無名の薔薇 05

mudan tensai genkin desu -yuki

会うといつも口喧嘩になるというわけではない。
ただ5回に1回はオルトヴィーンが図星をさされ、機嫌を損ねて終わるということは事実だった。
彼女自身それを気にしているのか、揉めた去り際には少しだけ困ったような顔を見せる。
その目を見る時彼はいつも、押さえの利かない自分の性格に苦さを覚えるのだ。
よく分からない女だ。
少しずつ会話が滑らかになってはきているが、まだ充分たどたどしい。
頭はもともとそれなりに切れるのであろう。理解は早いし発想もおもしろい。
ただ人間関係の経験が少ないせいか、何でも物怖じせず口にしてしまうところがあり、だからこそ彼の気に障ることもあった。
決して彼女自身が嫌いなわけではない。
それを証明するように、揉めてしまった翌日にはオルトヴィーンは彼女の部屋に薔薇を贈るようになった。
リースヒェンは始め驚いて礼を言ったが、その表情がこころなしか柔らかく見えるからきっと喜んでいるのだろう。
彼女の笑ったところはまだ見たことがない。
笑えばいいのに、と思う。
何故自分がそう思うのか、オルトヴィーンはまだ分かってはいなかった。

夢を見なくなった。
今までずっと自分を支えてくれていた夢を。
いつからだろう…………あれは、ナークが現れた日、初めてこの城に来た日以来だ。
何故見なくなったのか、その原因は分からない。
人と話ができるようになったせいだろうか。
ロズサークに来てから、彼女は毎日人と言葉を交わすようになった。
それらは決して温かいものばかりではなく、むしろ亡国の王女であり、一度は後宮に置かれながらそこを出た彼女への批難や嫌味も多分に混じっていたが、それでも彼女にとっては新鮮な経験である。
少なくともエルシーは優しい。いまいち掴めないが、おそらくオルトヴィーンも。
優しくはなかったが職務に忠実なリマも彼女は嫌いではなかった。
ただ、それでも夢を見ないことは淋しい。それは17年間ずっと彼女のいた世界であったのだから。
寄る辺ない気分とはこういうことを言うのだろうか。
寝台にうつ伏せになっていたリースヒェンは顔を上げる。
辺りには先程まで字の練習をしていた紙が、床が見えない程散乱していた。
いつまでもこのままにしておけばエルシーに怒られてしまうに違いない。
リースヒェンは軽く左手をかざす。そこに少し考えながら構成を作った。
魔力を通す。床の上の紙がゆっくりと浮かび上がった。
紙はもたもたと回転しながら一つところに集まり始める。
5分程かけて全ての紙を大雑把に集めてしまうと、彼女は今度は別の構成を作って端を揃えようとした。
だがなかなか上手くいかない。彼女は眉を寄せた。
慎重に慎重に力を操作する。
けれどその時、急に扉を叩かれて彼女は飛び上がった。
跳ね上がった力が紙に衝突し、元通り散乱させてしまう。
今までの苦労が、という程苦労はしていないが台無しになってしまったことは確かだった。
「ああ……」
リースヒェンは肩を落としながらも起き上がると返事をする。
入ってきたエルシーは予想通り、部屋の有様を見て眉を上げた。
「まぁ! リースヒェン様! こんなに散らかされて……」
「ごめんなさい」
「わたくしが片付けておきますから。陛下がお呼びですわ。至急とのことですのでそのままお行きになってください」
「オルトヴィーンが?」
一体何の用だというのだろう。
この国に来てからもうすぐ二週間、彼に会う日も会わない日もあるが至急などと呼び出されたことは初めてだ。
リースヒェンはドレスの裾を引きながら応接間を抜け廊下に出る。
そこには一人の文官が頭を下げて待っていた。男はそのまま「ご案内致します」と言うと、彼女を先導して歩き始める。
彼について歩きながらリースヒェンは廊下の窓の外を眺めた。
自分は何の為にこの国に来ているのだろう。
初めは国の為、オルトヴィーンの側室になるのかと思っていた。
しかし最初の夜に魔力を暴走させ、気を失ってしまったせいか、彼女は後宮を出され基本的なことから教育を受けている。
怪我をして懲りたのか王もあれ以来伽をさせようとしない。それはリースヒェンからすると賢明な判断に思えた。
彼は時々、探るような目で彼女を見る。「憎まないのか」と問う。
それで「憎んで欲しいのか」と聞き返すと憮然とした表情になるのだ。まったく訳が分からない。
確かにオルトヴィーンは彼女の両親を死に追いやったのだろう。
