mudan tensai genkin desu -yuki
三十分後、魔法士の正装を着たティナーシャが酒宴の場に戻ってきた。シルヴィアにでも捕まったのか、薄い化粧をしている。
そこに居るだけで場の空気を変えるほどの美しい魔女は、改めてルストに挨拶をした。
「先ほどはあのような格好で、失礼しました」
「いえ、討伐大変だったでしょう」
微笑して頭を下げる魔女は、タァイーリの王宮で会った時とまったく違う雰囲気を纏っていた。
人を寄せ付けない神秘的な威圧感が消え、木漏れ日のような穏やかな優しさがそこにはある。
そのことがルストには嬉しくもあったし、寂しくもあった。
人であり魔女であり玉座にない女王でもあるティナーシャは、その側面を月の満ち欠けのようにくるくると変える。
人間は誰しもそういった多面性を持つものだが、彼女は魔女として長い年月を生き抜くためにそれぞれの側面が如実に分化しているのだ。
隣の席に座った魔女の繊細な横顔を見ながら、ルストはずっと言おうと思っていたことを切り出した。
「あの時はお世話になりました。
貴女に言われたことをずっと考えて……結局私は今まで何も自分で考えてこようとしなかったのだと思い当たりました。
神は確かに絶対ですが、その名に隠れて力を揮うことで、あるいは自分が神にでもなったつもりだったのかもしれません」
ぽつぽつと語られる自戒に、ティナーシャは苦笑する。
「ご無理をなさらないでください。千年も続いた歴史です。貴方一人それに反抗することは難しかったでしょう。
でも、貴方のなされたことはとても意味のあることだと、私は思います。そう……とても人間的です」
「人間的?」
「人を殺すのも救うのも人間の業ですよ」
そう言って微笑むティナーシャは、明るい月のように美しかった。
ルストの胸に鈍い痛みが走る。しかし表面的には笑顔で彼は尋ねた。
「ところでご結婚はいつ頃なさるのですか?」
「へ?」
間抜けな声で聞き返したティナーシャに、ルストの反対側に座っていたオスカーが喉を鳴らして笑い始める。
魔女はそれでようやく、自分がどうしてファルサスにいるのか体面上の理由を思い出した。
「あ、えーと、その」
「嘘ですよ」
返事に困る魔女に代わってオスカーがあっさりと答える。
今度はルストが目を丸くする番だった。
「お気づきかもしれませんが、これを引き取ってくる為の方便です。実際はこれは私の守護者なんですよ」
これ、と言われたティナーシャはばつの悪い顔をした。
一方、その後ろでは、控えていたラザルが驚愕している。
まさかオスカーがルストに本当のことを言うとは思わなかったのだ。
あれだけ魔女を会わせるのも嫌がっていたのに、どういう風の吹き回しだろうと首を傾げる。
ルストはよく意味が飲み込めないのか呆然としていたが、左右の男女を見回すとオスカーに問いかけた。
「ではご結婚の予定は」
「特にありませんね」
「守護者というのは……」
その疑問に答えたのは塔の魔女だった。
「契約関係にあります。私が普段は塔に住んでいるのはご存知ですか?
