無名の薔薇 08

mudan tensai genkin desu -yuki

エルシーは目の前に差し出された黒色の板を見て目を丸くした。
大きさはちょうど鍋が乗るくらいで、厚さは指の一関節分程である。
何の変哲もない板は隅に小さな水晶が二つ埋め込まれており、宮仕えのエルシーはこれが魔法板を操作する為のものだと知っていた。
「これが鉄の魔法板でございますか……」
「試作品。もう少し構成を簡単にしたい。今のままだと上手な人じゃないと、作れないから」
エルシーは頷くと水晶の片方に触れる。
と、徐々に板が熱を帯びていくのがかざした手に伝わってきた。
「凄いですね」
「厚いのも直したい」
不服そうな姫君にエルシーはぷっと吹き出す。
確かに今流通している銀の魔法板はもっと薄く、また温度が調節できるものなども出回っているが、これは鉄で出来ているというだけで充分画期的なのだ。
量産できれば平民の生活は一変し、魔法技術はまた一歩前進することになるだろう。充分凄い。
だが、そこで妥協しないところにリースヒェンの性格が出ていている気がして、つい微笑ましくなってしまったのだ。
エルシーは魔法板の作動を切る。リースヒェンはまだ余熱がある板を自分の魔法で冷ましながらテーブルの端に寄せた。
城の談話室には今は二人しかいない。先程まで同様に魔法板の実験に携わっている魔法士がいたのだが、エルシーと入れ違いに出て行ってしまった。
その為二人はお茶を飲みながら雑談に花を咲かせているのである。
「エルシー、ナドラスやアンネリがどうなっているのか、分かる?」
「それは……申し訳ありませんが、わたくしなどでは詳しいことは分かりかねます。陛下にお聞きになった方が……」
「教えて欲しいか?」
突然の男の声は談話室の入り口よりかけられたものだった。
エルシーは驚いておもわずお茶のカップを取り落としそうになる。だが、リースヒェンはそちらを向いただけで動じなかった。
二人の女の視線を受けて、男は柔らかく苦笑する。
戦うことに馴れた足取りでリースヒェンの目の前まで近づいてきた。
新しく将軍になったこの男の端整な顔だちは城の女官の話題をさらってやまない。
それはエルシーも認めているところであったが、リースヒェンに対してあまりにもぞんざいな言葉遣いに彼女は肩をいからせて立ち上がった。
「無礼な。王女殿下に何という口を……弁えなさい」
「ああ、失礼。慣れていなくてな」
ディータは跪くとリースヒェンの手を取った。黒い瞳がまん丸になる。
「これでよろしいか? 姫」
白い手の甲に口付けた男は悪戯っぽい笑みを見せた。
たいていの女性なら思わず赤面してしまうであろう状況に、しかしリースヒェンは眉を寄せただけである。
「床はいいから座って。知っていることがあるなら教えて欲しい」
「承知」
一体何を考えているのか分からぬ男にエルシーは警戒を隠せなかったが、リースヒェンが話を聞きたいというのだから仕方ない。
ディータは笑いながら椅子を引いてリースヒェンの隣に座ると、彼女に向き直った。
「まずナドラスだが、ロズサークは姫の引渡しを遠回しに断った。ナドラスも納得しひとまずの決裂は避けられたが、
 彼の国はキスクに協力を申し出、戦争の準備に備えているという。まぁロズサークが武器の輸出を抑えていることが原因かもな」
軽く言ってのける将軍とは対照的に、二人の女性は顔色を失くす。
結局ロズサークが戦争を避けようとしても、ナドラスがそれを望む可能性は残っているのだ。
そんな当たり前のことに今更二人が衝撃を受けているのは、二人が自ら戦争を起こすという欲求に共感を覚えない性格の為であろう。
ディータは面白そうに彼女たちの顔を見回すと、指でテーブルを叩いた。
「アンネリは一見平穏そのものだ。
 だが王子の安否が知れないことと、実は王女が存在してロズサークに連れ去られたという噂、まぁ事実なんだが、
 それが農民の間に広まってきているらしい。誰かが意図して広めているのかもしれないが、民は不満を蓄積しつつあるという」
「王子!?」
「何だ、知らなかったのか。姫、あなたの弟だ」
リースヒェンの紅い唇がわななく。
冷静に考えてみれば幽閉された王女しか子供がいないはずがない。次代を継ぐ者がいたはずだ。
だが自分の弟が存在し、生きているという話は言い様のない熱い感情をリースヒェンにもたらした。
自分に家族がまだいたというのだ。
今何歳なのだろう。きっと子供だ。
会ってみたい、無事でいて欲しいという思いが胸の中で膨らむ。
