無名の薔薇 03

mudan tensai genkin desu -yuki

アンネリがロズサークに攻め落とされたという情報が伝わってきた時、アンネリとキスクの間にある国、ナドラスには驚愕が走った。
今まで大国キスクの存在の為か、ここ数十年辺りは平穏そのものの情勢を見せていたのだ。
その均衡がついに破られた。次はナドラスかもしれないという戦慄が王や重臣たちの間に生まれる。
「ロズサークの王オルトヴィーンは野心家と聞いていたが、噂通りだったということか」
父王の言葉に王太子のジェドは頷く。
早急に軍備を整えねばならない。アンネリもロズサークがまさかそこまでするとは思っていなかったのだろう。
気の毒だが負けた方にはそれなりの理由があるのだ。そしてナドラスはそうはならない。
間諜を手配し、予算の調整を話し合いながらジェドはふと思い出す。
アンネリの、いないはずの王女のことを。
他の国の者は知らないことだ。けれどジェドは知っていた。
彼女は本来ならば彼の花嫁となるはずの人間だったのだから。
王妃が懐妊した子が女だと分かった時、未来の同盟を予定してジェドと王女の間には婚約が予定された。
上手く行けばナドラスとアンネリは共に手を取り合って大国や他の国々から自国を守っていけただろう。
しかし彼女が無事生まれたという伝えからまもなく、不慮の事故で王女は死亡したという話とともに婚約の取り消しが伝えられた。
突然すぎる赤子の死に父王は心からの弔辞を送ったという。
当時まだ3歳だったジェドにその時の記憶はない。彼にあるものは別の記憶だ。
その10年後アンネリの王宮を訪れた時に、夜の散歩に出て離れの窓際に立つ彼女を見つけた記憶。
青白い月光の下、よく出来た人形のように美しい少女は城の裏庭をじっと見下ろしていた。
黒い髪に黒い瞳、アンネリの王夫妻のどちらにも似ていないにも拘らず、すぐに死んだはずの王女だと思ったのは何故なのだろう。
作り物に似た美貌の少女に声をかけることもできず、ただ見つめていたジェドは、翌朝彼女のことをアンネリの人間に尋ねた。
しかし聞かれた彼らの誰もが言いにくそうに口ごもり、そそくさと去っていく。
その様子にジェドはますます確信したのだ。彼女こそが自分の婚約者であった王女なのだと。
嬉しそうでも悲しそうでもない、ただ空虚なだけの彼女の貌は強く彼の記憶に残った。
だからいつか自分が王位を継いだら、その時まだ妃がいなかったら、彼女を訪ねてみようと思っていたのだ。
どんな事情があるのか分からない。けれど王女としてちゃんと生きている人間として、日の下に連れ出してやりたかった。
城が落ちた時、彼女はまだあの場所にいたのだろうか。
もし彼女が今も無事であるのなら17歳になっているはずだ。
陥落した城で彼女のいる離れだけ踏み込まれないということはありえない。
上手く逃げ出したか、捕まったか、殺されたかだ。
ジェドは彼女の名を思い出す。
リースヒェン・キリテ・ライシャ・テル・アンネリ。
孤独の中、生きてきた彼女は、今どこにいるのだろうか。

リマは目の前の女が組んだ構成を見て唖然とした。
ちょっと魔法理論の基礎と、基本の構成の組み方を教えただけだ。
にもかかわらずこの構成は何だ。魔法を習い始めて一週間目の人間とはとても思えない。
大胆で精密な、何よりも強大な構成。
天賦の才というだけでは説明できないそれにリマは恐怖さえ覚えた。
城の応接間にて講義を受けていたリースヒェンは蒼ざめた男に首を傾げる。
「まちがってた?」
「い、いえ……ただ、ここの系列が少し捻れてしまっていらっしゃいます」
「本当だ。ありがとう」
彼女は手の中の構成を消すと再び作り直す。
まるで呼吸するかのように楽々それを為す女をリマは畏怖の眼差しで見た。
これは、思っていたより遥かに危険な存在だ。
幽閉されていたというのも髪や瞳の色だけではなく、本当はこの力が原因なのではないか。