この人はそこを登ってきた達成者として、私と契約を結んだわけです」
「契約……ですか」
魔女は柔らかく微笑んで頷く。
その笑顔に引き込まれそうになって、ルストはつい口を開いた。
「では仮に私が塔を登れたとしたら、貴女は私の望みを聞いてくれますか?」
ティナーシャとオスカーを除いた、周囲の人間がうっ、と固まる。
ルストが魔女に惹かれていることはどう見ても明らかである。
が、そんなことを口にだしてはファルサス国王の機嫌が悪くなるのもまた明らかだった。
しかし側近たちの心配もよそに、オスカーは平然と酒を飲んでいる。
魔女は少し驚いたが困ったように苦笑した。
「構いませんが、お勧めしませんよ。
あの塔はこの人などは軽々登ってきてしまいますが、本来十人がかりで、百年に一度達成者が出るか出ないかという難度にしてあります。
失敗した者は記憶を弄って大陸中に飛ばしてしまいますし、王族のような責任ある方は、出来れば挑戦なさらない方がいいですね」
魔女の忠告は紛れも無い事実で、ルストはその壁の高さに項垂れそうになる。だが、それでも諦めきれないのもまた事実だった。
こんな女は二人といない。
今はその彼女が手の届くところにいるのだ。
自分が魔法士に厳しいタァイーリの王位継承者であることも彼女が魔女であることも、この瞬間には関係なかった。
ルストは思わず彼女の手をとる。目を瞠る魔女に向き直った。
「あの……」
「ティナーシャ」
ルストの言葉を遮った契約者に、ティナーシャは首を傾げる。
オスカーは酒盃を持った手で露台を指差すと「込み入った話なら外で拝聴しろ」と何ということの無いように言ってきた。
彼女は何の話なのか怪訝に思いながらも、頷くと立ち上がる。
恐縮するルストが「お借りします」と魔女を伴って外に出て行くと、近くで聞いていたアルスがオスカーに耳打ちした。
「よろしいんですか」
「何で俺が、自分の二十倍も生きてる女の面倒をそこまで見なければならないんだ」
もっともだが意外な返事に、側近たちは顔を見合わせる。
当のオスカーはしかし、平静を保ったまま酒盃に口をつけたのだった。
ルストと魔女はすぐに戻ってきた。
どちらも表面上は何ら変わりなく見える。
ティナーシャはオスカーの隣に座ると、酒盃を見て美しい眉を寄せた。
「あまり飲まないでください」
「何故」
「死ぬから」
「意味が分からんぞ」
魔女はそれ以上答えなかった。
オスカーは不審に思ったが酒盃を置くと代わりに水を手に取る。
それからしばらく一同は歓談していたが、ティナーシャが「お先に失礼します」と部屋に戻ると、それを皮切りに自然と終わりになっていった。
自室に戻ったオスカーは着替えながら、僅かに残る酔いに、風呂で酒気を抜いてしまうべきかどうか迷っていた。
魔法で動く時計を確認すると、日付が変わろうかという真夜中である。
さて、どうしようかと上着を脱いだ時、窓が外から叩かれた。
返事をすると、魔女が硝子戸を開けて入ってくる。オスカーはそれを見て唖然とした。
「何だその格好は」
「動きやすさ重視」
ティナーシャは袖の無い黒いドレスを着ていた。
上半身の曲線にぴったりと添うその服は、腰から下が若干膨らんでいるが、その代わり丈が異様に短い。
白い滑らかな足がほぼ全部見えている。
さすがに下に何か履いているようだが、それでもぎょっとしてしまう。
足の痣は魔法で消し直したのか綺麗になくなっていた。
オスカーは彼女の白く細い脚をまじまじと見つめる。
「目の毒というか保養というか……」
「貴方も動きやすい格好してください」
見ると彼女は厚手の綿織物を数枚抱えている。
何のつもりか不思議に思いながらも、オスカーは薄い上着を着た。
「あ、ナークも連れてってくださいね」
「何なんだ……アカーシアは要るのか?」
「別にどっちでもいいです」
とりあえず物騒な用事ではないらしい。
オスカーは部屋の隅で既に寝ていたナークを起こし肩にのせた。
迷ったが結局アカーシアも帯剣する。
魔女は彼の手を取ると、転移門をその場に開いた。
二人は広い草原の上に出た。月が皓々と明るい。魔女はナークを抱き上げると、大きくなるように頼んだ。
その背に乗って彼らは更に移動する。向かう方向の遥か遠くに街の光が見えた。徐々に近づくその明かりを見て、オスカーは隣の魔女に尋ねる。
「何処の町だ?」
