無名の薔薇 01

mudan tensai genkin desu -yuki

言葉はない。
話しかけても返ってこない。
誰も、何も教えてくれなかった。
ただ食事を出され、生かされるだけの毎日。
まるで窓から見える草木のような、それだけの時間。
名前はない。
自分が誰かも分からない。
彼女にとって心安らぐ時間とは夢の時間だけ。
誰かが自分に優しい言葉を囁く、そんな儚い幻の時だけ。
彼女は夢に彷徨い、半ば空想の世界の住人として生を過ごす。
わずかな慰めを実体のない相手から貰い、精神を保つ。
だが、永遠に思われた生活も突然の終わりを告げる。
それは戦火が彼女の棲む城を焼いた日、いつか来ると思っていた彼女自身の死よりも早くやってきた。

窓の外から悲鳴が聞こえる。
初めて聞く声、「ああ、あれが悲鳴なのだな」と彼女は思った。
鼻をつく異様な臭気。それが物が焼ける匂いだとは知らない。
ただ白煙を見て、煙と雲はどう違うのだろうとぼんやり感じただけだった。
悲鳴、怒号、それらが叫ぶ意味も彼女にはよく分からない。
言葉が指し示すものを知らなければ、ただの音でしかない。
彼女には圧倒的に経験が不足している。
だから分からないまま、ただ待った。
いつもと違う何かが自分の前にまで押し寄せるその時を。
鉄を鳴らす音、慌しい足音。
それらは全て彼女を閉じ込める扉の前で止まる。
話声に続くのは鍵を壊す音。その本当の意味を彼らは知っているのだろうか。
扉が開かれる。
空気が流れ込む。
部屋の中を風が巡った。
彼女は振り返る。振り返って、前にいた男を見る。
青い目を持つ男は、彼女の視線に息を呑んだ。

アンネリは大陸南東にある小国だった。
大国であるキスクから一国を隔てて存在する平和な国。
民のほとんどは狭い国土の2/3を使って綿を育て木綿を作り、それを他国に売って生活している。
だがここ一年、隣国のロズサークがアンネリに対し属国となるようずっと圧力をかけ続けていた。
綿生産だけが取り得のアンネリを併呑して何の利があるのかと周辺の国は首を傾げていただが、所詮他国のこと、介入する程の理由もない。
そうして緊迫した情勢が続いていたある日、ついにロズサークはアンネリに攻め込んだのだ。
ほとんど人数のいない軍隊を蹴散らし、ロズサークの軍は遮るものもいない街道を城に向かって猛々しく進軍すると、あっという間に城を落としてしまった。
あれだけ圧力を受けていたのに何の警戒もしていなかったのかとロズサーク王オルトヴィーンは敗戦国を嘲笑う。
既にアンネリの王は戦場にて討ち取られていた。
王妃もロズサークが入城した時点で毒をあおったのだという。顔を歪めた死体が寝室に残っていた。
オルトヴィーンは血で彩られた謁見の間を勇壮たる姿で歩みながら部下に命じる。
「あとは幼い王子がいるのだったか? 見つけたら捕らえろ、人質にする」
「は! かしこまりました!」
散っていく兵士たちとは別に、一人の将軍が歩み寄ってくる。
将軍は臣下の礼を取ると王に報告を述べた。
「大臣のうち一人を捕らえてあります。城内は既に把握済みです。ですが……」
「どうした」
「それが、幽閉に使われた離れがあるということでして」
「幽閉?」
オルトヴィーンは眉を顰める。城にそういった内密の部屋があることは少なくない。
表には出せない事情のある者を閉じ込めたまま一生を終わらせる、それは王家においてはままあることだった。
問題なのは今も使われているのか、使われているのだとしたら誰が閉じ込められているのかということだ。
王の疑問を察し、将軍は答える。
「離れには、第一王女リースヒェンが幽閉されているとか」
「王女? 王女がいたのか」
その話は初耳だ。オルトヴィーンは青い目を瞠る。
今までずっとアンネリには王子一人しかいないとされていたのだ。
それを王女がいるにも拘らず幽閉されていたとはどういう理由でのことなのだろう。
興味が湧いた。
もし彼女が真に王族ならば、逃げ出した王子に代わり人質と出来るかもしれない。
何より捕らわれの姫君というものにオルトヴィーンはいささかの稚気を覚えたのだ。
場所を聞き、将軍と共に彼は自ら離れに向かう。
中に入り、問題の部屋の前に着くと厳重にかけられていた鍵と鎖を砕き、扉を開けた。
彼女は部屋の窓から外を眺めていたようだった。
扉の開く気配に振り返り、オルトヴィーンを見つめる。
その瞬間彼は、何故彼女が幽閉されていたのかを悟った。
床にまで届く長い黒髪。
充分な食事を取っていないのだろう、異様に細い、けれど白い腕。
16-7歳と思しき貌は何の感情もなく彼を見上げている。
芸術を超える、恐ろしいほどまでに完成された容姿。
大きな漆黒の瞳がオルトヴィーンを射抜いた。
彼の後ろに付き従っていた者たちが思わず息を呑む。
王とも王妃とも似つかぬ髪の色、瞳の色、そしてその美貌。
あまりにも際立って異質な存在。
だからこそ彼女は「いない者」とされたのだ。
紅い唇が動く。
透き通った声が響いた。
「あなたはなに?」
何もかもが欠けた声。
答を期待していない問い。
今まで彼女はその声を他の誰かに向けた事があるのだろうか。
そして返事を得られたことはあったのか。
だからオルトヴィーンは答える。堂々と、禍々しい笑みさえ浮かべながら。
「俺は、今日お前の国を滅ぼした男だ」
女は軽く首を傾げる。
漆黒の目に浮かんだのは理解のみで、他には何の怒りも、嘆きも現れはしなかった。