その疑問を肯定するかのような体の紋章は、今は薄紅色のドレスに隠されていて見えていない。
オルトヴィーンはリースヒェンの体の紋章を知った翌朝、彼女を後宮から城の中に移していた。
何も知らない彼女に昼間は王族としての勉強や魔法の講義を受けさせながら、自分の空き時間には彼女に会いに来る。
王が彼女に執心していることは誰の目から見ても明らかなことであったが、それが遊びの範疇なのか本気なのかはおそらく本人も分かっていなかっただろう。
リマは時計を見る。ちょうど3時間、終了の時間だ。構成を弄る女に終わりを告げようと口を開きかける。
その時、今まで待っていたかのように扉が開かれた。
オルトヴィーンは魔法士長と向かいに座る女を見下ろすと満足げな笑いを見せる。
「リースヒェン、今日は城の外に連れて行ってやる。動きやすい服に着替えてくるとよい」
「はい」
彼女は隣で眠っていたドラゴンを抱き上げると支度をする為に一時立ち去った。
その背を見送ったリマは苦い顔で王に頭を下げる。
「陛下、恐れながら申し上げます。あの方をお傍に置くことはやめた方がよろしゅうございます」
「それはもう聞き飽きた。何故今更口にする」
「世の王族の方々は強力な魔法士の女に伽をさせることがないことはご存知ですね」
リマの言わんとするところを理解してオルトヴィーンは沈黙する。
王は魔法士を側女にはしない。何故なら何の武器もなく己のみの力で人を害せる存在こそが魔法士だからだ。
彼女たちは身ひとつであっても王を弑することができる。その為彼女たちを遠ざけることはここ二百年、既に宮中の常識でもあった。
それでも大抵の魔法士は封飾具をつけさせれば力を封じられる。歴史上そうして王の傍に置かれた美姫も確かにいた。
だが、封飾具が通用しない程の魔法士などどうしようもない。人を殺す刃物と寝るようなものだ。
現に一週間前それで軽傷を負った王はこれみよがしに舌打してみせた。忠言する臣下を見やる。
「いくらあれでも自分が俺に何かすれば国が危うくなると分かっているはずだ。
 それに過去、あのファルサスでは王を愛して妃となった魔女もいたぞ? 不可能なことではない」
「ですが……」
「くどい。あれは手放さん」
何故これ程までにリースヒェンに拘るのか。
確かに彼女の美貌は類を見ない程ではあるが、王である自身の命には代えられないのではないか。
リマは、一度欲しがったものを諦められないオルトヴィーンの性格はいずれ命取りになるのではないかと思っていたのだが、或いはついにその時が来てしまったのだろうか。刹那浮かび上がった不吉な想像を押し隠すと、彼は王に一礼して退いた。

城の自室に戻ったリースヒェンはエルシーに手伝ってもらい、馬にも乗れる程の軽装に着替えた。
彼女の長い黒髪を手早く結い上げながらエルシーは苦笑する。
「王に気を抜かせてさしあげてくださいな。近頃お忙しいようですから」
「いそがしいの?」
「ええ。あちこち改革をお進めになって……城内にも新しい顔が増えましたわ。
 アンネリに出向いた文官の後を埋めなければなりませぬから……」
そこまで言ってエルシーは失言に凍りついた。
目の前の女がそのアンネリの姫だったと遅ればせながら思い出したからだ。
どうもリースヒェンは他の王族筋から来た側室たちと違って、気品はあるものの権威を振りかざさない。
乾いた砂が水を吸うように知識は身につきつつあるが、それでもまだ無知な子供といった様子が抜けきらない彼女についていると、つい亡国の王女であることを忘れてしまうのだ。
だが顔色をなくしたエルシーに対し、リースヒェンは気分を害した風にも見えない。
ただ「そうなの」と小さく相槌を打っただけだ。
「アンネリはどうなっている?」
「それは……税がかけられている以外は、民は普段通り暮らすことを許されているということです」
「普段通り」
エルシーの言葉を反芻するリースヒェンは何かを確認しているようにも見える。