「ニスレです」
オスカーは息を呑んだ。街の向こうに海が広がっている。
月光が青白い光を注ぎ、それを受けて漣が白く光った。
映り込む月は僅かに揺らぎながらも宝石のような輝きを帯びている。
初めて見る海の圧倒的な姿にオスカーは何も言えなかった。
何処までも続く夜の海は静寂と神秘を湛えている。
「本当は昼来れればよかったんでしょうけど、お忙しいですからね」
「……いや、充分だ」
感嘆混じりの返事に、魔女は満足そうに微笑んだ。
ナークの頭近くに移動すると彼女は何事か指示をする。
ドラゴンは新たな指示に、海の上をゆっくり旋回した。
「クラーケンでも見せてくれるのか?」
「そうだと言ったらどうしますか」
「アルスに言ったことを撤回する」
魔女は、彼が何を言ったのか知らなかったが、大体想像はついたので笑い出した。
ドラゴンは向きを変えると、陸沿いに飛び始める。
やがて街から少し離れた岩ばかりの絶壁の上にナークは二人を下ろした。
小さい大きさに戻るとオスカーの肩に乗る。
魔女は契約者の手を取ると彼を伴って浮かび上がった。
断崖に沿って徐々に降下する。
何もかもが新鮮で海を見下ろしていたオスカーは、断崖の途中に洞穴が開いているのに気づいた。
魔女は彼の手を取ったままそこに入っていく。
中は斜めの空洞になっており、ゆっくりと下りていくとやがて海水が湛えられた広い空間に出た。
空洞を通って僅かに入り込む月光が水面を青く照らしている。
周囲一面岩壁に囲まれているせいか、波はない。
彼女はその脇の、海水の届かない小部屋ほどの足場に彼を下ろした。
白い両手を広げると、そこにいくつもの光球が生まれる。
それらは魔女の手を離れるとあるものは岩の天井に、あるものは海中に沈み辺りを照らした。
空間が青い輝きに染まる。
水面は光を受けて鮮やかに明るい青に、深くなるに従ってその色も濃くなったが、
海中に沈められた光球のせいか、ところどころ目の覚めるような美しい青に染められている。
溜息を禁じえない水の神秘に、オスカーは思わず見惚れた。
魔女は会心の笑みを浮かべる。
「どうですか?」
「絶景」
「下は砂なんで、安心して泳いでください。魚もいませんよ」
「泳ぐのか!」
「泳げるんでしょう?」
抱えていた綿織物は体を拭くためのものだったらしい。
彼女はそれを濡れない場所に置くと、おもむろに海中に飛び込んだ。
水飛沫が宙に輝く。
オスカーは、それであの格好なのか、と納得しながら上着と靴を脱いだ。
アカーシアと眠そうなナークと共に脇に置く。
水に入ると一瞬ひんやりと冷たかったが、すぐに慣れた。
底まで潜ってみると、白い砂が敷き詰められている。
泳ぐのは子供の時以来だが、体が覚えていた。
息を継ぐために海面に顔を出すと、髪から水を滴らせたティナーシャが宙に浮いて上から彼を覗き込んでいる。
青い光に照らされて、その肌と瞳は蠱惑的な魅力を放っていた。
オスカーは濡れた前髪をかき上げながら尋ねる。
「ここ、お前が作ったのか?」
「自然の産物です。昔はよく来てたんですけどね。人を連れてきたのは初めてです。
あ、足場がないと不便なので昼間ちょっと壁を削りました」
そう言って、彼女は物が置いてある場所を指差す。
オスカーの上着の上で、ナークが丸くなって眠っていた。
「で。誕生日おめでとうございます」
ティナーシャは両手を合わせて楽しそうに微笑んでいる。
ようやく彼はここに連れてこられた理由を理解した。
手を伸ばして彼女の髪を引くと、魔女はゆっくりと下りてきた。
その頬に触れると不思議と熱い。
「ありがとう」
男の礼に、ティナーシャは子供のように声を上げて笑った。
一通り泳ぎを堪能してから足場に戻ると体の重さが身に沁みた。オスカーが振り返ると、魔女はまだ海面で遊んでいる。
本当に子供だな、と苦笑すると彼は布をとって髪を拭いた。
上半身を拭いてから、着替えはどうするんだろうと思って振り返ると水面に座った魔女がまじまじと彼を見つめている。
「何だ」
「いえ、綺麗だなーと思って」
「何が」
「貴方が」
「何だそれは……」
綺麗とは一般的に男に使う誉め言葉ではないと思う。
しかし魔女はそんなことは気にしていないらしく、男の秀麗な顔立ちと、均整のとれた体を首を傾けて眺めていた。
遠慮の無い視線を受け止めながら、オスカーは魔女を手招きで呼び寄せる。
