無名の薔薇 06

mudan tensai genkin desu -yuki

オルトヴィーンの前から退出したリースヒェンは、廊下で先程の文官が待っていてくれたことに気づいて驚いた。
勿論、彼が案内だけして既に立ち去っているだろうと思っていたからでもあるが、それ以上に目を引いたのは少し離れた窓際に止まっているナークに彼が向きあっていた為である。
男はどこに持っていたのか菓子のようなものをひょいひょいとナークに向かって投げていた。
ドラゴンは器用にそれを受け止め、頬張っている。非常に奇妙な光景だ。
面白がっているような表情で菓子を投げ続ける若い文官に、リースヒェンはおずおずと声をかけた。
「あ、あの……」
「これは姫。失礼を。姫が部屋に入られてすぐにこのドラゴンが来ましたので」
「相手をして、くれてたの? ありがとう」
「恐縮です」
ナークはようやくリースヒェンに気づいたのか、嬉しそうな声をあげながら飛びついてくる。
彼女はドラゴンを受け止めると胸の前に抱き直した。
「お送りします」という男に甘えて、彼女は彼と共に来た道を戻っていく。
だがリースヒェンは気づかない。彼女の姿を背後の柱の影からじっと見つめる男がいたということに。
その男は、卓越した剣の腕で将軍になったというディータ、先日彼女が妙な違和感を抱いた男であった。
ディータは二人の姿が見えなくなると、踵を返しその場から去っていく。
後にはただ、誰もいない廊下の静寂だけがたゆたっていた。

異国の姫君が去った部屋の中では、眉を寄せて考え込む王と魔法士長の二人が残された。
不機嫌に似通った表情で思考を巡らすオルトヴィーンにリマは不敬にならないよう密かに溜息をつく。
沈黙の時間。
主君が何を考えているのか、彼には容易に想像がつく。
リースヒェンをナドラスに渡したくないのだ。
戦利品として持ち帰り、時間と手をかけた女だ。
それを横から持ち去ろうとするナドラスに腹を立てているに違いない。
ただ王として判断するならここはリースヒェンを渡すしかないことは誰の目から見ても明らかだった。
幸い彼女には王の手がついていない。後宮にいるわけでもない。
魔法の制御が出来ない女をナドラスが上手く扱えるかは分からないが、それは向こうの問題であろう。
しかし結論は分かりきっているにもかかわらず、オルトヴィーンはまだ答を出さない。
それがいつもの悪い癖なのか、もっと重い何かなのかまではリマには分からなかった。
40歳にそろそろさしかかろうとする魔法士長は深く息を吸う。
だが今度は溜息の代わりに、彼は言葉を洩らした。
「ご存知ですか、陛下。最近大陸の西部では奇病が流行っているのだと」
「聞いた。あのファルサスが原因を特定できず、病の拡大も食い止められていないのであったな」
「もし姫君が幼少の頃、例の奇病にかかられていたなら、
 あの方は今よりもっと不幸のうちを彷徨わざるを得なかったでしょう」
二人は同時に同じことを思い出す。
リースヒェンの閉じ込められていた、本もペンもない部屋。
口をきかない女官たち。
彼女には何も与えられなかった。
まるでただ庭に咲く美しい薔薇のように、そこに生きていたというだけなのだ。
奪われ続けた生。
ひとまずの牢獄から連れ出された彼女は、これからも何かを奪われていくのだろうか。
リマは王を見つめる。
一つ、抜け道がある、彼はそれに気づいていた。
リースヒェンをナドラスに渡さず、そのことで国交が悪化しかけても民や重臣たちに不興を買わない道が。
彼女自身に価値を見出すというその道を、しかし必要以上に魔法に頼ることを毛嫌いする王が、果たして選び取ることができるのだろうか。
魔法士長の考えが伝播したかのようにオルトヴィーンは舌打する。
王の青い瞳が形容しがたい光を放った。
「……魔法板を作る実験をしていると、あれから聞いた」
「左様でございます。姫君は構成に天賦の才がおありのようで。
 一度構成が完成されれば城の魔法士でも充分生産が可能かと思われます」
「そうか」
オルトヴィーンは再び沈黙する。
僅かに俯く端整な顔に、窓の外から木々が作る翳が差した。
そして、本当は最初からこちらが聞きたかったのだろう、決定的な問いを王は口にする。
「あれは魔法士としてどうなのだ。封飾具が効かない程の力というのは」
その言葉はある意味禁断の扉を開ける問いなのかもしれない。
アンネリはそれを恐れ、固く封じ込めた。
しかし今、オルトヴィーンはその扉の前に立っている。御せるかどうかも分からない力の前に。
リマは苦労して平静の表情を作ると、答える。
「おそらく…………紋様に制限されない潜在能力で言えば、お一人で小国の軍隊まるまる一つに匹敵します。
 あの方はまるで―――― 」
その先をリマは言うことができない。
だがオルトヴィーンは既に分かっていた。
分からないはずがない。この大陸に生まれ、御伽噺を聞いて育った者なら。
人間の限界をゆうに超えた異質。
圧倒的な力を持って佇む存在。
確かにかつて大陸を畏怖で覆った女たちを、人々は「魔女」と呼ぶのだから。

