双頭の蛇 03

mudan tensai genkin desu -yuki

彼女の存在は小さな山村ではもうどうしようもないくらいに目立っていた。
余所者がいることも珍しい村の中で、彼女のことはあっという間に広まってしまったのである。―――― すなわち、ラジュの内縁の妻として。
「本当にいい奥さんを迎えたねぇ」
「ありがとうございます。また調子が悪くなったら声をかけてくださいね」
「…………奥さんじゃないんだけど」
少年の呟きは黙殺される。ティナは、腰痛で寝ていた老人の脇から立ち上がると彼を振り返った。
「もう奥さんでいいじゃないですか。事実上は似たようなものなんですから」
「人聞き悪いことを言うな! そんな事実は一切ない!」
「記憶にないだけかもしれませんよ?」
「記憶にも事実にもないから!」
ティナはくすくすと笑っており一向に堪えたように見えない。
老人は「年上の奥さんはしっかりしてるから、あんたみたいな若いのには丁度いいよ」とまったく関係ないことを言って彼の悶絶を煽った。
ラジュはどちらにも話が通じないと思い知ると踵を返す。
「…………帰る」
「はーい」
軽い返事と共に背中に女が飛びついてくる。最早慣れきったそれに彼は拘泥することをせずに、のしかかってくる女を引き摺ったまま帰路についた。

「何と言うか……たった二ヶ月で俺の人生が激しく左右されたんだけど。何で愛人を迎えたことになってるの」
「私が毎日出入りしているからではないでしょうか」
「分かってるなら改善して」
「嫌です」
代わり映えのない会話が食卓の上を滑っていく。ラジュは甘く煮たジャガイモを取りながら、料理の作成者である女を見やった。
何だか彼女のせいで周囲からは好奇と羨望の視線を一身に受ける羽目になっているのだが、その本人はまったく悪びれようとはしない。
伯父には事情を説明してあるが、逆に溜息混じりと共に「真剣に考えて見たらどうだ? その方が手っ取り早いだろう」と言われる始末だ。
それはおそらく、一月程前に村に立ち寄った柄の悪い男たちが、酔って暴れて通りがかった彼女に絡んだ挙句、一撃でのされたことと無関係ではないだろう。
「大体、私今まで求婚なんてしたことありませんし、その為当然ながら断られたこともないんですけど。
 一体何がいけないんでしょう。改善しますから言ってみてください」
「怪しいところ」
「怪しいですか?」
「かなり。滅茶苦茶。どうしようもなく」
「あなたのそういうきっぱりしたところ好きですよ」
「ぐあああああ!!」
何を言っても泥沼な気がする。ラジュは会話を諦めて食事に集中することにした。
ふてくされ気味の少年にティナはふっと微笑む。それはいつもの笑顔とは違う、少し翳りを帯びた微笑だ。
夜の月のような静謐に気を取られて、彼はつい口を開く。
「どうしたの」
「いえ……。こうして逆にならないと見えないこともあるのだと思いまして。
 ―――― 愛していますよ。ずっと」
真っ直ぐに染みとおる言葉にラジュは何も言えなくなる。
それきり彼女は何も言わぬまま食事を済ますと片付けの為に席を立ったのだった。

どこに不満があるのかと聞かれたら、得体が知れないということ以外不満が見つからないことが怖いのだと思う。
まるで誰かに自分の内心を見透かされて、理想通りの女を籠絡の為に作られたかのようだ。
長い艶やかな黒髪も闇色の瞳も引きずり込まれるような魅力に満ちている。
今はその本当の蠱惑を知らないからこそ退けられているが、一度味を知ってしまえば戻れないほどに溺れてしまうのではないかとさえ思えるのだ。

唇が触れ合う。
頭の奥が痺れるような感覚を覚える。
熱が体の芯に生まれ、そのままゆっくりと広がっていく。
肉体の主導権を譲り渡すように囁くその誘惑を退けて、ラジュは顔を離した。
至近に見える女が瞼を上げ、下から濡れた闇色の瞳が覗く。
「―――― 不意打ち禁止」
「聞いたら許してくれないでしょう?」
「当たり前」
ラジュは膝の上に乗っている女を下ろそうとしたが、彼女はどく気がないらしい。
両手で彼の肩にしがみついて子供のようにいやいやをする。
「もう夜だから! 帰って!」
「一緒に寝てくださいよ。愛人なのに」
「そんな事実はない!!」
このまま頑張れば聖職者になれるのではないかというくらい、彼は忍耐を発揮しているのだ。
にもかかわず既成事実があるように思われているこの状況、報われないにも程がある。
せめて少しでもこの努力を買って欲しいと思うのだが、目の前にいる女が一番その努力を突き崩したいと思っている相手である以上どうにもならなかった。
「帰・り・な・さ・い」
「嫌です」
「本気で怒るよ?」
きつい口調でそう言うと彼女は置き去りにされた幼児のような顔になった。思わずラジュは罪悪感に襲われかけるが、何とか表情には出さずに耐える。
「……一人で寝ると嫌な夢を見るんです。一緒にいてくださいよ」
「嫌な夢?」
「ずっと一人の夢」
それが何を指しているのかは分からない。けれどティナの表情から、彼女が本当にその夢を嫌がっていることは伝わってきた。
伏せられた長い睫毛の下の瞳は何の光も反射しない。垣間見える彼女の不安定さに返す言葉が見つからず、ラジュは小さく呻く。
ティナはそれに気づいて顔をあげると「ごめんなさい」と言って笑った。
綺麗な微笑は泣いているようにも見える笑顔だ。
「よく見るの? その夢」
「どちらが現実か分からなくなるくらいには」
「苦しい?」
「分かりません。もう何十年も見ていますから」
本当なら、ここは彼女の言葉に若く見える女の真実を読み取って、愕然とするところだったのかもしれない。
だがこの時のラジュはただ理由の分からぬ苦しさに胸が痛んだだけだった。無意識に膝の上の女の頭を撫でる。
「ちゃんとこっちが現実だから。安心して」
「そう……なんですよね。ままならないところに現実味を感じます」
「うん。かなり困ってる」
「私と結婚してみませんか? 絶対損はさせませんよ」
「余計怪しくなったから!」
いつも通りに誘いを跳ね除けると、彼女はいつも通りに笑う。その笑顔に安心してラジュは苦笑する。
一体いつまで彼女は諦めないのだろう。何年経ってもこうなのだろうか。
もし、数年後彼が大人になった時、それでも彼女がまだ彼がいいというのなら、二人は結婚するのかもしれない。
別にそれも悪くないな、と思う。そう思うくらいには彼女に惹かれて仕方ない。
「何もしないんだったら泊まってっていいよ」
「本当ですか?」
「何もしないんだったら!」
「普通それ、男性が言うことじゃないと思うんですけど……」
ティナはふてくされたように言うと膝の上でゆっくりと体の形を変え始める。
そうして十秒後、黒い子猫となった女をラジュは唖然として見つめると「あ、あやしすぎる……」と呟いたのだった。