無名の薔薇 02

mudan tensai genkin desu -yuki

リースヒェンが目が覚めたらしき気配を感じて部屋に戻ったエルシーは、まだ寝台にいる彼女の膝の上に紅いドラゴンがいることに気づいてぎょっとした。
つい2時間前までそんなものはいなかったはずだ。一体どこから入り込んだというのだろう。
恐怖にエルシーは顔を引き攣らせたが、リースヒェンは何の抵抗もなくドラゴンの喉を撫でている。
普段人前に姿を見せることがほとんどないその生き物は、まるで猫か何かのように目を閉じて喜んでいるように見えた。
「そ、それはリースヒェン様の飼ってらっしゃるもので?」
「違う。起きたらいたの」
「では衛兵を呼んで参りますので、そのままで……刺激なさらぬよう」
「なぜ?」
王女は眠気の色濃く残る黒い瞳を疑問でいっぱいにして問う。
美貌に似合わぬ子供の目がエルシーを見つめた。
「危なくない。私が飼うから」
「ですが」
「お願い」
嘆願に合わせてドラゴンが小さく鳴く。
エルシーは、まるで自分が子猫を飼いたいとねだる子供を叱っているような錯覚に捕らわれた。
王女を不憫だと思った先程の記憶が甦る。
どうせ彼女はこのまま後宮の一室で飼い殺されてしまうのだ。
ただ幽閉される場所が自国の城から敵国の城へと変わっただけ。
贅沢は出来てもそれは自由ではまったくない。
そう思うと、大人しく小さなドラゴンくらいいいではないかという気にもなった。
エルシーは深く溜息をつく。
「分かりました。ただ陛下に咎められては庇うことはできませんので」
「うん。お願いしてみる」
リースヒェンは頷く。
口元に少し微笑が浮かんだように見えたのは気のせいであろうか。
彼女はそのまま花のような顔をドラゴンに近づけると
「ナーク」
と透き通る声で囁いた。

何故アンネリを攻め落としたのか。その答は単なる第一歩だったからというだけである。
オルトヴィーンの本当の目的は大国キスク、或いはそれら大国とロズサークが対等以上になることだ。
その為にまずキスクとロズサークの間にある二つの小国のうち、アンネリを手に入れた。
アンネリの木綿はそれ程利益が出るわけではないが、安定していい収入にもなるであろう。
属領への税など支配の細かいところを決定してしまうと、彼はアンネリと共に手に入れたもう一つの存在を思い出した。
不健康に痩せた体。けれどそれを補って有り余るほど美しい女。
17歳なのだという彼女はしかし、少女らしさは微塵もない。
もっと幼い子供か、或いはもっと咲ききった女のように見える。
まったく不可思議な人間だ。あの美貌を垣間見るだけで捕らわれそうになる。
もし17年の空白を埋めてそれなりの弁えを持てるのなら、正室に据えてやってもいい。
自分の隣であの美しさはさぞ映えるであろう。
オルトヴィーンは正装した彼女の姿を想像し、ふっと微笑した。次の書類を手に取る。
そこには先日の戦いによって死亡した将軍の代わりに、分隊長を務めていた男を新しく将軍の地位に上げてはどうかという要望が記されていた。
「ディータというのか。若いな。俺と同じ年か」
オルトヴィーンと同じ24歳の分隊長が大層剣の腕が立つ人間であることは、彼の耳にも届いていた。
問題があるとすれば仕官したのがまだ昨年であるということくらいだが、これからのロズサークに必要なのは有能な人材だ。
王は少しだけ考えたが許可の署名をする。
改革は既にあらゆるところに及んでいる。
文官たちも優秀であれば年齢を問わずして重要な仕事と地位が任せられ、元の身分とは関係なく城に勤めることが可能になっていた。
国そのものがオルトヴィーンの野心に呼応するように走り始めている。そのことを彼は満足に思う。
安穏に堕する者は上に立ち続ける資格はない。
いくつもの大国でさえ、ファルサスとガンドナを除いてこの三百年の間に興亡を経験したのだ。
なればこそその中にロズサークが加わらぬとは誰も言えまい。オルトヴィーンは端整な顔に不敵な笑みを見せる。
変革の時代が、大陸に近づきつつあった。

