双頭の蛇

mudan tensai genkin desu -yuki

悲鳴が響き渡る。
女の声は鋭さを以って空に突き刺さった。血に汚れた白い手が崩れ落ちた男の胸に添えられる。
「ああああ……っ!! 嫌だ! いや!」
注がれる膨大な魔力は血を止め、傷を塞ぐ。だがそれでも間に合わないということはあるのだ。女はそのことをよく知っていた。
周囲には数十に及ぶ死体が転がっている。そのどれもが圧倒的な力に引き裂かれ、原型を留めないぼろきれのようになっていた。
死が満ちている。それは悪意でも争意でもなく、「そのような現象」の為せる業だ。その中に二人は飛び込み……そして、現象を拒絶した。
―――― 分かっていた。自分たちの命を天秤に乗せるような戦いになることは承知の上だったのだ。
それでも、彼女の意識にあったのはただ自分の死のみで、彼を喪うことになるとは今、この時まで思っていなかった。必死で魔力を注ぎ続ける。
「お願い……待って! お願い……」
いつでも先に死ぬのは自分だと信じきっていたのだ。自分こそが彼の守護者であるのだから。
けれど蓋を開けてみれば ―――― 守られたのは、自分だった。
強い血臭はとうに彼女の嗅覚を麻痺させている。華奢な肢体のあちこちに開いた深い傷から深紅の液体が染み渡り、血で塗れた男の体を更に汚した。
傷は治される。しかし、体温は急激に失われつつあった。もはや戻らない時を命は駆け出していく。
取り返しがつかないのだ。もう手は届かない。
彼女は男に縋りつく。構成を持たない魔力が森の中に爆ぜ、あちこちの木々を焦がした。
「いや……待って……」
恐怖に歪む瞳が男の顔を覗き込む。
まるでほんの少女のように喪失の戦慄に震えて彼女は男を見下ろした。死の縁にある男の青い瞳が苦笑に似てただ女の漆黒を見返す。
言葉はない。最早それは発せられない。
だが彼女はその数秒に、「今」の終わりを読み取って…………次の瞬間、魂の離れた男の体を強く抱くと、狂乱の中慟哭したのだった。



九十年は長かった。
彼と出会う前の四百年よりも、ずっとずっと。
生きていることが辛かった。一人でいることが苦しかった。
もし、世界に彼との子供が生きていなかったら。そして「再会」が約束されていなかったのなら。
彼女は感情のままに力を暴走させて、いくつかの国もろとも自ら命を落としたのかもしれない。
だが、そうはならなかった。彼女は「その時」を乗り越えた。
朝起きると、彼を探す為の構成を組む。
見つからないのはいつものことだ。だから、毎朝目覚めることは希望でもあり絶望でもあった。
九十年は長い。
ゆっくりと自分が狂っていく気さえした。
だが、孤独の時もやがては終わる。
それが再び始まる戦いを示すとしても、彼女はその出会いにのみ救われるのだ。



ラジュの母親は彼が五歳の時に他界した。父は彼の生まれる前に流行り病で死んだのだという。
ほんの子供の時に一人になってしまった彼はしかし、己の境遇を儚むことはなかった。自分は家族に縁薄い巡りあわせだったのだと思うだけだ。
幸い生活に関しては叔父一家が最低限の面倒を見てくれている。十歳を越えてからは山に狩りに行く叔父を積極的に手伝った。
自分が将来何になるのかなどとは全く想像も出来ないが、おそらくこの小さな村で生涯を終えるのだろう。
そう思っていたラジュはいつしか十五歳になり、そしてある日彼女に出会った。

第一印象は、花の香がするな、というものだった。
顔は見えなかった。彼女は現れるなりいきなり彼に飛びついてきたのだから。
突然のことに何も言えない彼はただ呆然と自分の腕の中にいる彼女を見下ろす。すぐ傍にある小さな頭は艶やかな黒髪に覆われていた。
この場に叔父がいたなら無用心を怒られたに違いない。いつも叔父は山では潜む生き物の気配に神経を尖らせろと彼に繰り返していたのである。
だが、決して注意を怠っていたわけではない。むしろ普段通りに気を張っていた。
にもかかわらず、不思議な違和感を覚えた瞬間、彼女はどこからともなく現れ、そして抱きついてきたのだ。
一体どこにいたのか、突然見知らぬ女が出現したとしかいいようのない事態に、彼はどう対処すればいいのか分からなかった。
初めは反射的に引き剥がそうとしたのだが、柔らかな感触と見下ろす姿は彼女が小柄な人間の女性でしかないことを示している。
困り果てた少年は逡巡の末、短剣を持ったままの手で彼女の背中を軽く叩いた。
「迷子? 大丈夫だから落ち着いて」
息を吸う小さな音が耳元で聞こえる。
女は彼の肩に埋めていた顔を離した。首に回した両腕は解かないまま、至近でじっとラジュを見つめる。
少し涙に濡れた瞳は漆黒。
そしてその顔立ちは―――― 人間離れしていると言ってよい程の、清冽な美貌だった。

