双頭の蛇 02

mudan tensai genkin desu -yuki

「ラジュ。愛してますよ、結婚してください」
突然の言葉と共に後ろから首に白い腕が巻きついてくる。
いつまでも慣れない背によりかかってくる女の体に彼はうずくまりたくなった。
しかしそれをしてはもう立ち上がれなくなる気がしたので、左手を挙げて軽く振ってみせる。
「離れて。頼むから」
「重いですか?」
「重くないけど離れて」
残念そうな唸り声と共に腕が解かれる。白い肌が耳元を滑っていくのはぞっとするような感触だった。

ティナと名乗る怪しい女が彼の目の前に現れてから一週間。ラジュは毎日やってくる彼女の激しい攻勢を一身に受けることとなった。
まだ少年と言える彼のどこがそれ程気に入っているのか、この絶世の美女は彼にいつでも愛情を囁いてやまない。

ラジュが振り返ると今日の彼女は丈の短い白のドレスを着ていた。すらりと細い脚が腹立たしい程魅惑的である。
長い黒髪は暑いのか後ろで一つに結い上げられていた。闇色の大きな瞳が黒曜石のように煌く。
「あのさ、遺跡の調査は終わったんだから、もう来なくてもいいんじゃない?」
「貴方に会いに来ているんです。来ちゃ駄目ですか?」
初めて出会った日に二人で踏み入った遺跡の奥には、一体誰が隠していたのか山のような金銀財宝が積み重ねられていた。
おそらく平民なら十人くらいは一生遊んで暮らせるであろうその量にラジュは唖然としたものだが、肝心の彼女の方はけろりとした反応を見せただけである。
「好きなだけ持っていってください。なんなら全部でもいいですよ」
と言う彼女に断って、案内料として妥当なだけの金を受け取ると、彼は彼女と別れ家に戻った、そこで終わりのはずだった。
「私は全て貴方のものですよ」などという言葉を信じるはずがない。
その誘惑は一瞬気が遠くなるほど蠱惑的なものだったが、ラジュは何とか自分を制した。美しい女が子供をからかっただけだと思ったのである。
けれど彼女は翌日も彼の前に現れた。
現れて、そして一分の曇りもない嬉しそうな顔で「結婚してください」と笑ったのだ。

「とりあえず結婚しないから」
「どうしてですか? 気に入らないところがあるなら言ってください」
「出会って一週間の人間とは結婚しない!」
しかもまだ十五だし、と付け加えると彼女はくすくすと笑う。
手際よく料理を作る様はもう少し平凡な容姿なら甲斐甲斐しい新妻に見えたかもしれないが、この田舎の小さな家にあっては彼女の美貌は浮き立っていた。
押されて飛びつかれて結局彼女を一人暮らしの家に入れてしまったのはもう三日も前のことだ。
伯父からは苦い顔で「気をつけるんだよ」と言われたが、どうやら無茶苦茶強い(らしい)魔法士相手に何を気をつければいいのだろうと思っている。
困ったことに彼女の作る料理は非常に美味しく、それだけではなく彼の味覚にあっていた。
何だか色々なことを見透かされているようで気味が悪い。気味が悪いが、そう率直に言うのも憚られるので黙っているのが現状である。
「あ、年上に見えるのが不味いんですか? 外見年齢変えましょうか。貴方と同じくらいに」
「何それ! 怖いから!」
「怖いですか? じゃあ何が駄目なんでしょう」
湯気の立つ皿が食卓に並べられていく。見たことも食べたこともないはずの料理は、けれどどこか懐かしい味がするのだ。
「もっと別の男を捜せばいいのに。あんたなら貴族の男だって捕まえられるよ」
「私にとって貴方以外は男じゃありません」
何を言って諦めさせようとしても、彼女は全てきっぱりと否定する。
その根源にあるものが何か分からなくて、ラジュはいつも落ち着かなさを飲み込まざるを得なかった。

ああ、猫に似ているのか、と思ったのは早い夕食に彼女の手料理を食べて、寝室に着替えを取りに行った時の事である。
名前を呼ぶ声に適当に返事をしていたら、彼女は部屋に追いかけてきたのだ。
飛びついてくるのを制止しようとしたが間に合わなかった。ティナは寝台に腰掛けていた彼の膝の上に飛び乗ると幸せそうに目を閉じる。
その様はまるで拾った猫がべったりと懐いてしまったかのようだ。猫ならばここで喉を鳴らしているに違いない。
そう思うと、まぁいいや、と思う気持ちと疲労感が混濁となって―――― 彼は深々と溜息をついた。
「ラジュ?」
「いやー……何でもない…………」
「諦めて結婚する気になってくれました?」
「全然。ってか、そっちが諦めて」
「嫌です。絶対」
これは何の呪いだろう。前世で何か悪いことでもしてしまったのだろうか。
ラジュは抱えたくなる頭を落として項垂れた。ティナの小さな頭がそれを受け止める。
「……あのさ、何の為にこんなことしてるの?」
「何の為にって。そのまんまですよ」
「本気じゃないだろ? こんなガキ相手に」
「本気ですよ?」
闇色の瞳が至近から彼を見上げた。覗き込めば堕ちていきそうな深遠。
柔らかな躰も、甘い香も、全てが毒のようだ。触れれば囚われる。のめり込んで戻れなくなる。
その魅力が本能をくすぐればくすぐる程、彼はまた恐怖をも覚えるのだ。
きっと、これは悪い夢だ。そう思わなければならない程、彼女は彼を強く惹く。
誘いに乗って堕ちてしまえば、その時夢は覚めてしまうのだ。
「……本気には思えないよ。遊ばれるのは迷惑だ。たとえばここで俺があんたを抱きたいって言ったら困るだろ?」
彼女は、遊びで男と寝る人間には見えない。
どこで区別がつくのかと言われてもよく分からないが、時折村の男たちが話題にする「そういう女性」とはやはり違うような気がするのだ。
だからそう言えば引き下がると思った。引き下がって欲しかった。
―――― しかし彼女は、きょとんとした顔をすると逆に聞き返してくる。
「あれ、私前に言いませんでしたっけ。体も貴方のものですって」
「………………まじかよ」
これは手に負えない。勝てない。引いてくれそうにない。
どうしたらいいのか真剣に悩みかけた彼は、しかし次の瞬間寝台に押し倒されて唖然とした。
「ひょっとして手をつければ結婚してくれます? ならそうしましょうか」
何てことのないように言ってくる。細い腕は彼の両肩を押さえつけているが、どこにそんな力があるのかというくらいびくともしなかった。
ラジュはさすがに蒼ざめる。絶対不味い。不味いと思うのだが、彼を組み敷いている女は嫣然とした微笑を浮かべているだけだ。
美しいとしか言いようのない顔が近づいてくる。柔らかい唇が首筋に押し付けられると、それだけで理性が砕けそうになった。
ここで堕ちたら楽になるかな、と少しだけ思う。水は低いところに流れていくものだ。
だから、堕ちてしまうのは当たり前と言えば当たり前のことなのかもしれない。
だが…………彼は結局精神力を振り絞ると口を開いた。
「ま、待って欲しいんだけど」
「え? 駄目ですか?」
そりゃ駄目だろ……と呟いたが声にはならない。ラジュががっくりと頷くと、ようやくティナは彼の上からどいてくれたのだった。

後に直線すぎると苦情を言われることとなる彼の魔女。
何を言っても何をやっても絶対諦めてくれない彼女に彼が屈するのは、ほんの少しだけ先のお話である。