無名の薔薇 07

mudan tensai genkin desu -yuki

大陸全図、その内の南東部に視線を落とし考え事をしていた少年は扉を叩く音に顔を上げた。
返事をすると従者であるエイリーデが一礼して入ってくる。
「殿下、ジェド殿下がお話があると。ロズサークより返事が来たそうです」
「分かった。今行く」
アーベルは顔が緊張に強張るのを止められなかった。
あの日アンネリ城の離れで出会った魔法士に勧められナドラスに助力を求めた彼らは、ナドラスの王や王太子ジェドと相談し、リースヒェンをジェドの婚約者としてロ ズサークに正式に問い合わせることにしたのだ。
実際にはそんな事実はないが、ロズサークには否定しようがない。
これでリースヒェンを取り戻せればそれでよし、そうでなくとも彼女が彼の国でどういう扱いを受けているかが分かるであろう。
原案を出したのは間諜である魔法士の男だったが、ジェドはむしろ進んでこの案に賛同した。
恐縮するアーベルに「幽閉がなければ本当に婚約していたのだから」と王太子は気さくに笑ってみせてくれたものである。
ナドラスの皆が集まっている会議室の扉を前にアーベルは姿勢を正した。
11歳には見えない誇りと意気が少年の全身を包む。
衛兵によって扉が開かれると、彼は決して怯まず、しかし驕ることもなく一礼して入室すると用意された席に着席した。
今回の会議の主導を取っているらしきジェドは、アーベルが席につくのを待って一同を見渡す。
「先日ロズサークに出した書状の返答が来た」
王太子の声に場はしんと静まり返る。
一通の書状はただ王女の安否を問う為のものだけではない。
ロズサークがナドラスと敵対する意があるのか、あるとしたらその時期はいつ頃になるのかを推察する為の一手であるのだ。
皆の視線が集まる中、ジェドは1通の手紙を手に取る。
そこにはロズサーク王オルトヴィーンの直筆で今回の返答が書かれていた。
「リースヒェン殿は確かにロズサークにいるという。
 ただ幽閉されていたことにより心身ともに衰弱が抜けきっておらず、今しばらくロズサークで静養するということだ。
 健康な状態に戻り次第、本人の希望によりこちらを訪ねるつもりだという」
事実上の保留とも言える内容にナドラスの重臣たちは息をついた。
どうやら今すぐにはロズサークには表立ってナドラスと対立する気はないらしい。
リースヒェンの生死を偽ってこなかったこと、婚約について異議を申し立てなかったことはその証拠だろう。
だが、ただで渡すつもりもないらしいこともまた確かだ。
ロズサークとしてはリースヒェンをナドラスに渡してしまっては、王位継承者の存在を盾にナドラスがアンネリの再興に乗り出してくる可能性も疑わざるを得ない。
静養というのもおそらくは口実で、今は時間を稼ぎたいという意図がそこにはあるのだろう。
それぞれが思案顔になる重臣たちをよそに、アーベルは心配が隠しきれない表情で問う。
「それで姉上は……」
「こちらは間諜からの情報だが、リースヒェン殿は後宮に入れられているわけではないらしい。
 客人として城に迎えられ、書状にあるように……基本的な学習や魔法について学んでいるらしい」
「魔法……」
姉が王の慰み者にされているわけではない、という事実にアーベルは安堵したが、「魔法」と言う言葉の裏に潜む意味は彼の表情を明るくはさせなかった。
リースヒェンは魔女とも言われる魔力の為に幽閉されたのだ。
けれど彼はナドラスの人間にはそのことは伏せている。
王女が大きすぎる力を持っていると他国に知られた場合、そのことが彼女個人の幸せに通じるとは到底思えなかったためなのだが、 現に彼女を擁しているロズサークには気づかれてしまったかもしれない。
その時野心家で知られる王は、リースヒェンをどう遇するつもりなのだろう。
嫌な予感が背筋を駆け下りていくのをアーベルは感じ取った。
向かいに座っているジェドが心配そうに少年の顔を覗きこむ。
アーべルは思わず緊張したが、人のいい王太子は少年の顔色を単に、姉が心配な為なだけと判断したらしい。気遣う笑顔を浮かべる。
「そう心配されるな、アーベル殿。リースヒェン殿は必ず取り返す。あまりロズサークに時間をやってもよくないだろう」
「はい……」
アーベルは気を引き締めると顔を上げる。
ナドラスは確かに助けてくれる。が、完全なる味方ではない。勿論ジェドもそうだ。
そして現にアンネリを滅ぼしたロズサークなど、敵以外の何ものでもなかった。
この状況で一体誰が本当にリースヒェンの味方となってくれるのか、守ってくれるのか。
それは自分以外いない、と若干11歳の王子は思っていた。
本音を言えば今すぐにでも彼女のところに向かいたい。会って、話をしてみたい。
だが、アンネリ最後の王位継承者である彼が何の策もなしにロズサークに入るなど軽挙もいいところだろう。
自分の行動如何で今のところ平穏に暮らせているアンネリの民にも影響がでてしまうかもしれないのだ。
今は耐えて、姉の手を取れるよう慎重に動かなければならない。
アーベルは必死で考えを巡らす。
どんな手を以ってすれば、オルトヴィーンの手からリースヒェンを連れ戻せるのか、ただひたすらそれだけを見据えて。

