ニケ君を動かせ! 10

禁転載

ニケ君への助言は「とりあえず会ったら告白しろ! 返事はもうどうでもいい。」で決定しました。
―――― それではニケ君の前半戦、最後のお話をお楽しみ下さい。



最近どうも仕事以外の雑事に煩わされている気がする。
ニケはこの状態の疑いようもない諸原因に忌々しさを感じないわけではなかったが、それでもただ落ち着かなさを味わっているよりは、一度区切りをつけた方がいいように思われた。ウィレットから明日の予定も教えてもらったことであるし、出来る仕事は事前に済ませ、「彼女」を待つ。

やがていつも通り最寄の街から転移陣を使って雫が城に現れた。彼女はニケを見つけるなり手を振って笑う。
「こんにちは、ニケ」
「……こんにちは」
妙に改まった挨拶だが発音を直されでもしたのだろうか。それだけは昔のように流暢な言葉遣いに聞こえる。
ニケは彼女の勉強の意味を込めて同じ挨拶を返した。雫は軽く笑うと、途端につたない言葉で「ニケ、げんき? 姫は?」と問うてくる。
「俺は……まぁ元気だ。陛下は執務中。だがちょっとお前、そこになおれ。話がある」
「はなし? おせっきょう? セイザする?」
「セイザって何だ」
見当のつかぬ言葉を指摘すると、雫は口で説明するより早いと思ったのか廊下の上に正座した。
不機嫌そうな男と正座をする女。はたから見れば何かのイビリにしか見えない。ニケは早くも頭痛がしかける額を押さえると首を横に振った。
「それはいい。とにかく立て」
「うん」
膝を払って雫が立ち上がると、ニケはその黒い瞳を見下ろす。
かつては王侯貴族たちとも渡り合った女の目は、今は何の重責も負っていないせいか安らいで幼く見えた。
その双眸の奥に、強い意志を以って一人立っていた彼女の側面を思い出し、彼は嘆息を飲み込む。

あの当時ニケは、無防備な笑顔を捨てざるを得なかった彼女に、言い様のない苦さを覚えていた。
けれど彼女がその急場から解放された今、「あの時の彼女」をもはや見られないということに軽い喪失感を抱いてしまうのは何故なのだろう。
たとえばオルティアは、雫がどのような面を見せても変わらず付き合っている。たった一人の友人を大事にして共にいる時間を貴ぶ。
そしてそれは雫も同じだ。彼女たちは相手の複数の側面を受け入れて友として支えあっている。
―――― だが彼だけはそのようには思えない。彼女を友人として見ていないからだ。

「お前は……今の方がよっぽど幸せそうだな」
「いま? うん。しあわせだよ。どうして?」
急におかしなことを言う男に、雫は怪訝な顔になった。小動物を思わせる表裏のない目にニケは顔を斜めにする。
一瞬の沈黙。少なくない自分への失望が胸中で泡沫のように弾けた。だがそれを彼女に伝えることはしない。
彼は右手を伸ばすと雫の髪に指を差し入れた。
「そういうところも悪くない、とは思う」
「ニケ?」
「ちょっと黙ってろ」
雫は少し目を丸くしたが素直に頷いた。
これが昔だったら遠慮ない反駁が返ってきたかもしれないが、こちらの反応の方が彼女の地なのだろう。
何の話なのか微塵も分かっていないらしい女に男は続ける。
「が、お前は俺といると絶対苦労するだろうからな……」

―――― それでもいいと思う。それが、いいと思う。
あの当時伸びやかに笑えない彼女を忌々しく思ったことは確かであるのに、今そう思ってしまう自分が厭だった。
度し難い煩悶を抱えてニケは溜息をつく。
だがそれでも、言いたいことは言うべきだと思った。

「もし……お前がまた苦労してもいいっていうなら、俺のところに来い。お前は迂闊だからな。面倒見てやる。
 俺は、それが嫌でないくらいにはお前のことが好きだ」



『好きだった』と、過去形で言うべきか違うのか分からない。
だが昔の彼女をもう一度見たいと思う、それと同じくらい、彼女の未来が幸福であればいいと思うのだ。
だからこの思いを過去のものとして言わない。自分の望みを否定しない。
ニケは今まで抱え込んでいたものをようやく吐き出したかのように少しの虚脱を味わった。変わらず不機嫌そうな目で彼女を見やる。
難しい言葉を使ったつもりはない。ゆっくりと話した。
だがそれでも込められた思いの全ては伝わっていないのだろう雫は―――― 丸くなった目を、しばらくして笑顔に変えると頷く。
「ありがとう。いつも、とても、たすかってる」
それは彼が今まで得たことのない、実直で温かな気持ちを込めた言葉だった。






雫が女王の執務室に消えると、ニケは長い廊下を振り返った。
人の姿はない。だが誰かが見ていると確信を持って口を開く。
「好きに報告しろ。そして主君に伝えておけ。俺はどのようなくだらない死に方も元から覚悟の上だとな」
たとえ時代が平和になろうとも過去のことを忘れるつもりはない。彼は「忘れてはいけない」側の人間なのだ。
ニケは矜持と自嘲を以って堂々と踵を返した。
同時に、微かに感じられていた気配も消える。あとには広い城の空虚だけが残された。
だが結局その後、彼の前に美しい魔法士が突如現れることは、ついにはなかったのである。






彼女が結婚したと報告しに来た時、呆然とする自分を別の自分が笑った。嘲るわけでもなく、ただ「そういうものだ」と。
自分がいいと思ったものを、別の人間もまた愛していた、ただそれだけのことだ。
そしてその人間の隣であれば彼女は変わらず笑えるのだろう。初めて遠くから彼がその姿を見た時と同じく。
―――― そうであればいいと、半分はずっと願っていた。



「お前、幸せか?」
消せない苦々しさと、やるせない願いを持ってニケは問う。
その問いに雫は照れくさそうに頷いた。黒い瞳が安穏を抱いて微笑む。
だから彼は小さく舌打して、やがて友人となるであろう女の額を強く指で弾いたのだ。






ここまでのお付き合い、ありがとうございました!
それではニケ君の続きをお選び下さい。