彼女はティナと名乗った。
この村からは遠く離れた西のファルサスから来たという彼女は、どうやら魔法士であるらしい。何もないところから突然現れた謎がまず解けてラジュは納得した。
彼は頼んでようやく離れてくれた女に問う。
「それで、何しに来たの」
「何でしょう……。何かありますか? この辺りは」
「何もない」
「うう」
頭を抱える女は、彼より少し背が低いくらいの少女のような体つきである。だが顔立ちから言えばおそらく二十歳前後、彼より年上だろう。
一体本当は何をしに来たのか、不審極まりない女をラジュは呆れ混じりに眺めた。
「そういえば」
「何でしょう」
「山の中に遺跡があるよ。三年前には盗賊団が根城にしてたらしくて、奴らが捕まってからは財宝を探しによく人が来てた。誰も見つけられなかったようだけど」
「あ、じゃあそれを探しに来たってことで」
「じゃあって何だよ」
よい思いつきのように手を叩くティナを少年は白い眼で見やる。
ここまであからさまに胡散臭いと色々どうでもよくなってくるくらいだ。
彼女自身はしかし、初めからまったく気にしていないかのように曇りのない笑顔を浮かべている。
「えーと、それを探しに遺跡を調べに来ました! できれば案内とかしてくれると、とても嬉しいです!」
「別にいいけど。村に行けばもっと詳しい奴もいるよ。俺は遺跡の中には入ったことないから」
「貴方がいいです」
妙にきっぱりと断言される。それがかえって怪しさを増しているということに彼女自身は気づいていないのだろうか。
ラジュは訝しさを覚えながらも、害意の感じられない女の微笑に気を引かれて溜息をついた。
「分かった。じゃあ少し待ってて。村に戻って叔父さんに言ってくるから。……何なら大人の男も連れてこようか?」
「必要ありません。貴方が来てくださればそれで充分です」
「遺跡の罠にかかっても知らないぞ」
「大丈夫ですよ。私、強いですから」
その言葉が本当なのかどうかラジュには分からない。魔法士に会ったことさえないのだから仕方ない。
少年はひとまずその場に彼女を残すと、走れば五分ほどで着く叔父の家へと向って山を下り始めた。
途中一度だけ、彼は森の中待っている女を振り返る。
遠目からでも異様な程際立って見える彼女の瞳には、まるで隠しきれない感情が浮かんでいるようにも見えたが、それがどのような感情であるのか、この時の彼には 微塵も想像がつかなかったのだ。

叔父の家を訪ねるとちょうど叔父は外出中であった。ラジュは幼い従兄弟に「旅の魔法士に遺跡を案内してくる」と言付けると山の中へ引き返す。
狩用に持ってきた短剣を、家にあった長剣と取り替えたのは念の為だ。遺跡の中に踏み入ったまま帰って来なかったという人間もたまにはいるのだから。
急いで戻るとティナは先ほどの場所でちゃんと待っていた。彼を見つけると目に見えて喜色を浮かべる。
「ラジュ!」
また飛びついてきそうな女を、少年は慌てて手で留めた。
彼女くらいの体格の人間に飛びつかれても別に転びはしないが、吃驚することは確かだ。出来ればやめて欲しい。
未然に行動を防がれた彼女はひどく残念そうに彼を見つめた。代わりなのか彼の傍に駆け寄ると左腕に抱きつく。
迷子の子のようにべったりとくっついてくる大人に、少年は奇異なものを見る視線を送らずにはいられなかった。
「あのさ」
「何ですか」
「魔法士ってみんなそうなの? やけに軽い」
「みんなじゃないですけど、私は魔力通わせてますから軽いですよ。動きやすいようにです」
本当は「何でこんなにべたべたしてくるのか」と聞きたかったのだが、とんでもない答が返って来ると怖いので怯んでしまった。
ティナは機嫌よく少年の腕に両腕を絡めながら足場が悪いはずの山道を歩いていく。
無防備に預けられる躰の柔らかな感触が彼を落ち着かなくさせた。
彼女は造作から言って、本来的には類稀なる美女と評される人間なのだろうとは思うのだが、 鼻歌を歌いだしそうに浮き立っている様は少なくともラジュには稚いものにしか見えない。長い睫毛を見下ろしているとティナは視線に気づいたのか顔を上げた。
「ラジュ」
嬉しそうに彼の名を呼ぶ笑顔はあどけなくも熱のこもったものであり―――― 少年はくらりと眩暈を覚えて、足を踏みしめた。