『……あなたは―――― なのよ。―――― に思いなさい』
澄んだ声。
それはどこか、たどたどしい言葉を話す王女に似ている。
夢の中の彼はどこであの闇色の瞳を見た事があるのか知っていた。
彼女が何なのか分かっている。
だがそれは目覚めれば失われてしまう夢の断片だ。
或いは思い出したくないと思っているからこそ、彼はこの記憶を現実に持ち出せないのかもしれない。
ぼんやりとそう考える間にも女の声は響く。
『あなたは―――― なのよ』
同じことを彼女は繰り返し繰り返し訴える。
まるで呪詛のように彼の耳に塗り込め続ける。
それは彼にとって汚物をなすりつけられるような……耐え難い言葉だった。
彼は両耳を押さえ、かぶりを振る。
『あなたは……』
「やめろ。汚らわしい」
反駁の声にもかかわらず、耳を塞ぐ両手をすり抜けて女の声は彼の中に響く。
『よく、聞いて。オルトヴィーン』
「聞きたくない…………何故俺に話した」
『あなたは―――― 』
壊れてしまったかのような女の言葉。
いつ止むとも分からない責め苦に、彼はついに叫んだ。
「黙れ! 表に出さず墓場まで持っていけばよかったのだ! 
 それとも俺が王にならないとたかをくくっていたのか! ―――― 母上!」
「オルトヴィーン?」

男は目を覚ました。
眼前に怪訝そうな女の顔がある。
類稀な闇色の目。
夢の残滓がある名を囁く。
彼は手を上げ、彼女の白い頬に触れた。
「…………リースヒェン」
口から出たのは、今の彼女の名だ。彼女はそれを当然のものとして頷く。肯定を合図として記憶は再び消え去った。
上体を起こしかけた彼は、自分たちがいる場所が城の裏庭の隅、普段人が立ち入らぬ庭園の影であることに気づく。
息抜きをしにきて転寝でもしてしまったのだろう。それであんな夢を見ていては世話がない。
薄紅色のドレスを着た女は手に持った布で彼の額の汗を拭った。無表情のまま声だけは心配そうに問う。
「嫌な夢を見ていた?」
「少し。お前は何故ここにいる」
「声が聞こえたから」
オルトヴィーンはすっと心が冷えるのを感じた。
まさか何か聞かれてしまったのだろうか。
確かめるべきか口止めをすべきか逡巡が生まれる。
だが、心が定まりきる前にリースヒェンは不穏な空気を感じ取ったのか、小さくかぶりを振った。
「何も。よく分からなかった。あなたの声だと思っただけで」
「そうか」
それは彼を安心させる為の嘘かもしれない。
だがオルトヴィーンは自分でも不思議なほど素直に彼女の言葉を受け入れていた。
伸ばされる彼女の手を逆に取り、引き寄せる。
体重の軽いリースヒェンはバランスを崩して彼の胸に転がり込んできた。肩に乗っていたドラゴンが草の上に降りる。
「何?」
小さな体だ。
抱きしめれば淡い花の匂いがする。
その温度に、柔らかさに、今は救われる気がして彼は黒髪に顔をうずめた。
「お前は温かいな」
「生きているから。オルトヴィーンは違う?」
「死んではいない」
当然のことを冗談として述べると、彼女は彼の胸に顔を埋めたまま微かに笑った気がした。
オルトヴィーンは腕を緩めて女の顔を覗きこむ。だが既に彼女はいつもの無表情だ。笑顔を見損ねてしまったことを少し残念に思う。
こんなことを思うこと自体、疲れているのかもしれない。
王は自嘲気味に微笑むと、何か言う代わりに彼女の顎を捕らえ顔を寄せた。
また怪我をするのだろうか、という懸念がちらりと頭をよぎったが、その危惧は彼を留める程の力を持ち得ない。
リースヒェンは困ったような目になる。小さな手に力がこもった。
唇が触れ合う一瞬前、だが
「陛下! どちらにいらっしゃいますか!」
という唐突な呼び声が場を打ち破る。
何とも言えない脱力感を覚えながら呼ばれた本人は顔をあげた。
「何だ、こんな時に……」
王を探す臣下の声は当人を怪我から救ったが、代わりにオルトヴィーンは苦い肩透かしを味わう羽目になった。
力が緩んだ為か、リースヒェンはあっという間に彼の腕の中から身を捩って抜け出してしまう。
彼女が立ち上がるのと同時に王を探していた文官がその場に現れた。
文官の男は二人を見て目を丸くしたが、鋭い王の視線に居住まいを正すと頭を下げる。
「定例会議に陛下をお呼びするよう申し受けまして」
「もうそんな時間か」
「いえ、事前に別のお話があると……」
「分かった」
会議の前に話があるとは大方面倒なことでもあったのだろう。オルトヴィーンは立ち上がると草を払う。
振り返るとリースヒェンはドラゴンを拾い上げているところであった。
「俺は仕事だ。お前はどうする?」
「私、図書室」
言うと彼女は王を探しに来た文官を指差す。彼は慇懃に頭を下げた。
おそらくこの男がリースヒェンの勉強を見てくれているという文官なのだろう。 王は自分より少し年上に見える臣下をまじまじと眺めた。
「そうか。なら俺は一人で行くからこいつを頼む」
「かしこまりました」
オルトヴィーンは城の中に向かって歩き出す。数歩行ったところでふと足を止め、リースヒェンを振り返った。
「お前、人の顔を指差すなといったであろう」
「あ、ごめんなさい」
丸くなってしまった黒い瞳に、ひょっとして自分以外の人間なら顔を指してもいいとでも思っていたのだろうか、とオルトヴィーンは苦笑する。
不思議と気分は悪くない。
夢の記憶にはもう何の力もない。
確かに出来た息抜きに、彼は穏やかな目を伏せると自らの為すべき事に向かって歩き出した。

