mudan tensai genkin desu -yuki
「完全には消えなかったわね」
ルクレツィアは風呂場で、ティナーシャの背中を見ると嘆息した。
彼女の背の腰付近に子供の手の平ほどの茶色い痣が残っている。
ティナーシャの魔力が回復し目覚めた後、二人の魔女はアルカキアが肌に残した爪痕を治癒にかかった。
しかし全身の治癒が終わったあとも、背中のその部分だけは消えない痣として残ってしまっている。
「あとで痣が薄くなる魔法液を作ってあげる」
「構いませんよ。見えない位置ですし。ありがとうございます」
「ちゃんと手入れしなさい! ……まぁこれを見られる男にはいい薬になるでしょうね」
「何でこんなとこ見るんですか。自分でだって見ませんよ」
「……」
ルクレツィアは小さく溜息をついた。浴槽の中に下りていく。
二人がいるのはティナーシャの自室にある浴室ではなく、ファルサスの城の片隅にある大浴場である。
陶磁と滑らかな石で作られた中は広々として湯気が満ちており、浴槽は泳げそうなほど広かった。
今はそこに二人の魔女がいるだけである。
ルクレツィアは浴槽の中で手で泡を作って遊びながら、洗い場にいる友人を眺めた。
ティナーシャは長い黒髪を梳っている。
その作業に夢中になっている友人に、ルクレツィアは軽く声を掛けた。
「あんたと付き合ってるとこの年になっても驚きに事欠かないわ」
青き月の魔女は唇だけで笑うと、「ありがとうございます」と言った。
ルクレツィアは風呂から上がるとそのまま自分の森に帰ってしまった。
ティナーシャは自室に転移する。寝台に座ると髪を乾かし始めた。
彼女が帰って来た事に気づいたのか、パミラが入ってきてそれを手伝う。
「ティナーシャ様、支度が出来たら陛下がお会いしたいと仰ってますよ」
「分かりました」
ティナーシャはうとうとと眠りそうになる意識を引き戻した。
昏睡から目を覚ました後、1度オスカーと顔をあわせたが、その時はルクレツィアが絶対安静! と言ってすぐに彼を追い出してしまったのだ。
ちゃんと時間を取るのは、目覚めてからこれが初めてかもしれない。
「何を着られますか? ルクレツィア様が色々服を贈られていきましたが」
「あの変態の選ぶ服なんて着たら大変ですよ」
率直なティナーシャの言葉にパミラは苦笑した。
わざわざ服を贈っていったということは10割方嫌がらせ目的である。
おそらく妙に肌を出す服でも用意したのだろう。ティナーシャは捻くれた友人の行いに肩をすくめた。
パミラが白い絹のドレスを出してくれたので彼女はそれに着替える。
着替え終わるとパミラは主人の長い黒髪を梳いて、左耳の横にドレスと共布の大きな花飾りを一つつけた。
次に少し白い頬と唇を補うように薄く化粧をする。
魔女は体にまだだるさが残っているのでされるがままである。
支度が出来るとティナーシャは執務室の前に転移した。扉を叩き、中に入る。
中には、部屋の主人の他にクムや数人の文官たちがいた。
彼らは白いドレスを着た美しい魔女の姿に息を呑む。
「何だお前、待ってれば俺が行ったのに」
「転移してきたのですぐです。お邪魔でしたか?」
「構わん」
オスカーは手招きで魔女を呼び寄せた。
隣りに来た魔女の華奢な体を膝の上に抱き上げる。
肌が治っていることを確かめながらその額に口付けた。
壊れ物を扱うように魔女に触れる王の姿に、部屋に居た文官たちは、席をはずすべきか顔を見合わせる。
クムが苦笑しながら、それを促した。
二人だけになってしまうと、魔女は困ったように契約者に尋ねる。
「やっぱり仕事の邪魔してますよ」
「別にいい。それよりちょっと後で脱げ」
「何で」
「ちゃんと治ってるか見たい」
「治ってるよ!」
ティナーシャは小さな両手で拳を作ると、男のこめかみを締め上げた。