リースヒェンを連れて帰ると言った王に、側近たちはいい顔をしなかった。
物心つかぬ頃から幽閉されていたということもあり、まるで幼児のように何も知らない女であることも原因であったが、何よりもその美貌が問題だった。
王は彼女に魅了されたのではないかと臣下たちは危惧し、王女をアンネリに留めるよう勧めたのだ。
だがオルトヴィーンは彼らの忠言を退け、彼女を国へ連れ帰ることを決定した。
魔法士たちが開いた転移門を使い、王はロズサークへと帰還する。
その耳に魔法士長であるリマが囁いた。
「陛下、お耳に入れたい事が……」
「何だ」
「アンネリ王女の幽閉されていた離れ、あの場所には強力な結界が張られておりました。
 数十にも及ぶ結界、尋常ではございませぬ。あれは……」
「リースヒェンを閉じ込める為のものだというのか? 馬鹿げている」
オルトヴィーンはリマの不安を一笑に付した。
「単に元々あった場所を使っただけであろう。あんなやつれた女一人の為に厳重な結界を張るはずがない。
 御伽噺の魔女でもあるまいし……」
「陛下!」
「そう怒るな。魔女など前時代の遺物だ。そうであろう?」
「青き月の魔女と呼ばれぬ魔女以外の生死は分かっておりませぬ。今もどこかで息を潜めてやるかもしれぬのですぞ」
「ならばそのまま息を潜めているだろう。気にする必要はない」
剛毅な王の言葉にリマは不服ながらも黙った。
その様子に満足そうに頷きながら王は城の中へと戻る。
既に彼にとってリースヒェンを手に入れることは決定された事柄であった。

湯浴みをして埃を落とし、長すぎる黒髪を腰までの長さに切ったリースヒェンは、元から後宮にいたオルトヴィーンの五人の側室の誰よりも美しかった。
支度にあたっていた侍女たちは思わず溜息を洩らす。
王が幽閉されていたアンネリの王女を連れて帰ってきたと聞いた時は驚いたが、これでは無理もない。無視する方が困難であろう。
深い黒の瞳は不思議な引力を帯びて辺りを見回す。
身支度を整えている間、リースヒェンはずっと幼児のようにあちこちの物を指差してはその名前を呟いていた。
あどけない仕草、これで笑顔を見せてくれたら言うことはないだろう。だが彼女はずっと無表情のままだ。
今もリースヒェンは窓際に飾られた花を指差し「薔薇」と呟く。
その耳に侍女の一人、エルシーは囁いた。
「今夜、陛下がいらっしゃいますのでそのおつもりで」
「陛下? 王?」
「ええ。あなた様をここにお連れになった方でらっしゃいます」
「オルトヴィーン。そう聞いた。私の国を滅ぼした男だと」
淡々とした声にエルシーは言葉につまる。それは事実だ。王は彼女の両親を殺し、国を滅ぼした。
アンネリは民衆こそほとんど殺されはしなかったが、王家を失いロズサークの属領となったのである。
しかしリースヒェンの目には恨みの色はない。
彼女は何を考えているのか分からぬ表情で壁を見やると、白い指を上げて「時計」と言った。
これではまるで赤子と一緒だ。そんな彼女を王は権力を以って自分のものとするのだろうか。エルシーは僅かに表情を曇らせる。
リースヒェンはそんな彼女を急に振り返った。
黒い瞳が彼女を凝視する。
「王女とはどうするもの? 王の言うことを聞くの? それとも死んだ方がいいの?」
余りにも率直な疑問にエルシーは愕然とする。
自分の名前も知らなかったという彼女は王族としての気構えなど分からないのだ。
だが彼女の所作はその容姿の為だけではなく美しいものであったし、何より王女としてすべきことを問う姿勢こそが紛れもなく王族のものだと彼女は思った。
エルシーは彼女の瞳を直視できず、目を伏せながら答える。
「それは、王の言うことを聞き、不興を買わぬことがお国の民の為にもなりましょう」
「そう」
王女は簡潔に答えると頷く。そしてその後に口を手で覆って小さく欠伸をした。
疲れているのだろう。まだ今日、幽閉から解放されたばかりなのだ。
エルシーは彼女が不憫になった。
「お疲れならば少しお眠りになられたら如何でしょう。陛下がいらっしゃる時に間に合うようお起こし致します」
「うん……なら、眠る」
リースヒェンの返事にエルシーは広い寝台へと彼女を案内した。
細すぎる体を彼女はゆっくり横たえる。
一礼して退出しようとする侍女を亡国の王女は呼び止めた。
「エルシー」
「何でございましょう」
「ありがとう」
温かみのない、けれど真摯な言葉。
エルシーは目を瞠ると、にっこり笑って頭を下げたのだった。

夢だけが彼女に優しい。
だから眠ることが好きだった。その中でなら人と話が出来るから。
今も眠りの中にある彼女に誰かが囁く。
誰かはまるで彼女のすぐ傍に立っているかのように、穏やかな、しかし熱のこもった声で呟いた。
 ようやく見つけた。
―――― 誰を?
 お前を
―――― 私を
 遅くなった。辛い目にあわせた。
―――― 大丈夫
 すまない。
―――― 大丈夫だから……
髪を誰かの手が梳いていく気がする。
その温もりに彼女は安堵した。
―――― ありがとう。大丈夫。
彼女の思いに温度が答える。
今までのどの夢より人の存在を近く感じた。
涙が出そうな程優しい夢。

そして彼女が目を覚ました時、部屋の隅には小さな紅いドラゴンが丸くなって眠っていた。