遺跡の入り口は歩いて二十分程の山中に、崩れかけた洞窟として存在していた。
暗い内部に一歩入ると、ティナは何の詠唱もなく目の前に白い光を呼び出す。それは、ここしばらく立ち入る者もいない洞窟の岩肌を照らし影を生み出した。
「本当に進むの? 何があるか分からないよ」
「結界張っておきましょう。ほとんどの攻撃は無効化できますから」
女はようやく彼の腕から手を離す。そのことに安堵したラジュは剣を抜いて意識を整えた。彼女の二歩前を歩き出す。
「迷路になってるらしい。中は地下深く広がってるっていう話」
「なるほど。では道の選択は貴方にお任せします」
「いいの? 俺は中を知らない」
「構いませんよ。信用していますから」
「初対面なのに」
ラジュがそう言って振り返ると、ティナは無言で微笑んでいた。
ただその微笑はどこか底知れない力を湛えたようなもので、彼は瞬間精神がぞっと戦慄するのを抑え切れなかった。

ラジュは自分が鋭い勘を持っているという自覚があった。
狩りにでかけても獲物が現れる少し前に気配で分かる。叔父などは「危険を察知する力があるんだな」と感心したように言ったものだ。
そしてそれは、遺跡の中でも有効なものだった。いくつもある分かれ道を彼は「何となくこっち」で選んでいく。
その結果罠に出くわすことも行き止まりに出ることも無くはなかったが、ほとんどが難なく捌けるものでしかなかった。
だが、その勘の効果もついに終わりとなったらしい。二人は遺跡の地下深く、押しても引いても開かない巨大な扉を前に立ち止まった。
天井までそびえたつ彫刻が施された石扉を彼らは見上げる。
「何だこれ。扉に見せかけたただの壁とか?」
「扉ですよ。何か仕組みがあるみたいですけど……。盗賊団の作れるようなものじゃないですね」
遺跡の奥に開かずの扉があるなどとは聞いたことも無い。皆ここまで到達できなかったか、出来ても帰って来れなかったかのどちらかだろう。
ラジュは、腕組みして扉を見上げている女に声を掛けた。
「帰る? どうしようもないよね」
「どうしようもなくないですよ。壊せばいいんですから」
大したことでもないようにそう言って、ティナは扉に手を触れさせた。口の中で短く詠唱する。
次の瞬間、岩を砕く重い破裂音が響いた。
砂埃が巻き上がり、視界を覆う。そしてそれがゆっくりと晴れた後には―――― 人一人ゆうに通れる程の穴が扉にあいていた。
「……凄い」
「そうですか? これくらいは出来る人間結構いますよ」
彼女は艶やかに笑う。漆黒の瞳がまるで闇の深遠にさえ見えた。
白い手が彼に向って伸ばされる。
「私は、もっと色々な事が出来ます。そしてこの私の全ては……貴方のものなんですよ、私の王」

彼女は、少女のようにひたむきで、妖婦のように蠱惑的だった。
純真で慈愛深いようでもあれば、危うくも冷酷であったりした。
その多面性がどこに起因しているのか今の彼には分からない。だから、女とはそういったものなのかもしれないと思っただけだ。
初めから逃げる術はなかった。逃げる気もなかった。
彼もまた、彼女を恐れながらも強く魅了され始めていたのだから。

「俺のもの?」
「ええ、勿論。魂も精神も肉体も、私の全てを自由に出来るのは貴方だけです。
 貴方をずっと待っていた……私は貴方に出会う為に、ここまで来たのです」

しなやかな両腕が、立ち尽くす彼の首に回される。
ゆるやかにかかる躰の重みは花の香を纏っていた。
彼女は貝に似た繊細な瞼を閉じ、顔を寄せる。
贈られる初めての口付けは、彼を守るものであり、そして堕させるものだった。

こうして王は再び、彼の魔女を得る。彼女の半身としてあるべき位置へと戻る。
歴史は繰り返さない。少なくとも彼らにとっては。
気が狂う程に重ねられた試行はとうに終わり、二人は記録されていない時間を歩んでいく。
その先にどれ程の絶望と再会が積み重ねられることになるのか、それはその時にならなければ分からないことだろう。
人はその未知を恐れながらも安堵し、また希望と呼ぶのだ。