漆黒の両眼に期待が浮かぶのを見てエルシーは息を呑んだが、ディータはむしろ穏やかに笑った。
「姫がここに閉じ込められたままでは会えぬだろうな。アンネリの人質は二人は要らぬ。
 陛下が弟の存在を姫に伏せていたのも姫が会いたいなどと言い出さないようにだろう」
男の言葉は二重三重の衝撃をリースヒェンに与えた。
彼女は意味の分からない言葉を咀嚼するかのようにディータを見返す。
「……閉じ込められている? 私が?」
「それ以外の何だというのだ、姫よ。あなたは陛下によってこの城に捕らえられている」
「でもオルトヴィーンは、私を出してくれた」
「違う。幽閉場所が広くなっただけだ。あなたは今も閉じ込められていて、決して自由ではない。
 もし姫の言うとおりここに親切があるのだとしたら、何故王子の存在は姫に伝えられなかったのだ?」
「黙りなさい! 不敬になりますよ!」
さすがに不味いと思って割り込んだエルシーに、ディータは威圧のこもった目を向けた。
強い力を持つ男の威に彼女は押されて言葉に詰まる。
「少し黙っていろ。お前が本当に姫の味方だというのならな。
 それとも反論があるのなら聞いてやるが」
「エルシーを苛めないで欲しい。彼女にも立場がある」
今度はリースヒェンが割って入った。ディータは肩をすくめると王女に向き直る。
「姫、あなたもこの城にいるというのなら気をつけたほうがいい。
 あなたの魔力は国を動かす。利用したがる者や疎んじる者が集まってくるぞ」
「私は……」
「俺の話はそれだけだ。あとはご自分で考えられよ」
ディータはさっと立ち上がると手を伸ばしてリースヒェンの頭を撫でた。エルシーが無礼を咎める前に踵を返し談話室から去っていく。
後には何とも言えない沈黙だけが残された。言葉に打たれた衝撃がやまない。
彼の言う事全てが本当だとは思わない。けれど嘘ばかりでもないのだろう。
そう感じ取ったリースヒェンはここで初めて、この城における自分の存在について正面から向き合うことになったのだ。

王子の部屋を訪れたエイリーデは、少年が旅装束をつけていることに気づいて唖然とした。
思わず大きな声をあげかけて、他国の城内であることを思い出し声を潜める。
「殿下、一体どちらへ……」
「アンネリに戻ってみる」
「危険です!」
今度は抑え切れなかった声が彼女の口から飛び出した。
一つしかない扉の前に立ちふさがりながら、エイリーデは両手を広げる。
「アンネリはロズサークの支配下に置かれています。折角抜け出して来れたのです。
 今はナドラスにて再起の好機を窺うべきだと……」
「僕もアンネリの子だ。そしてアンネリには民と、僕に付き従ってくれた兵たちが残っている。
 王家がなくとも彼らに未来が保障されるというのなら、僕がその最後を示さねばならない」
「王家はあります! まだ殿下がいらっしゃいます!」
必死で抗弁する従者にアーベルが向けた目は、申し訳なさとも憐憫ともつかぬものだった。
11歳の少年に似合わぬその感情にエイリーデはそれ以上何も言えない。
自分が王家という名のもとに、一人の少年を圧しているのではないかと、そんな思いが胸中に生まれた。
「エイリーデ。王家とは国や民を守る為のものだ。平穏に暮らすことのできている民を犠牲に再興するようなものではない。
 終わりがない国などないと、大国でさえもが証明している。
 僕が王族として立つとすれば、それはアンネリの民の権利が守られなくなった時だ」
オルトヴィーンはその点で言えば、間違いなくアンネリ王家の敵であった。
彼はアンネリの民を過不足なく扱うことで、王家を無意味化してしまったのだから。
もし彼が征服者としてアンネリの民を弾圧していたら、民もまた団結し、アーベルを仰いで再興を誓っただろう。
しかしそうはならなかった。
民がどんなに王家への忠誠を寄せてくれていたとしても、それは彼ら自身の命と生活に代えられるものではないと、まだ若い王子は断じていたのだ。
そしてアーベルは国の現状を見極め、王家の生き残りとして務めを果たさなければならないとも思っていた。
再興か、王家の終焉かを選択し、翻弄された民に行く末を示さなければならない。
その為に彼は再び祖国に戻ろうとしている。重すぎる責任を負って。
悲しそうな顔になってしまったエイリーデに少年は笑ってみせる。
「ジェド殿下には申し訳ないが、ナドラスはともかくキスクはやることに容赦がない。
 僕がここにいて開戦の口実にでも使われてはたまらぬ」
それに姉のことも気になる、とはアーベルは口に出さなかった。
エイリーデはしばらく迷っているようだったが、やがて跪き命に従う旨を示す。