「服はどうするんだ。持ってきて無いぞ」
「乾かしますよ」
水面を無造作に歩いてきた魔女は、白い手を彼の濡れた足に触れさせた。
熱が布に伝わり、みるみるうちに乾いていくが、熱いということはない。
感心しながらそれを見ていたオスカーはふと今まで忘れていたことを思い出した。
「そう言えばルストは何だって?」
「ああ、結婚を申し込まれました」
「またか」
「断りました」
「瞬殺だな」
「別に好きでも何でもないので……」
「そう言って断ったのか。なかなか痛烈だ」
オスカーはルストが少し気の毒になった。
しかしずぶ濡れの魔女は嫌な顔をする。
「そんなこと言って国交が悪化したらどうするんですか。当たり障り無く断りましたよ」
「なるほど」
同じ魔女でもルクレツィアあたりなら喜んで引っ掻き回しそうだなとオスカーは思ったが、口に出さなかった。
しかし彼女の言葉に、少しの違和感を覚えてその内容を反芻する。
理由はすぐに分かった。
今まで彼女は人との交わりを断る理由として『魔女だから』と再三言っていたのだ。
それを、好きではないという理由で断るとは、どういう心情の変化なのだろう。
少し不思議に思ったが、突き詰めてもルストが気の毒なだけな気がしたのでそちらも口には出さない。
「お疲れですか? 帰りましょうか」
「いや、もうちょっと見ていく」
男の返事に、魔女は見惚れるような美しい微笑を見せる。
憂いや淋しさを帯びたものとは違う嬉しそうな闇色の目に、彼女を至近で見下ろしていたオスカーは瞬間忘我してしまった。
小さな顎を指で捕らえると、ごく自然に顔を寄せる。
「え、ちょっと」
ティナーシャが顔色を変え、男の体を押しのけようとしたが、その手も空いている方の手で捕らえた。
そのまま慌てる魔女の唇を奪う。
青く染まる非現実的な空間の中、彼女の存在をその温かさで確かめた。
女の長い睫毛が自分の顔をくすぐるのが分かる。
軽く触れるだけの、しかし長い口付けの後、オスカーは角度を変えて再び魔女に口付けた。
そのまま彼女の熱を、息を、自分の物とするように、焦がれるような口付けを繰り返す。
精神が溶け合う気だるい熱情が彼を満たした。
ティナーシャは突然のことに逃れようと抗ったが、彼はそれを許さない。
息が出来ないほどの口付けの雨に、立っているのもやっとである。
水に濡れたままの肢体の奥から不思議な熱が湧き上がり、彼女の思考を絡め取った。
気が遠くなる。
魔法を使うことさえ忘れた。
熱が、痺れを伴って全身を支配する。
その時、空間を満たしていた明かりが揺らいだ。
オスカーはそれに気づいて顔を離す。
魔女の意識が乱れて、光球が点滅したのだ。
そのことに気づいた彼女は、赤面して空いている手で顔を覆った。
どんな苦痛の中にあってもこのように簡単な術の維持が揺らいだことなどなかったのだ。
「何するんですか……」
オスカーは掴んでいた彼女の手を離した。
かなり強く握っていたが幸い痣にはなっていない。
耳まで真っ赤になっている魔女の頭を軽く叩くと、
「すまん、つい」
と表面上は平静に言った。ティナーシャは彼を睨み返す。
無防備に見える魔女の華奢な体を一瞥して、オスカーは溜息をつきながら頭を振った。
「もうちょっと泳いでいく」
とそっけなく言い残し、さっさと海中に入ってしまう。
取り残された魔女は、動悸がやまない胸を押さえながら
「服、乾かしたのに……」
と呆然と呟いた。
翌日、ルストはファルサスを出た。
魔女は転移を申し出たが、彼はそれを固辞する。
従者や護衛の兵と馬を並べての帰り道、昔からルストを知っている護衛隊長が彼に話しかけた。
「よろしかったのですか、引き下がって」
それが何のことを指すのか分かったルストは軽く笑う。
「綺麗に振られたからな。仕方ない」
「ファルサスには契約で縛られているのでしょう?」
「いや……」
ルストは苦笑した。昨晩の記憶が蘇る。
同じことを聞いた彼に、あの美しい魔女は首を振ったのだ。
『あの人は特別なんです。あんな契約者が他に居たら困りますよ』
彼女自身、自覚がないのかもしれない。
けれど少し困ったように微笑む彼女に、ルストはその時完璧な敗北を悟ったのである。
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