リースヒェンに与えられた部屋の窓は、アンネリの部屋のものより大分大きい。
そこから見える月を彼女はじっと眺めていた。
今日一日で色々なものを確かめる事が出来た。
物と名前を合わせていく作業は、まるで奔流のように彼女に知識を与える。
そしてまた、初めて知る自分の名というものも不思議な感覚を彼女に覚えさせた。
名がつけられただけで自分というものが明確になった気さえする。
確かにアンネリの王妃から生まれながらありえない髪と瞳の色を持った彼女は、今まで魔を帯びているよくないものとしか定義されていなかったのだ。
その時部屋の扉が叩かれ、彼女は振り返った。
「陛下がいらっしゃいました」というエルシーの声に数秒遅れて扉が開かれる。
半日ぶりに会う王はリースヒェンの姿をみとめると、青い瞳に微かな驚愕を湛えて彼女を見つめた。
「美しい女だとは思っていたが、見違えたな」
「ありがとう……ございます」
リースヒェンは頭を下げると、ふと思い出して部屋の隅に視線を転じた。そこにはドラゴンが眠っている。
彼女の言いたいことに気づいたオルトヴィーンは笑った。
「侍女から聞いた。好きにするがよい」
「はい」
「お前は綺麗に咲く花でいろ。そうすることが王に侍る女の務めだ」
オルトヴィーンは彼女の前に立つと黒絹の髪に手を差し入れた。滑らかな手触りは実に蠱惑的だ。
彼女は恐れも媚びもなく王を見上げている。
「昼間、侍女にききました。私は王女としてどうすればよいのかと」
「何と言われた?」
「王の不興を買わぬように、言うことを聞くようにと」
「その通りだ。まぁ、ただ従順なだけでもつまらぬがな」
「なら私はあなたを憎んだ方がよいでしょうか」
「…………何?」
まるであるべきものがある場所に、ぽっかりと穴が開いているかのような言葉。
オルトヴィーンは眉を顰めて目の前の女の瞳を覗き込む。
そこには何もない。読み取れない。
踏み込めば落ちてしまうのではないかと彼はぞっとした。
そして自分が戦慄を感じたことにオルトヴィーンは気づいて苛立つ。
自然と声に力がこもった。
「憎みたければ憎めばよい。それでもお前は俺のものだ」
彼女に、そして自分に言い聞かせるような言葉に部屋の隅で寝ていたドラゴンが顔を上げる。
紅い瞳が暗い部屋の中でじっと二人の男女を見つめた。
オルトヴィーンは女の顎を捕らえ、上を向かせる。
彼女は人形のようにそれに従った。
顔を寄せても目も閉じない。空洞の如き女。
だが王はそれに構わず彼女に口付けた。柔らかい温もりに劣情が沸き起こる。
理性が本能に場所を主導権を明け渡す。
その時、何かが彼の頬を掠めていった。

「何だ!?」
オルトヴィーンは反射的に腕の中の女を引き剥がした。
護身用の剣に手をかける。
しかしリースヒェンは何だか分からないといった顔で首を傾げただけだった。
ふと黒い目を丸くする。彼女は白い指をあげ、王の頬を指した。
「傷」
言われて頬を確かめると、肌が薄く切られ血が流れ出している。
オルトヴィーンは信じられないものを見るように血に濡れた己の指を見やった。
目の前の女を睨む。
「お前がやったのか?」
「知らない」
「だが他に誰がいる!」
王は女の腕を乱暴に掴んだ。肉のない折れそうな腕。彼女は苦痛に顔を歪める。ドラゴンが鋭く鳴いた。
遅れて窓辺に飾られた花瓶が砕け散る。
オルトヴィーンは目を瞠った。誰も触れていない。それは確かだ。なのに何故割れたのか。
しかし彼の思考をかき乱すかのように続けて部屋に飾られていた陶器の像や、水差しもまた砕け散った。
異音が部屋の外まで聞こえたのか、扉を叩き王を呼ぶ声が重なる。
「何だこれは」
王はとりあえず目の前の女を庇おうと腕を伸ばして、おかしなことに気づいた。
大きく開いた胸元、そこがうっすら青白く発光している。
よく目を凝らせば光の下に魔法の紋様が浮かび上がっているのが見えた。
オルトヴィーンは彼女の服に手をかける。絹を裂く音がして、白い躰が露わになった。
「お前……!」
豪胆と呼ばれた王が言葉に詰まる。それだけのものがそこにはあった。
白く痩せ細った体。その肌の上にほぼ万遍なく複雑な魔法の紋様が描かれている。
それがまるで周囲で物が割れる音と呼応するかのように光を強めているのだ。
先程まではこんなものはなかった。湯浴みをしたのだ、気づけば侍女が言ってきただろう。
オルトヴィーンは黙って痛みを堪える女を睨む。
「お前は何だ」
扉を叩く音が一層強まる。壁に掛けられた鏡が高い音を立てて割れた。
ドラゴンが声を上げながら体を起こす。
不意に女の体が傾いだ。オルトヴィーンは細い体を引き寄せる。
緊張の為か疲労の為か、それとももっと別の何かの為か、リースヒェンは意識を手放しぐったりと男の腕の中に収まったのだった。