しかし彼は痛くないのかしらっとしている。
「減らないからいいだろう」
「気分的に減ります」
魔女はそっけなく返すと、男の手を逃れて魔法で宙に浮かび上がる。
そのいつも通りすぎる返答に、オスカーは不審を覚えた。
確認するまでもないと思っていたのだが、やはり確認することにする。
「お前、俺のことをどう思ってるんだ」
古典的な問いに、魔女は不思議そうな顔をすると、あっさり答えた。
「契約者」
オスカーは机に突っ伏した。
半分くらいは予想していたのだが、それでも実際聞くとかなりの疲労感である。
何だか疲れを通り越して笑い出したくなってきた。
机に伏したまま笑い出した男を、ティナーシャは怪しいものでも見る眼で見下ろした。
浮いていた高度を下げて、男の髪を指で梳く。
「あと、大事」
「そうか」
オスカーは更に笑い出した。
魔女は眉を顰める。
毒の後遺症でおかしくなっているのだろうか。
前から時々思っていたことだが、この男の笑いのツボはよく分からない。
「何なんですか……」
「いや……お前もうちょっと色々考えてみろ、な?」
はー可笑しい、と言いながら顔を上げた契約者に、魔女は憮然とした顔をした。
言われてみれば何か考えなければいけないことがあった気がする。
その時は非常に重要なことに思えたのだが、ばたばたしていたのと3日寝込んだせいで忘れてしまった。
いつ何を考えようと思ったのか、記憶を手繰りながら、魔女は仕事に戻る彼を残して、部屋を退出した。
談話室に居たのはいつもの魔法士たちの他に、アルスとメレディナもいた。
先に談話室に来ていたパミラが、ティナーシャに会いたがっていた二人に声を掛けたらしい。
一同の歓迎を受けてティナーシャは恐縮しながら椅子についた。
パミラが淹れてくれたお茶を飲む。
「怪我の功名でアルカキアの血清が出来ましたから……。
ルクレツィアに解析を任せてあるので、あの毒に対する対処法が出来たということですね。
それでも死に至るまで数分なので実際の対応は大変ですが」
「でも対抗策があるとないとでは大分違います」
カーヴが興奮した目でそう言った。
アルカキアは入手も困難であるが、その対処法がないことが問題だったのだ。
血清の存在が明らかになれば、使用されることもなくなってくるかもしれない。
アルスはずっと気になっていたことを口にした。
「そういえば結局黒幕は誰なんだろう。魔物をあれだけ召喚して、クラーラを城にいれて、毒針を渡したわけだろ?
並大抵のことじゃないが複数でやってるんだろうか」
「ちょっと見当がつかないです。クラーラは何か言ってましたか?」
「全然。会話にならない」
今回の事件で王を傷つけた実行犯の女は既に気が狂ってしまっている。
情報も得られないし、処刑されるのも時間の問題だろう。
1度は王によって助けられた命であるのに、結局は失われることになってしまった。
そのことを思うとティナーシャは複雑な気分である。
ただそれもクラーラが自身の生き方を選んだ結果であり、またこのことでオスカーがやり方を変えていく必要はないと、彼女は思っていた。
彼を守れなかったのは自分の落ち度である。
さすがに針のようなものを弾くまでに結界の精度をあげると日常生活が困難になってしまうので無理な話だが、
それでもあのような場で彼の隣りを離れるべきではなかった。
そのことを悔いると共に、取り返しのつかないことにならなくてよかったと、心から思う。
事件についての感想をおのおのが述べてしまい、話題が雑談に移るとティナーシャはふと先ほどの執務室でのことを思い出して、それを言葉に乗せた。
「何で笑われるのか意味不明です」
そう締めくくって周りを見回すと、全員が何とも言えない顔をしている。
ドアンなどはオスカーと同じ様に机に伏して笑い出してしまうし、
