無名の薔薇 10

mudan tensai genkin desu -yuki

「アンネリには振られてしまったか。残念なことだ」
女の声は歌のように優美に響く。
長椅子に寝そべった体は妖艶な魅力を放っており、絹の袖からのぞく象牙色の腕は瑞々しさを過分に主張していた。
だがうら若く美しい女の外見とは裏腹に、彼女の声には老練な毒がこもっている。
主人に向かって跪く男は頭を垂れた。
「ナドラスから今回の件について保留を願う書状が届きました。
 アンネリの王子が再興を望んでいないようだと」
「残念残念。折角、戦が出来ると思うたのに」
女はそう言うと傍に控える女官から紅い果実を受け取った。皮の上から白い歯を立てる。
「ここのところ退屈でかなわぬ。兄上にでもファルサスの悪口を吹き込んでこようか。おもしろいことになるかもしれぬ」
「無闇に王を煽られませんよう。感情のままに戦端を開いても、勝ち目はございません」
「きっぱり言うな。何か切り札があればよいのだろう?」
果汁したたる実を女はねぶる。
娯楽として国政を弄る彼女に批判の目を向ける者は皆無ではなかったが、ほとんど存在しない。
何故なら王よりもこの王妹の方が余程切れ者であり、影の実力者でもあったからだ。
彼女は気に入らない者には容赦しない。猫が獲物をいたぶるようにしゃぶりつくす。
そのやり方は国内外で畏れられ、彼女の名はいつしかキスクの代名詞ともなっていた。
何か切り札を、とは言ったものの何も思いつかないらしい彼女の表情は、次第に飽いたものになる。
このまま機嫌を損ねてまた無茶なことを言われては敵わない。男は口を開いた。
「実は今宵、ロズサークにて面白いことが起きるらしいとの情報を得ております」
「ほう? 謀? それはいいな。見に行きたい」
「恐れながら、姫には国に居ていただきませんと。その代わりわたくしが参り、あとで詳しくお伝えいたします」
「お前の話は固くてつまらぬ。まぁいい。見てきておくれ、妾の代わりに」
主命を受けて男は立ち上がった。数歩下がり転移の構成を組む。
その様を半眼で眺めながら女は笑った。
「土産が欲しい。人でも物でも構わぬ。面白いものを頼む」
「かしこまりました」
男の姿が部屋から消える。
彼女は手元の果実を目を細めて見下ろすと、無造作にそれを男の跪いていた場所に向かって投げ捨てたのだった。

薄暗い部屋に集まった数十人の男たちを見回す。
腕が立つものばかりを選りすぐったのは今日この日の為だ。
彼らに命を下す男は満足げに頷いた。
「駒は揃った。今夜が決行だ。―――― オルトヴィーンを殺せ」
一国の王を弑せよという命にも拘らず、彼らには微塵の動揺も見れなかった。
研がれた武器としての煌きだけが男たちの両眼には浮かび、それだけに事の前にも拘らず昂揚はどこにも感じられなかった。
そんな中、一人だけ熱っぽく野心に溺れる男は自分の傍らにいる少年を見下ろす。
幼い顔立ち。大きな両眼には何の意志もなく、ただ魔法で精神を操られたものの胡乱があった。
男は薄い笑みを浮かべると少年の耳元で囁く。
「聞こえたな。お前は今日ロズサーク国王を殺すのだ……アーベル王子よ」
少年は答えない。
だが命令が受諾されたことは隣にいる魔法士が頷いたことで分かった。
男は再び彼らに向き直ると指を鳴らす。
「アンネリ王女は捕らえろ。彼女には使い道がある。魔法士らしいから留意しろ」
道具である男たちは目で了承を示す。
愉悦に満ちた主の笑い声が響き ―――― そして彼らは夜の城内に解き放たれた。