オルトヴィーンに至急と呼び出されてから三日後、リースヒェンはまだ彼がナドラスにどう返事をしたのか知らなかった。
ただ毎日のように魔法の訓練をし、礼儀や知識を身につける日々を送っている。
文字の読み書きは大分覚えつつあったが、まだ難しい本を読める程ではない。
それでも自分のこれからの為に歴史や国の情勢について調べたいという彼女を、あの日ナークと共に待ってくれていた文官が見てくれることになった。
彼は図書館にリースヒェンを案内し希望の本を聞くと、子供に教えるように丁寧な説明をしながら一緒に内容を読んでくれる。
勉強会というにはままごとのようなそれにはエルシーや城の魔法士が加わることもあったが、オルトヴィーンは話を聞いただけで顔を出すことはなかった。
その日も厚い歴史書を覗き込んでいたリースヒェンは、子猫のように首を傾げて文官の男に問う。
「では、キスクはファルサスと仲が悪いの?」
「そうですね。キスクは大国の中でも比較的新しく出来た国ですから。
 長い歴史を持つファルサスをよく思っていないようです」
「何故そうなるのか分からない」
「ないものねだりですな。暗黒期の中建国されたという箔が羨ましいのかもしれません。王家にとって歴史とはある意味力ですから」
「そうなの」
彼女が少しだけ不満げに、しかし頷いて引き下がると男は笑った。
「実際はよく思っていなくとも、本格的な対立にまでは踏み切りませんでしょう。下手をすれば大陸全土に波及してしまいます。
 大国同士が争ったという戦争もここ数百年ありません。
 力で劣るキスクはともかく、ファルサスの現王ラルス殿は他国をどうこうするような野心はないようですから」
むしろそういう野心を持っているのはオルトヴィーンだ。
リースヒェンは盛大な溜息をつくと机の上に突っ伏した。
彼女はしばらく考えると、隣で歴史書を捲っている男を見上げる。
「もし今、ロズサークがナドラスと戦争になったら、どうなる?」
「勝つか負けるかですか」
「それもある。けど、他にも。全体的に」
男は「ふむ」と思案顔で頷いた。顎に指をかけて視線を彷徨わせる。
「ロズサークの方が不利ですね。ロズサークとナドラスが戦争となればキスクが黙っていないでしょう。
 その場合どちらに肩入れするかというと、隣国であるナドラスです。
 ロズサークがアンネリに攻め込んだ、危険な国だということは周知のことですから」
「やっぱり」
リースヒェンは机の上に両手を重ねて頭を乗せる。
彼女に分かるようなことなのだ。オルトヴィーンが分かっていないはずがない。
ロズサークに今、ナドラスと開戦するという選択肢はない。少なくともキスクと同盟を組むか、介入を躊躇わせるような何かが用意できるまで。
若き王は自国をどこに導こうとしているのか、その奥底にどんな拘りがあるのか。
何も分からないリースヒェンは、それに触れてみたいと少しだけ思っていた。
だが果たして彼女にそれだけの時間が残っているのだろうか。
いつこの国を出されるかも分からぬ王女は長い睫毛を揺らすと目を閉じる。
自分こそが国家間の均衡を崩してしまうほどの力を持っているのだと、この時の彼女はまだ知らない。
そして事態は異なる望みを持つ複数人によって、速度を増して転がり始めていたのだ。