普段通りも何も幽閉されていた城の離れしか自国を知らない彼女は、想像を助ける記憶が見当たらないのかもしれない。
彼女の弟であるアーベル王子も行方が知れぬままだが、彼女は自分に弟がいることさえ知らないままなのだ。
支度が終わったリースヒェンは鏡を見てエルシーに礼を言うと、少し肉のついた白い腕を空中にさしのべた。
その腕にナークと呼ばれるドラゴンがとまる。
どこから来たのか分からないこのドラゴンは、どうやら美しい王女を守ることを自分の使命と思っているらしい。
よく馴れた猫のようにいつも彼女と共にあるが、外出する時は尚更だ。
黒髪に紅い頭をこすりつけて鳴くナークに、エルシーは折角結い上げた髪が乱れてしまわないかとハラハラした。
リースヒェンはエルシーだけを伴うと部屋を出て、オルトヴィーンが待っている城門前へと向かう。
途中一人の男とすれ違った。武官らしき男は帯刀していたが、リースヒェンをみとめると脇へ避けて頭を下げる。
よく鍛えられた体。背丈は長身のオルトヴィーンと同じくらいだろうか。
戦うことを生業とした男は精悍な雰囲気を漂わせていた。
リースヒェンは軽く礼をしながら男の前を通り過ぎる。だが彼女はそこでふと足を止め振り返った。
顔を上げていた男と目が合う。一瞬の沈黙が流れた。
「リースヒェン様?」
エルシーが訝しげに問う。王女はすぐ前を向き直した。
男は再度頭を下げて去っていく。均整の取れた姿が廊下の向こうに見えなくなってからリースヒェンは口を開いた。
「あの人、誰?」
「確か新しく将軍になった方でディータというそうです。剣の腕が優秀なのだと」
「そう」
「彼がどうかなさいました?」
「何か、変な感じがした」
リースヒェンはそれだけ言うと再び歩き出す。
何が変だというのか、本人にもよく分からないらしい。
エルシーは去っていた将軍の、端整ではあるがどこか落ち着かなさを抱かせる顔立ちを思い出す。
だが今のところそれは何ら形にならない靄のような不安でしかなかったのだ。

顔をくすぐる風が心地よい。
リースヒェンは顔にかかる髪を手でよけた。
頭の上から男の声がかけられる。
「しっかり捕まっていろ。落ちるぞ」
彼女は頷いて自分を前に乗せたまま馬を駆る男を見上げる。青い双眸と目があった。
白い指が彼の顔を指差す。
「空の色」
「人の顔を指すな。王女はそういうことをしない」
「分かりました」
素直に頷く彼女にオルトヴィーンは笑いを堪える。
真っ白な画布のような彼女を見ていると自分の色に染めたくなる。
世俗にも権勢にも汚れていない女と過ごす時間は、普段その渦中で采配を執っている彼にとっていい気晴らしになっていた。
リースヒェンは膝の上のドラゴンを落ちないように片腕で支えている。
結い上げられた黒髪の先がオルトヴィーンの腕をくすぐった。
「もうすぐ着く」
王はそう言うと手綱を鳴らした。馬の速度が上がり、リースヒェンの小さな手が男の服を掴む。
草木の生えていない石と砂ばかりの丘を馬は駆けていく。
やがてオルトヴィーンは手綱を引いて速度を緩めさせた。丘の上に開けられた巨大な穴の縁にゆっくりと馬を進める。
丸い穴は城が一つ入りそうな程大きなものだった。
見ると外周から階段状に螺旋を描いて中心に向かい、次第に深くなっている。
中では数十人の男たちが何やら作業をしており、王の姿に気づいて深く礼をした。
「これ、何?」
「鉄鉱石を取っている。アンネリが綿花ならロズサークは鉄鋼が主な売り物だ」
「鋼を作るのです?」
「ああ。武器を作って他国に売る」
リースヒェンは分かったのか分かっていないのか、ただ頷いただけだった。
オルトヴィーンは彼女を馬から下ろすと、自分も下りて進み、穴を覗き込む。
相当な深さだ。足を踏み外せば怪我は免れない。
だが彼女は何の恐れもなく彼の隣に立った。
王は前を見たまま彼女を呼ぶ。
「リースヒェン、知っているか?