機嫌よく会議室に現れた王を待っていたのは、しかし予想通り面白い話ではなかった。
「ベレンキ侯が動いている?」
苦々しい王の声に、将軍は頷く。
「先日の、アンネリの征服以後どうやら諸侯に触れ回っているようです。
 王は戦果ではなく戦い自体を好んでいるのだと。
 その証拠にアンネリの民を据え置き、税もささやかにしか取り立てていないと……」
「農民に重い税を課しても仕方あるまい。ましてや征服したばかりの領土になど反感を買うだけだ」
「左様で。しかしベレンキ侯は巧みに貴族たちの不満を煽っているようでして、侯を支持する者も少しずつですが増えてきております」
オルトヴィーンは「愚か者どもが」と小さく吐き捨てた。
ベレンキ侯はロズサーク有数の実力者の一人で、その息子はオルトヴィーンの異母姉を妻として迎えている。
先代王の正室の長女である彼女は夫との間に6歳になる男子を儲けており、その子供が今のところオルトヴィーンの次の王位継承者とされていた。
無論オルトヴィーンに子が生まれれば、彼の子供の方が順位は高くなる。
裏を返せば世継ぎがいない今、王に何かがあれば王位はベレンキ侯の孫の下に転がり込むのだ。
下心が丸見えな政敵の動きに彼は忌々しさを禁じえなかった。
ただでさえナドラスとの関係調整が面倒な時に、国内にも問題があるというのは決して嬉しい話ではない。
オルトヴィーンは侯への監視を強化するよう手配すると、しばらく考えた後リースヒェンの護衛も内密に増やすよう命じた。
将軍は軽く驚いて聞き返す。
「アンネリの姫でございますか。それはまた何故……」
「今、あれに何かあってナドラスとの関係が悪化すれば、戦争回避という名目で俺に非を押しつけて排斥しようと立ち回られる恐れがある。
 アンネリの民にあれに被害が及んだと喧伝されても面倒だ。手を打っておくにこしたことはない」
「なるほど。承知いたしました。そのように手配いたしましょう」
「まぁもっとも、魔力を制御できないあれが反撃で城を壊しそうな方が問題だがな」
真顔で言われた言葉に将軍はどう反応するか迷ったようだったが、結局は真面目な顔を作ったまま一礼して退出した。
冗談と受け取られなかったことはよかったのか悪かったのか、オルトヴィーンは眉を寄せたが、すぐに思考を切り替えると定例会議に向けていくつかの懸案を頭の中に並べ始める。
確かに自分は戦いを好む王なのかもしれない。
だが目的のない戦いの為の戦いをするつもりはなかった。今までも、これからも。
安穏と権力を得て利権を貪る王より、自分の方が余程ましだとオルトヴィーンは思っている。
しかしそれはただそう思いこみたいだけで、本当は詭弁にすぎないのだと、彼はとうに気づいているのかもしれなかった。
それでも彼は野心を捨てることは出来ない。
自分が王であると力によって証明できねば、どこまでも悪夢の中溺れていってしまうような錯覚に、ずっと昔から捕らわれているのだから。