だが、記憶にもない両親だ。自分でも薄情だと思うがそれでどうこう思う気はない。
むしろ彼は自分に外の世界をくれた。例えそれが、意図していなかった結果だとしてもリースヒェンはそのことに感謝していたのだ。
日が落ちてしまった空は、夜になる直前泣きたくなる程に美しい青色をしていた。
彼女が一番好きな、心を惹く色だ。自然と歩く速度が緩む。
空の色だけは異国のここにあっても変わらない。おそらくは長い年月を経ても。
リースヒェンは小さく息を吐く。
両親のことはいい。だが祖国の、アンネリのことは心配だった。
何の思い出もない国がどうしてこれ程気にかかるのかは分からない。
王女である義務の為かと思ったが、そうではなく気になるのだ。
滅びてしまった祖国。その響きは彼女の胸を強く痛ませる。
残った民は変わりなく暮らしていけているのだと、何度そう言い聞かせても焦燥は彼女を満たし、密かに憂えさせた。
そしてもう一つ、気になる事がある。
自国の産業についての野心と他国への敵意を語っていたオルトヴィーン。
彼の望むものとは更なる戦乱ではないか、そうリースヒェンの中で理性が危険を囁くのだ。
もし彼が他国に向けて宣戦するとしたらアンネリも巻き込まれることを避けられない。
むしろキスクやナドラスが相手となる場合、ロズサーク本国より二国に近いアンネリの方が戦場となることは明らかだった。
リースヒェンは無表情の中、僅かに曇ってしまった両眼を伏せる。
何故自分はここにいるのだろう。
ここで暮らしていることで誰かに何らかの益がちゃんと出ているのだろうか。
オルトヴィーンにお願いして彼が戦争をやめてくれたらいいのに、と思う。
そんな子供じみたことを思ってしまうのは、不可能な願いだと分かっているからだろう。
ますます遅くなる歩みに気づいたのか、前を歩く文官が足を止めた。
「姫、大丈夫ですか」
振り返らぬまま、けれど優しい声で聞く男に、リースヒェンは「ごめんなさい」と小さく謝る。
だがその時顔を上げた彼女は、そこでようやくいつもいるはずのナークがついてきていないことに気づいた。
確か先程まで部屋で寝ていたはずだ。そして、そのまま置いてきてしまったのだろう。
けれど普段なら敏感に目を覚まして出て行こうとする彼女に寄ってくるのに珍しい。
途端に不安になったリースヒェンはしかし、「こちらです」と足を止めた文官にならって立ち止まらざるを得なくなった。
大きな扉を男は叩く。中からオルトヴィーンの返事が返ってきた。もう今更ナークを連れに戻りたいとは言えない。
仕方なく彼女は部屋に入る。
そこにはオルトヴィーンとリマの二人が待っていた。

リースヒェンにソファに座るよう勧めると王は単刀直入に用件を切り出した。
「リースヒェン、お前の存在を何人が知っている?」
「え?」
それは予想だにしなかった質問だ。
彼女は軽く目を瞠ると考え込む。
「女官が……何人か、面倒を見てくれました。
 17年間で、あわせて50人程。年を経るごとに人数は減った、と思います。
 それ以外の人間には会っていません」
「彼女たちから何か話は聞かなかったか? 例えば、お前の婚約についてなど」
「婚約?」
リースヒェンはただでさえ瞠っていた目が零れ落ちそうになる程驚く。
長い睫毛を揺らしてしばたたいた。
「いいえ。彼女たちは何も……教えませんでした。口をきかなかったから。そう命じられていたのだと、思います。
 わたしは、夢の中以外で誰かと、会話したことはなかった。あなたと会うまで」
その言葉にオルトヴィーンとリマは、さすがに唖然と口を開いた。
ひどい環境に置かれていたとは思っていたが、まさかそこまでとは知らなかったのだ。
王も王妃も、変わった所があるとはいえ我が子をそのような扱いの中に置いていたことに胸は痛まなかったのであろうか。
自然と不愉快な顔になる王に、リマは先を促す視線を送る。
オルトヴィーンは臣下の態度に苦い顔をすると、幾分事務的な様子で話を続けた。
「実はナドラスよりお前の安否を尋ねる書状がきている。
 ナドラスの王太子ジェドは…………お前の婚約者だそうだ」
「え?」
「知らなかったのか」
「初めて、聞きました」
それはそうだろう。誰も何も彼女に語らなかったというのだから。
アンネリの王も王妃も既に故人だ。大臣たちも処刑されたか逃走しており、現在アンネリの政治の機密について詳しいことを聞きだせる人間はいない。