近頃多忙で顔を合わすことも少なくなっていたオルトヴィーンをリースヒェンがようやく捕まえたのは、夜になって彼が後宮に渡ろうとしていた、まさにその渡り 廊下でのことであった。
制止する護衛兵たちを振り切って飛び込んで来た女は王を見るなり、怒りに満ちた声で叫ぶ。
「あなたは! 何をしようとしているのです!?」
「何だいきなり。騒がしい」
オルトヴィーンは足を止めると彼女に向き直った。その服をリースヒェンは両手で掴む。
「何を考えているの? 自分の戦争に私たちを使わないで! 構成も、弟も!」
「弟?」
身に覚えのないことを聞き返しながら同時にオルトヴィーンは心が冷える思いがして目を細めた。
構成とは何のことか、心当たりは一つしかない。そしてそれはリースヒェンには知られたくないことだったのだ。
彼は狂乱する女の顎を掴んで上を向かせると、威を滲ませた目で睨んだ。
「訳の分からぬことで来るな。お前の弟など知らぬ」
「なら構成のことは!? あなたが魔法板の構成を ―――― 」
そこまででオルトヴィーンは手で彼女の口を覆った。
魔法板のことでさえ城ではまだ限られた者しか知らないことなのだ。
こんなところでそれ以上の機密を話されては困る。
オルトヴィーンは護衛兵に下がるよう目で命じると、暴れる彼女を引きずって後宮に入った。
目を丸くする侍女たちの中、かつて半日だけリースヒェンが使っていた空き部屋の中に彼女を放り出すと、自分も中に入って鍵を閉める。
「時と場所を弁えろ! あんな場所で口にしていいことかどうかお前にも分かるであろう!」
王は床に座り込んだ女に向かって一喝したが、それは彼女を怯ませはしなかった。
むしろ黒い瞳を輝かせながら彼女は反駁してくる。
「自分の兵に知られて不味いことがあるというのなら、そちらの方が問題でしょう」
「機密だ。誰もが知っていい訳ではない」
「あなたが画期的な武器を量産しようとしているから? それで戦争を起こそうとしているから?
 あなた一人が戦うわけではないのに、多くの兵が死地へと向かうのに、あなたの思う王とはそんなものなの?」
オルトヴィーンは唇を噛む。
目の前が白く爆ぜたような気がした。
何故いつも彼女はこれ程までに痛いところをついてくるのだろう。
物知らぬ彼女の問いは真っ直ぐにオルトヴィーンに突き刺さる。王たる資格をつきつけてくる。
それがある意味正しいことは彼にも分かる。だが分かったからといってその通りにできるわけではないのだ。
彼もまた子供の頃から理想の王の姿を思い描いていた。それが父王であると思ったこともあった。
大きくなれば父のようになれると思っていたのだ。母の言葉によって彼自身が歪められるまでは。
「お前に何が分かる……」
王の言葉は呪詛のように響く。
オルトヴィーンはリースヒェンの腕を掴んで立ち上がらせると、華奢な体を寝台の上に投げ出した。
跳ね起きようとする体を押さえ込みのしかかる。
怒りと驚愕に唖然とする女を見下ろしながら、彼は嗤った。
「俺は魔法士が嫌いだ。魔法士の女はもっと……」
「はなして」
毅然とした女の言葉を彼は一笑に付す。
リースヒェンは彼を探して飛び込んで来た為か、いつも連れているドラゴンをこの時は伴っていなかった。
たいして力のない体で暴れる彼女を組み敷きながら、オルトヴィーンは白い首筋に舌を滑らす。
柔らかい耳朶を軽く噛んで、その耳に囁いた。
「魔法を使ってみろ。アンネリがどうなるか分かっているだろうな」
リースヒェンは何も言わない。
ただぞっとするような深遠を湛えて闇色の両眼が彼を見据えた。
その色に既視感を覚えてオルトヴィーンは顔を顰める。
頭が痛い。
思い出したくないことを思い出しそうな気がする。
『あなたは―――― なのよ』
「煩い!」
放った声には苦渋が混じっていた。
リースヒェンは形のよい眉を寄せる。過去の記憶に苛まれる男を見つめた。
苦痛だけが沈殿する一瞬。
彼女は長く息を吸うと、小さな唇を言葉の形に動かす。
「あなたは、何が、嫌なの?」
幼子がするような、真摯な問い。
それは不思議と凪いで部屋に響いた。
「俺は―――― 」
オルトヴィーンは両目を固く閉じる。闇の中、美しい女の姿が浮かんだ。
彼の母親、ファルサスの侯爵の娘。
優しげに微笑む女の顔を彼はかき消す。
激しくかぶりを振ったオルトヴィーンは、リースヒェンに向かって歪んだ笑みを見せた。
「教えてやろう、リースヒェン。
 俺に王の資格があるのかとお前は問う。
 だが、そもそも王の資格とは何によって与えられるものなのだ?
 俺にはロズサーク王家の血は……流れていないというのに!」
リースヒェンは思わず絶句する。
その貌を見下ろしたオルトヴィーンは、泣き出しそうな顔で笑った。