柔らかい寝台は二人分の重みを受けて沈み込む。
オルトヴィーンの指は女の長い髪を絡めとりながら、思考は国のことについて回転していた。
今が重大な岐路だと思えば閨にあっても常に考えがそこにいってしまう。
上手く覆い隠しているつもりだったが、心ここにあらずと言った様子に気づいたのか、相手の女は淋しげな顔になった。
「陛下、お忙しいようですわね」
「……そうだな」
「あの姫君のことでも考えてらっしゃるのですか?」
「セイレネ」
いささかの脱力感に王は顔を顰めた。
確かにリースヒェンが絡んでいる話ではあるが、側室の彼女が揶揄するような意味ではない。
苦い顔になってしまったオルトヴィーンにセイレネはころころと声を上げて笑った。
後宮に五人いる側室のうち、彼女は少し離れた小国、タリスの公爵の娘である。
彼女の実家は王家の姻戚である為、彼女自身にも若干王家の血が流れている。
そのせいか違うのか美しい容姿と切れ味のいい頭を持つ彼女は、オルトヴィーンのお気に入りであった。
「姫君は後宮を出てしまいましたから人づてにしか分かりませんが、魔法士として勉強なさってらっしゃるのでしょう?」
「ああ、未だに制御さえろくにできぬがな」
「可愛らしいことではありませんか。完璧な女など、面白くないものです」
そういうセイレネは一分の乱れもない完璧な笑顔を見せる。
オルトヴィーンは鼻を鳴らして側室の戯言を笑い飛ばした。
「完璧である必要はない。だが力は扱いきれねばならん」
彼の主張は当然のことだったが、セイレネはその裏に額面以上の葛藤が隠されている気がして首を傾げた。
だが表面上は彼女は何も分からぬ女の一人として微笑む。
「大層お美しい方だとか。わたくしも是非お会いしたいですわ。姫君は勉強が一段落ついたらまた後宮に戻られるのでしょうか」
「…………今のところ、その予定はない」
ぶっきらぼうな声に剥き出しの彼が滲んだように思えたのは気のせいだろうか。
彼女が少なからず驚いて見れば、王はまったくいつもと変わらぬ表情に戻っている。
だが彼がそう装っている時は感情を読み取られたくない時なのだと、5年間寵姫をしていた彼女は知っていた。
触れられることを拒む彼の思考に、セイレネはそっと言葉を乗せてみる。
「それは残念ですわ……。
 ああ、そういえば陛下の母君も魔法士でらしたそうですね」
彼女がいくつか用意していた問いのうち、もっとも裏がない、いわば探りを入れる為の導入としてしか見ていなかった問いかけ。
けれどそれこそが彼の核心に近い問いだったのだとセイレネが思い知ったのは、オルトヴィーンが殺気すら混じる瞳で
「どこで知った」
と返した時だった。
戦場に立つ覇者が持つ威圧。
それを正面からぶつけられて彼女は言葉に詰まった。
自然と顔から血の気が引く。緊張に裸の背筋が粟だった。
「も、申し訳ございません……」
「詫びはいい。どこで知ったかと聞いている」
「それは……後宮に入ったばかりの頃、老齢の女官が噂しているのを聞きまして……ファルサスの侯爵家の方だと……」
たどたどしい弁解を聞いてオルトヴィーンは舌打した。
とかく女は噂話が好きなのだ。後宮ともなれば尚更だろう。
5年も前のことだという話の出所をそれ以上締め上げるのも馬鹿らしく、彼は寝台から起き上がった。
均整の取れた体に部屋着を羽織る。寝室を出て行こうとする王にセイレネは慌てて頭を下げた。
「ご無礼を……お許しください」
「構わぬ。ただ吹聴はするな。俺はつまらぬ噂話は嫌いだ」
「は、はい」
「今日は帰る。ゆっくり休め」
声だけは優しく、しかし不機嫌さを隠さない足取りで王が出て行ってしまうと、セイレネは深く息をついた。
思わぬところで逆鱗に触れてしまった。こんなことは5年間で初めてだ。
5年の間に彼を理解したと、そう思いあがって気が緩んでいたというのもあるだろう。
だがこれは「彼」が欲しがっている情報の一つなのかもしれない。
突然彼女の前に現れた一人の男。
有能で蠱惑的な存在。
あの危険な男は使える。信用は出来ないが利害が一致する間はせいぜい情報をくれて躍らせてやればいいのだ。
精神を縛る緊張からようやく逃れたセイレネは、美しい顔を野心で彩るとこれからの予定を頭の中で組み立て始めた。