裏を返せばそれは、アンネリの現状を知っていれば簡単に事の捏造が出来てしまうということだ。
何しろ嘘を嘘と断じることの出来る人間がいないのだ。これならリースヒェンの婚約も眉唾と思っていいかもしれない。
だがそれにしては彼女の存在をナドラスが知っているということが気になる。
或いは婚約の話は本当のことなのだろうか。
オルトヴィーンは横目で人形のような女を見やる。
彼女はいつもの無表情に少しだけ困惑の色を浮かべていた。
もし婚約が虚偽だとしても、ナドラスからは既に正式に書状が来てしまっている。
オルトヴィーンに虚偽を証明する手段がない以上、彼はリースヒェンを表に出すならナドラス王太子の婚約者として扱わなければならない。
いずれはナドラスにも侵略の手を伸ばすつもりだが、まだ時は早い。
アンネリと違いナドラスは大国に面している為、まともな軍隊を持っている国なのだ。
リースヒェンの生存を明らかにすればナドラスは当然の権利として彼女の引渡しを要求してくるだろう。
そして、リマを始め重臣たちは皆、それに従うことを勧めてくる。
危険で変わった王女など欲しがるところにくれてやればいいのだと。
彼女を手元に置きたければ隠匿し続けなければならない。
存在を明るみに出来ない王女など政治的には何の価値もないのだ。それはオルトヴィーンにもよく分かっていた。
だが分かっていながら判断を下せないのは何故なのか。
オルトヴィーンは苛立ちと共にリースヒェンを睨んだ。
今まで望んで手に入らなかった女はいない。その最初の例外に彼女はなるのか。
彼女は形のよい眉を僅かに顰めて何か考え込んでいるようだった。
何を思っているのか妙に気にかかる。オルトヴィーンはきつい声で問うた。
「お前はどうしたいのだ? ここを離れナドラスに行きたいか」
リースヒェンは瞳の焦点を王に合わせる。
感情の分からない表情は、彼には悩んでいるように見えた。
何故悩むのか、そのことも少なからず腹立たしい。
仮にリースヒェンがどうしても行きたくないと言うのなら、死んだことにしてやってもいいのだ。
それも嫌だというのなら時期尚早ではあるが、ナドラスに宣戦をすることさえオルトヴィーンは考えていた。
準備が整いきっていないのはロズサークもナドラスも同じだ。決して不利に働くわけではない。
こんな何も分からぬ女一人を売って束の間の平穏を買うなど、オルトヴィーンの矜持には耐えがたいことだった。
だが、もし彼女自身がナドラスに行きたいというのなら――――
ここでの暮らしよりも、自分よりも、顔を見たこともない婚約者を選ぶと言うのなら。
オルトヴィーンの思考はそこで自らによって打ち切られる。
彼はただリースヒェンを見据えた。
漆黒の視線がそれに応える。
たっぷり数分考えた後、彼女は口を開いた。
「それで、いいのなら。わたしは行きます」
オルトヴィーンの全身から力が抜ける。
微かに震える指先を彼は握り締めた。
怒りか悲しみか分からない。強いだけの感情が彼の中に渦巻く。
喪失感、敗北感、どれもが正解で、どれもが間違っている気がした。
自身の感情をもてあまし呆然とする王に、しかしリースヒェンは気づかないのか淡々と続ける。
「行けば、しばらくは戦争にならない。アンネリも戦場にならない。ですよね、オルトヴィーン?」
「お前は…………」
彼女には分かっているのだ。
分かって王女としての務めを果たそうとしている。
17年間国に裏切られ続けた彼女がどうしてそんな気持ちを持てるのか、彼には理解できなかった。
苦さを隠そうともしない声が王の口から洩れる。
「何故そこまでする。お前に優しくなかったあの国がそれ程大切か?」
「国は、大切。民には罪がないから。あと…………」
リースヒェンは視線を上げる。
オルトヴィーンを見つめ、少しだけ口元を緩めた。
微笑みとも言えない様な微笑。だが初めて見るその表情は彼の目を強く惹きつける。
いないはずの王女は混じり気のない声音を響かせた。
「少しだけ、あなたの役に立てる。わたしを出してくれて、嬉しかったから」
心臓に触れる言葉。
鮮烈さが息を止める。
オルトヴィーンは目が眩みそうになって両眼を閉じた。
何を期待しているのか、何を選ぶべきなのか、分からない。
感情が理性を揺さぶる。
今まで経験したことのない熱を帯びた煩悶に、王は深く息を吐きながらかぶりを振ると
「考えておく。下がってよい」
とだけリースヒェンに命じたのだった。