 この大陸は暗黒時代初期から文明の歩みが遅れている。交流もない程遠い大陸ではもっと文明が進んでいるのだと。
 まぁ他所のことについては単なる噂話だが、この大陸については本当だ」
「そうなのですか。知りませんでした」
「特にここ百年は完全に止まっていると言ってもいいだろう。それも全て、魔法があるせいだ。
 魔法技術だけ研究が進んで行き、人々は困難なことは皆魔法に頼る。
 あのように限られた人間しか使えないものに、だ」
「武器も限られた人間しか使いません」
妙に強い、きっぱりとした言葉にオルトヴィーンは驚いて隣の女を見た。
まるでそれがいつもの彼女ではないような感じがしたからだ。
しかし見下ろす彼女は空虚な黒い瞳を彼に向けている。普段の彼女だ。男は無意識に安堵した。
だがこの王女は意外と聡い。
オルトヴィーンは今の反駁に、リースヒェンが彼の野心の一端を感じ取ったと気づいた。
戦場において魔法以上にその役割を果たすのは鋼の武器と防具である。
大陸南東の各国はそれら武器や防具自体、或いは材料である鋼そのものからロズサークに依存しているといってよい。
つまりロズサークは望めば周辺国の軍事力をある程度左右できるのだ。現に1年前からアンネリへの鋼の輸出は抑えられ、更にアンネリ隣国のナドラスへの武器供給も不審に思われぬ程度緩やかに減少させられている。
いざ戦端を開く前に戦いやすい状況を作るのも戦略だ。オルトヴィーンは軽い笑い声をあげた。
「武器に限ったことではない。鉄は有用な鉱物だ。
 もっと大陸全土で一般的に使われるよう浸透させれば、きっと文明も再び動き始める」
「需要があればの話、と思います。有用だと皆が分かれば乱暴せずとも自然と買われるから」
「そうだな。お前の言う通りだ。だがロズサークのように小国が鉄の便利さを主張してもあしらわれる。
 魔法の粋を極めたファルサスなどにな」
大陸一の強国であるその名を呟く時、オルトヴィーンの口調には苦味が混じる。
どこにも屈しない、魔法と武力の強大な二つの力を持つ王国。
約百年前より魔法大国として恐れられるようになった彼の国はオルトヴィーンにとっては目障り以外の何ものでもなかった。
だが今の彼がそう言ったとしても蟻が象をあざわらうようなものだろう。そのことを彼自身がよく知っている。
小国の王は皮肉に唇を歪めて笑った。
「ファルサスがああまでなったのは300年前魔女が王に嫁いだことが大きな原因だ。
 古代の魔法大国の技術と力を継いだ一人の女のもたらしたものが数百年かけて今のファルサスを作った。
 ここ百年、他の力ある国でさえ何かあるとすぐファルサスや魔法に頼る。文明が止まっているのもそのせいだと言っていいだろう。
 馬鹿げているとは思わぬか? リースヒェン。たった一人の女に世界の流れを変えられるなど」
問われた彼女は小鳥に似た角度で首を傾けた。
黒い瞳がまるで闇の深遠そのもののように見える。
オルトヴィーンは何気なくその瞳を見て息を呑んだ。彼女があたかも何だか分からない、底知れぬものに見えたからだ。
女は少し考え込むと、違和感に絡め取られつつある男に向かって、口を開く。
「一人の人間では変わらない。多くの人の努力があったからです。
 ―――― でも、なぜ、あなたがファルサスを憎むの?」
魂に直接投げられた問いかけ。
男は半ば凍りついて、何もかもをも見透すかすような女に相対した。
それは、答えられない疑問だ。
聞かれてはならないことだ。
時がゆっくりと回転を止める。
音の無い世界に二人だけが立っている。
周囲から断絶された空間で、オルトヴィーンはリースヒェンから目を離せずにいた。
彼女は何なのか。まるでかつてどこかで見た事があるような闇色の瞳。その美しさ。
思い出そうとすると頭が痛む。
忘れていた方がいいと誰かが囁く。
オルトヴィーンは反射的に腰の剣に手をかけた。彼女の表情には戦意も敵意も見られない。
何かがおかしいとだけ感じる数瞬。リースヒェンは指をあげ男の顔を指差した。
「白い鳥」
無垢な声。
オルトヴィーンは毒のない言葉に呆気に取られる。
振り返って見ると、確かに空を大きな白い鳥が飛んでいた。
急激に脱力感が襲ってくる。男は剣から手を離し、深く息をついた。
「お前、人の顔を指差すなと言ったであろう」
「顔ではない、です」
「同じだ」
リースヒェンは目を丸くする。ややあって「ごめんなさい」と頭を下げた。
子供そのものの仕草に王は笑い出す。
「まったくお前はよく分からないな」
「わたしも、わたしが分からない」
真面目に答える彼女にオルトヴィーンは更に笑いを高めた。
歩み寄ると華奢な体を抱き上げる。
「もう帰ろう。日が落ちれば寒くなる」
王の言葉に彼女は腕の中のドラゴンを抱き直しながら頷いた。
二人は再び馬に乗って城へと戻る。
温かく小さな体を支えるオルトヴィーンは気づいていない。
彼女こそが亡国の王女として彼を憎んでしかるべき人間であり、そして強大な魔法士なのだということを。
そして紛れもなく自分と相反するものを、自分が傍に置きたがっているということに。
しかし或いは、明敏な彼は気づいていながら見ぬ振りをしているだけなのかもしれない。
変化の歯車はささやかに、けれど確実に動き始めていた。