パミラは頭痛がするかのように頭を抱えた。
カーヴは、「笑える陛下がすごいな……」と洩らしている。
アルスは頭をかきながら尋ねた。
「ティナーシャ嬢、自覚がないのか?」
「何のですか」
「……」
これはつける薬がない。
ほぼ全員がそう溜息をつきかけた時、レナートが口を開いた。
「ティナーシャ様、陛下の仰る通り、もっとちゃんと考えられてください」
真面目くさった臣下の忠告に魔女は戸惑う。
「と、言われても何を考えるのか思い出せなくて……」
「例えば、今回のことにしても、前の他の契約者たちなら同じことをなさいましたか?」
畳み掛けるような質問にティナーシャは首を傾げた。
何人かの顔を思い浮かべる。
「うううううん。状況にもよりますが、したかもしれないけど腹立ちますね」
「陛下は特別なんでしょう?」
「多分……うん、そうです」
何だか子供みたいな返事になってしまった。
他の人間たちは、ある者は面白そうに、ある者は心配そうにそのやりとりを見つめている。
「何故特別なんですか?」
「な、なんでだろう……愛着?」
振り出しに戻ってしまった。
全員が脱力する。
しかしそれでもレナートは折れなかった。
決定的な指摘をする。
「ティナーシャ様は陛下のことを男性として愛されてるんじゃないですか?」
「は?」
場に空白が訪れる。
誰も何も言わない。
中心にいる魔女は呆然としている。
さて、どうするんだろうと一同が見守る中、
ティナーシャは急に立ち上がると横に居たアルスの首を絞め始めた。
「そうなんですか!?」
「俺に聞かないで欲しい……あと首絞めるのやめてください」
力がない彼女の手とはいえ結構苦しい。
ティナーシャは首にかけた手を放すと、アルスの両肩を掴んで揺さぶった。
「年の差が400歳以上あるんですが!」
「貴女は年の差を気にしてはいけないと思う……」
魔力が洩れて窓硝子がぴしぴしと音を立てる。
窓を背にしていたドアンは首をすくめた。
あれだけオスカーにあからさまに口説かれているのに、
また躊躇いも無く彼の為に命を懸けられるのに、
どうしてこんなに無自覚なのだろう。
400年の年月は人から色々なものを奪うらしい、と一同は口に出さぬまま思った。
魔法士たちはそれぞれ、嵐に備えてこっそり結界を張る。
魔女は愕然と立ち尽くしていた。
「わ、私が?」
魔力を帯びた風が部屋の中に吹き始める。
カーヴは慌てて机の上に広げられていた書類を集めた。
ドアンがアルスとメレディナをその結界の中にいれる。
徐々に強くなる風が魔女の髪を舞い上げた。
しかしその発生源の本人は、風に気づかないほど困惑している。
嵐の渦中にあって魔女は呟く。
「私、そういう感情って持ち合わせてないと思ってたんですが……」
「そんなことないと思います……」
シルヴィアが恐る恐る口を出した。
頭を抱えながら魔女は全員を見回す。
「ちょっと多数決とってもいいですか」
「何故そうなるのか分かりませんが、どうぞ……」
「私ってオスカーのこと好きだと思う人ー?」
かなり暢気にも聞こえる魔女の声に、顔を見合わせながら全員が小さく手を上げた。
非常に訳の分からない事態になっている。
魔女はそれを見て数瞬自失すると
「な、何だそれは!!」
と叫び声をあげた。
ようやく家に戻って一息ついていたルクレツィアは、友人が嵐のような勢いで飛び込んできたことに眉を顰めた。
「何かあったの?」
「いえ、大したことじゃないんですが、夕飯作るんで付き合ってください」
「いいけど……まずお茶淹れてよ。あとその服着替えなさい」
ルクレツィアは家事に不向きな白いドレスを指してそう言った。
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