無名の薔薇 13

mudan tensai genkin desu -yuki

戻ってきた配下の報告を聞いた彼女は、不愉快を隠そうともしない表情のまま、跪く男に向かって扇を投げつけた。
男はただ頭を下げて主人の怒りを受け止める。
「お前の話はつまらぬとは思っていたが、まさか肝心なところを歯抜けで帰ってくるとは思わなかったわ。
 やはり妾が自ら行けばよかった」
「申し訳ございませぬ。二人ばかり異様な力の人間がおりまして、気づかれないようにと接近することができませんでした」
「近づけばよかったのだ。見つかって腕の1本や2本なくなっても妾の為なら惜しくはないであろう」
「御意にございます」
彼女は諾々と頭を垂れる男に向かってこれみよがしに舌打して見せると、象牙色の足を見せ付けるようにして交差させる。
酒に濡れた紅い唇が艶かしい魅力を醸し出していた。
「それで? まさか土産も無いとは言うのではなかろうな」
「お望みのものは確かに……女を一人、連れ帰ってまいりました」
男は振り返って扉のところに立つ従者に目配せする。
従者は扉を開き、そこから一人の女が現れた。
彼女はしずしずと室内に入ると、部屋の主人である女の前に両膝をついて礼をする。
「名乗れ」
「お初にお目にかかります、オルティア様。
 わたくしセイレネ・エアト・ソフォナと申します。タリス公爵家の出身で、ロズサーク王オルトヴィーンの側室をしておりました」
「ほう? それで、セイレネ。お前はどうやって妾を楽しませてくれるのだ?」
むせ返る程の花の香りに似た強い声にセイレネは顔を上げる。
野心が滲む目で彼女は笑うと自分の腹を撫でた。
「わたくしは子を身篭っております。その子はファルサス直系……ファルサス先王の孫にあたる子でございます」
多くを含む言葉にオルティアはさすがに上体を起こした。
大きな目に驚きが光る。それが次第に悦びに変わっていくのをセイレネは微笑んで見守った。
「面白い……。それは実に面白いな!
 詳しいことを聞かせてもらおう。兄上も興味を持たれるに違いない」
オルティアの手招きにセイレネは応える。
別室に置かれたままの彼女の荷物の中には、最低限の身の回りの物とともに一冊の古い本が入っていた。
騒ぎのどさくさの中、男に誘われロズサークを出ようとしたセイレネは、不思議と何かに呼ばれた気がして後宮の図書室の隅に仕舞われていたこの本を手に取ったのだ。
何故何の変哲もない、しかも歴史と空想がでたらめに入り混じって書かれた本を選んで持ち出してきたのか、彼女自身にもよく分からない。
今はただ、新しい国において自分の立場を確立することの方が重要だった。
セイレネは後宮で扉越しに盗み聞いたオルトヴィーンの話を語り始める。
ファルサスとキスク、大国同士の亀裂が今、徐々に広がりつつあった。

アンネリ王家が滅んでから数ヶ月後、旧アンネリ領土はロズサーク王の承認のもとアーベルを領主として治められることになった。
ロズサークからナドラスへの武器の輸出は通常通りに戻されたが、それ以上に大陸を驚かせたのはロズサークが鉄の魔法板を開発し、売り出したことである。
構成上の限界ということである程度の大きさと厚みは固定され、防具はともかく武器への転用はできなかったが、各国の商人たちはこぞって鉄の魔法板を買い占めに走った。
噂に聞く板を取り寄せたファルサスは、その構成に温故知新とも言うべき、今はほとんど使われていない技術の更なる洗練を見出して舌を巻く。
だがロズサークは誰がこの構成を開発したのかをついに明らかにすることはなかった。
―― アンネリに王女がいたという話は、戦争の混乱が生んだ流言として片付けられた。
真実を知る者は誰も何も話さない。彼女の名を口にしない。
名前を持たない薔薇のような女は、こうして歴史の闇の中へと消え去った。
あとにはただ、朽ちた城の離れが残るのみである。

「ここで暮らすの?」
「そう。どこか行きたい国があるならそこに館を買うぞ」
ただし、ファルサスの城都以外だ、と付け加える男にリースヒェンは首を振った。
闇色の瞳が男をじっと見つめ、微笑む。
「ここがいい。オスカーがいるなら」
「俺はいつもいる。どこにも行かない」
それを聞くと彼女は本当に嬉しそうな顔になった。
今にも屋敷の中を走り出しそうな勢いで彼の膝の上に乗ってくる。
細い両腕を彼の首に回してもたれかかった。
「オスカーは本当はそういう言葉遣いなの? もう戻らない?」
「戻らないな、姫。戻したほうがいいか?」
「いい。その方が落ち着く」
彼女は幸せそうな顔で目を閉じる。艶やかな黒髪をオスカーはゆっくりと撫でた。
彼の片翼である女の記憶がいつ戻るかは分からない。
ただそれはいつでもいいと、彼は思っていた。
どんな彼女であっても変わりない。それは共にいれば分かることだ。
だから今は彼女に安息を贈る。一人で過ごした60年と、遅れてしまった17年間を埋めるように。
オスカーは愛しい魔女の額に口付けると共に目を閉じる。
そしてまた、二人の長い旅は幕を開けるのだ。