失神した彼女を侍女に介抱させ、更に城に仕える女の魔法士に診させたオルトヴィーンは一時間後、魔法士長の名義での報告書を受け取った。
目の前に立つリマを一睨みしてから彼は書類に目を通す。
「魔法士? 制御訓練経験のない?」
「おそらくは。それもかなり強力な魔法士です。体に施されていた紋様は全て姫君の力を封じる為のものでした」
オルトヴィーンは深く息を吐いた。
魔法士は血によって力が受け継がれることもあれば、魔力を持たない両親から生まれることもある。
そして魔力を持った子供の半数は、制御訓練を受けなければ魔力の暴走によって人を傷つける恐れがあるのだ。
ちょうど今夜のリースヒェンのように。
リマは内心それみたことか、と思っているのかもしれないが表面上は平然と続けた。
「幽閉された場所に張られていた結界も姫君の為のものでしょう。
 中の魔力を封じ、外からは中の魔力が分からないように敷かれておりましたから」
「とんだ捕らわれの姫だな。封飾具をつけさせるか」
「それで何とかなるのでしたら。ただあの離れに張られていた結界と同程度の封飾具などございませぬ」
リマは言外にリースヒェンを諦めろと、あの場所に返せと言っている。
それが分かるだけにオルトヴィーンは不快を禁じえなかった。
17年の歳月を経てようやく彼女は外に出られたのだ。自由になった。にもかかわらず1日でまたあの牢獄に戻せというのか。
王は彼女の子供を思わせる目を思い出す。何も持っていない、得られなかった目。
自分ならば彼女に何もかもを与えられると思ったのではないか?
今まで感じたことのない苛立ちが王の内側を焼く。彼は最早不機嫌を隠そうともせず吐き捨てた。
「制御訓練をさせればよい。大体今まで大人しくしてられたではないか」
「おそらくは感情に連動しているのかと。大抵の子供はそうでございますから」
「俺に抱かれるのが嫌だと、そういうことか」
「御意」
否定をしないリマにオルトヴィーンは舌打した。嘘でも「そうではない」くらい言って見せろと思う。
しかしそれが真実なのだということは彼にも分かっていた。
無意識下でリースヒェンは彼を拒絶しているのだろう。両親を殺し、国を滅ぼした敵である王を。
幽閉から解いてやったくらいで好かれるのではないかと思ったことこそ間違いだったのだ。
だがそれで彼女を手放すことはオルトヴィーンには考えられなかった。
それは敗北であり、経験したことのない喪失だ。
整った容姿と優れた才を持つ彼は、欲しいものが手に入らないということに慣れていなかった。指で机を苛立たしく叩く。
「分かった。嫌がられないようになればよいのだろう。別段難しいことではない。野良猫を手なずけるようなものだ」
「しかし、陛下!」
「一応制御訓練もさせておけ。あの体の紋様は消せぬのか?」
「消されない方がよろしいかと存じます。それにあれではファルサスにでも頼まねば解呪はできないかと」
「分かった」
自分の女の体にあのようなものが描かれていることが癪だったが仕方がない。普通にしていれば浮き上がっていないのだ。
時間はある。
彼女に自分を選ばせればよいだけだ。どの道亡国の王女であるリースヒェンに他に選択肢はないのだから。
そしてそれだけの時間があれば彼女も少しは知識をつけることができ、痩せた体も年相応の肢体に回復するだろう。
ちょうどいいとオルトヴィーンは結論づけた。
この日より彼は、普段進めている内外の政策に加え、一人の女の目を自分に向けさせる方法について考え始める。
それがどうこの国の行く末に影響してくるのか、この時はまだ彼も彼の臣下も、まったく分かっていなかったのだ。