彼の母であった女はファルサスの侯爵令嬢だった。
魔法士が多い彼の国の人間として、多分にもれず彼女も魔法士であったらしい。
その彼女が何故ロズサーク王の側室になったかは彼は知らない。知ろうともしなかった。
ただ彼女は祖国にいた時より、ファルサスの王と親しく、王がロズサークに彼女を訪ねて来たこともあったのだという。
まもなくオルトヴィーンを身ごもった彼女に、後宮では一つの噂が囁かれる。
曰く、「彼女の腹の子はファルサス王の子なのではないか」と。
勿論彼女はそれを否定し、ロズサーク王も噂を笑い飛ばすと以後話題に乗せる事を禁じた。
それで全ては解決したはずだった。
幼い時に彼が母から聞かされた言葉がなければ。そして13の時に彼がその噂を耳に入れなければ。
腹違いの兄が病死し、途端に次期王と看做されるようになったオルトヴィーンに囁かれた陰口。
ほとんどが根拠のない噂話にすぎないそれらに、彼は一つの記憶を思い出したのだ。
『オルトヴィーン、あなたはファルサス王家の血を継いでいるのよ。そのことを誇りに思いなさい』
その時はもう亡くなっていた母の言葉。
初めて聞いた時はよく意味が分からなかった。
ただ繰り返し聞かされ、その上で他の人間には言わないよう口止めをされていただけだ。
だからずっと忘れていた。
しかし、十年近い歳月を越えてその言葉の本当に意味するところを知って彼は愕然としたのだ。
自分は尊敬する父の血を継いでいない。
それどころか不義によって生まれた子なのだ。
途端に何もかもが分からなくなった。
何がよき王なのか、自分には何ができるのか、オルトヴィーンは自分の進む道を見失った。
そうして苦しんだ彼が見出した結論は、魔法に頼らずロズサークをファルサスとも相対できるくらいの強国にすることと、 その為には他国を捻じ伏せることも厭わないこと、ただその二つだけだった。

ついに言ってしまった。
誰にも告白していなかったことを、ついに話してしまったのだ。
後悔と、期待によく似た何かが頭の中を渦巻く。
オルトヴィーンは軽い眩暈を覚えて目を閉じた。
彼の口からその出生の秘密について聞かされたリースヒェンは、さすがに驚愕したようだった。
人形のような顔が何かを考え込むような表情に変わる。
「オルトヴィーン、あなたは……」
「煩い。何も言うな」
彼女の言葉を一蹴した男は、再び彼女に向かって顔を寄せる。
だがその時、どこか離れたところ、しかし確実に城内で鈍い爆発音が響いた。
微かに聞こえる女の悲鳴。剣戟の音。
オルトヴィーンは反射的に剣に手をかけながら体を起こす。
拘束が緩んだことで、女は纏う空気を変えた男の下から素早く逃れ出た。ドレスを引いて駆け出す。
「待て! リースヒェン!」
しかし彼女は捕らえようとした腕をすり抜け、小動物のように俊敏な動きで部屋を走り出ていってしまう。
オルトヴィーンはその後を追ったが、部屋を出てすぐのところで別の女にぶつかりかけて急停止した。
その女は王を見上げて驚きに顔を引き攣らる。
「陛下……」
「セイレネか。護衛兵のところに行っていろ、外に出るな」
それだけ言ってオルトヴィーンは城への廊下を走り始める。
既にリースヒェンの姿は見えない。城の部屋にでも戻るつもりなのか。
「馬鹿が! 危険かもしれぬというのに」
舌打する声を後悔が色濃く彩っている。
結局彼が自分で彼女の信用を損ねてしまったのだ。
だが別に最初から彼女と対等だったわけではない。何故後悔をしなければならないのか、オルトヴィーンは胸中でそう反論する。
けれど、そうは言ってみてもやはり彼は重く沈殿するような感情を振り払うことは出来なかった。
剣戟の音が大きくなる。
紅い火が夜空を照らし出す。
何が起きているのか。しかし体に馴染んだ戦いの気配にオルトヴィーンはアンネリの城を落とした、かつての日のことを思い出していた。

城内は既に混乱に満ちていた。
どこから入り込んだのか、武器を手にした男たちが王の名を呼びながらあちこちを走り回っている。
護衛兵たちと切り合いが行われ、女官が悲鳴を上げながら逃げていく。
そんな中をリースヒェンは、ドレスを引きながらエルシーとナークを探して廊下を走っていた。
角を曲がろうとして廊下の奥に刺客たちの姿を見出し、彼女はぎょっと足を止める。
引き返そうとするが、元来た道からも男たちの怒声が近づいてきていた。
彼女は慌てて近くの扉を開けるとその中に逃げ込む。
どういう事態なのかまったく分からない。
ただ城やオルトヴィーンに害意のある者たちが押し入ってきたのだ、ということだけは分かった。
窓際によってみると、どこかに火が放たれたらしく空が赤い。
ふと目を凝らすと、庭を挟んで反対側の廊下をエルシーとよく知る文官の男が走っていくのが見えた。
リースヒェンは思わず窓を開け、彼らを呼ぼうと口を開く。
しかし声が出るより早く、後ろから男の腕が伸びてきて彼女の口を塞いだ。
「姫、ここで声を出しては自殺行為だ」
聞き覚えのある声。リースヒェンは顎を上げて後ろを見る。
いつからこの部屋にいたのか、そこに立っていたのは将軍ディータだった。