彼らは慌しく支度すると、見張りの目をかいくぐって城を出た。
彼女と二人、馬を駆ってアンネリに戻りながらアーベルはふと考える。
彼の父は決して悪王ではなかった。けれど父親としては間違っていた。それは確かであろう。
リースヒェンが死ぬまで続くはずだった幽閉は17年目に落城と共に終わりを告げた。
姫は牢獄から連れ出され、外の世界を知った。
ならばもしかしてあの日の転換とは、王が娘を恐れ封じ込めた、その過ちを裁く為のものだったのではないかと、 そんなありえない考えを彼は抱いてしまったのだ。
日が落ちた細い道を二騎はただ駆け抜けていく。
青白い月が、彼らの影を長く長く照らし出していた。

王の前に呼び出されたベレンキ侯は態度だけは丁寧に臣下の分を弁えかしこまった。
だがその笑顔がうさんくさいものに見えるのは、何故彼が呼び出されたか知っている者ならば皆同じであろう。
白々と「どういったご用件でございましょうか」と尋ねる男にオルトヴィーンは冷ややかな目を向ける。
「近頃貴族たちに色々なことを触れ回っているらしいな」
「はて、どういったことでございましょう。付き合いもありますれば話はいたしますが、どの話が問題なのかとんとわかりかねます」
「アンネリの戦後処理についてだ。不満があるなら直接聞こう」
切りつけるような王の言葉に、しかし狐狸を巧みに操るベレンキ侯は心外だという顔を見せた。
「不満などとてもとても。ただ随分敵国の民に寛容であると思っただけでございまして」
「今はもうロズサークの民だ。寛容を批難されるいわれはない」
「魂までもが屈したわけではありますまい。陛下、私は御身を心配し、僭越ながら申し上げます。
 アンネリより連れ帰った姫……大層美しい方と伝え聞きますが、陛下は彼の方の為にアンネリに寛容を与えているのではございませぬか?
 古来より美しすぎる女は傾国と呼ばれますれば、お気をつけなさった方がよろしいかと思います」
「俺が女に迷ったというのか」
隠そうともしない嫌味にオルトヴィーンは不快をあらわにした。
ベレンキ侯を睨む視線に力が増す。
だが侯は難なくそれを受け流すと頭を下げた。
「お気に障られたのでしたら非礼をお詫びいたします。
 ですが、陛下ご自身がどう思われているのかではなく、周囲がどう見るかが問題なのです。
 このままでは一人の姫の為にナドラスとも戦端を開くのではないかと……」
「あれには利用価値がある」
強い言葉にベレンキ侯は顔を上げる。
同時に王の傍に控えていたリマも驚きに王を見た。何を言い出すのかと魔法士長は視線で問う。
だが留めるようなリマに見向きもせず、オルトヴィーンは玉座の脇から一枚の鉄板を取り出すと、それをベレンキ侯の前に放ってみせた。
「見た事があるか? 魔法板だ」
「これは……鉄製ですか!」
「あれが作った。試作品だが完成も近いという」
さすがに驚愕する男をオルトヴィーンは鼻で笑った。
「あれには使い道が多い。育てれば軍に匹敵する程の魔法士になるという。
 それに鉄に熱を帯びさせる構成も……武器などに応用することができる」
「陛下!」
厳しい声はリマのものだ。
オルトヴィーンは蒼ざめた魔法士長を横目で見やる。
リースヒェンは武器によらない輸出できる鉄製品として魔法板の研究を始めたのだ。そのことを実験に付き合ってきたリマはよく知っている。
なればこそ彼女の思いを踏みにじるようなことを、しかも何故ベレンキ侯に言ってみせるのかリマには理解できなかった。
王は青い瞳に凍りつく光を湛えて臣下を見回す。
その視線をベレンキ侯に戻すと口を開いた。
「分かったなら下がれ。以後あれについて余計な口出しは無用だ」
「……御意」
衝撃が覚めないベレンキ侯が退出してしまうと、オルトヴィーンは何か言おうとするリマを遮って体を椅子に沈めた。
言うべきではなかった。それは分かっている。
だがリースヒェンのことを言われて、つい黙っていられなくなったのだ。
彼女を愛しているわけではない。決して溺れてはいない。
ただ、彼女は自分のもので、充分な価値があるから傍においているのだと示したかったのだ。
その価値を自分が忌避していた魔法についてとしてしまったことに何とも言えない気分の悪さがあったが、他者を納得させるにはそれが一番効果的だ。
現にベレンキ侯は何も言えず引き下がったではないか。
自己を肯定する欺瞞をオルトヴィーンは自覚していたが、それを飲み込んで目を閉じた。
そして彼が自分の過ちを認めるには、そう長い時間は必要なかったのである。