置くと、ニケに向けてひらひらと手を振った。
「なかなか情の強い傑物のようですから、きっといい奥方になりますよ。
 もっともあなたの手に余るってことでしたら、別の引き取り手を捜しても構いませんが」
―――― 日頃お世話になってますからそれくらいはしますよ、と笑う少年を、ニケは白眼で見やる。
ややあって彼は大きく息を吐き出すと、何も言わぬまま一人、苦い顔で資料室を後にしたのだった。