双頭の蛇 05

mudan tensai genkin desu -yuki

高い城壁に囲まれた城砦は、建物も城壁と同じく真四角で作られている。その中心部分には四角い空間が空いており、むき出しの地面に広い訓練場が据えられていた。
砦に詰める兵士たちは訓練場に出て剣の修行をすることもあれば、持ち場について周囲を警戒していることもあり、その分担は一月ごとに細かく決められて いるのだが、自由な時間が存在しないわけではない。
雲一つない天気のよいある日。ラジュは自身の自由時間を剣の訓練にあてていた。
強い日差しが照りつける中、年上ばかりの同僚たちを相手に模擬試合を重ねていく。
部隊長である二十二歳のデファスは、少年の鋭い剣をかろうじて捌きながら隙を見て試合を中断させると感嘆の息をついた。
「お前、本当勘がいいな……。すぐ抜かれそうでこわいよ」
「いえ。まだまだですから」
「次は武官の試験受けろよ。最年少で受かるかも」
手放しの賛辞にラジュは礼儀正しく頭を下げる。
試合をすると分かるのだが、どうも自分が思っているより自分の間合いが狭い。手足が足りないという感覚を頻繁に味わうのだ。
その分小回りを生かせばいいのだが、相手も手練れの人間が揃っている。たゆまぬ訓練をしなければ上は目指せないだろう。
剣を鞘に戻し一旦下がった少年は、ふと視線を感じて顔を上げる。
訓練場に面した砦の高い石壁、その四階部分の窓からいつの間にか一人の女がじっと彼を見下ろしていた。
闇色の瞳、花のような微笑は彼にしか向けられていない。ラジュと目が合うと彼女は嬉しそうに破顔する。一方彼の方は表情に困って難しい顔になってしまった。
ラジュの視線で気づいたのか、周囲にいた何人かの兵士も彼女を見上げる。
「お、ティナ嬢か」
「相変わらず眼福ものの美人だな。モーラウの愛人にしとくのは惜しい」
「オレの恋人になってくれないかな」
「無理だろ」
男たちの無責任な感想が重なる中、ティナは後ろから誰かに話しかけられたらしく、振り返ると窓の向こうに消えた。
ラジュは誰の姿もなくなった窓枠を眉を顰めて見やる。
目的の為には手段を選ばない女。その目的が彼であることを知る者は当事者を除いて誰もいない。
砦を破壊することさえ容易いと言い切った女は大きすぎる力を華やかな衣の下に隠して、ただ彼だけを追ってここに来ているのだ。

「ラジュ」
彼の名を呼ぶ彼女の声は甘い。
普段は淡くにしか嗅ぎ取れない花の香がむせ返るように強く感じられる。
細い腕の白さは話に聞く雪と同じくらい清冽だ。しかし滑らかな肌の下には確かな熱が息づいていた。
少年は目の前にある黒い瞳をねめつける。彼女はその瞳を閉じると彼の頬に口付けた。
「近いよ」
「そうですか?」
ラジュの首に両腕を回して抱きついている女は、顔を離すと首を傾げた。頭半分ほどある身長差は、彼女が宙に浮いていることで今は存在しない。
ティナは柔らかい肢体をべったりと少年に預けながら嫣然と微笑んだ。
「近くないですよ。私からすると」
「充分近い。いいから離れて」
肩を掴んで引き剥がそうとすると、ティナはますますしがみついてくる。ラジュはそのまましゃがみこみたい衝動に駆られた。
こうしているのも別段変わった出来事ではない。むしろいつものことだ。
訓練から上がって砦内を一人歩いていたラジュは、待ち構えていたのであろう彼女に捕まって物陰に引きずり込まれたのだ。
そのまま抱きつかれて普段通りの精神的圧力をかけられている真っ最中である。
この手の悪戯はもはや日常茶飯事であるが、幸いなことにいまだに誰にも見つかっていない。
女は機嫌がよいのを隠そうともしないで、巻きつかせた両腕に更に力を込めた。
「お邪魔なら背中にしましょうか? 私を引き摺って行けばいいですよ」
「今日中にクビになるから」
「そんなこともないと思うのですが。残念です」
女の紅い唇が彼の唇を優しく食む。
甘い香と感触。頭の芯まで痺れる感覚をラジュが奥歯を噛んでやり過ごした時、彼女は既にその場から消え去っていたのだった。

ラジュが寝泊りしているのは一般兵士が使う四人部屋である。
無駄な場所はない為だだっ広いという程大きな部屋ではないが、四人で生活していく分にはまったく問題がない。
中には一人部屋になりたいとぼやく兵士もいるが、彼はむしろ部屋に一人でないことがありがたかった。
村で一人暮らしをしていた頃にはティナが昼夜を問わずべったりとくっつきたがって大変だったのだ。その点今は少なくとも夜は進んで猫になってくれる。
夜しか来ない黒猫を触りたがる同僚もいたが、ティナはするするとその手をかいくぐってラジュの枕元で丸くなることを日課にしていた。
だが、その夜は違った。
同室の兵士のうち二人が、夕食が終わってすぐラジュを捕まえると人の悪い笑顔を見せて外へと誘ったのだ。
「外?」
「そそ。近くの街に行こう。明日休みだろ」
「なら明日行けばいいんじゃ」
「馬鹿かお前。色街に昼間行っても仕方ない」
「そりゃそうか。……って色街!?」
大きな声をあげかけたラジュの口を一人の男が手で塞いだ。もう一人が少年の腕を取ると強引に引っ張り始める。
「他にも行くって奴多いから一緒に行こうぜ。なんならお前の分は金出してやるから」
「要らな……ぐ」
「そう遠慮するな。お前女知らないだろ? いいところ紹介してやるから」
口と腕を拘束する仲間から逃れようと暴れる少年に、騒ぎを嗅ぎ取ってか近くにいた人間たちも二、三人、近寄ってきて加勢し始めた。
どちらに加勢するのかと言えば、ラジュを引き摺って行こうとする側に。
同室の兵士を含め十五歳をとうに過ぎている彼らは、単に砦の兵士の中でも最年少に位置する少年が、平然とした顔で何でも優秀にこなしてしまうのがつま らないのだ。
年相応に狼狽する姿が見たい、そんなどうしようもない理由で彼らは半ばラジュを抱え上げると、近隣の街へと向う馬車の中に押し込んだ。
「ちょっと待って! 俺が死ぬ! 砦が壊れるから!」
切実な本音である少年の叫びを、男たちは冗談だとしか受け取らない。
そのまま馬車の中で縄でぐるぐるに縛られた彼と同僚たちは砦を後にし―――― 夜になって部屋を訪れた黒猫は誰もいないことに首を傾げた。

「あれ、置いてかれたのか?」
夜になって一旦部屋に戻ってきたデファスは、ラジュの寝台の上に座っている猫を見て苦笑する。
部隊長でありながら「四人部屋の方が楽しいから」と言って、部下たちと寝食を共にしている男は当然ながらこの黒猫が誰の猫かを知っているのだ。
デファスは大人しい子猫の頭をぐりぐりと撫でながら笑った。
「お前のご主人は悪い大人に引き摺られて街に出てったぞ。娼館にでも行ったんじゃないか」
相手が本物の猫だと信じきっている彼はあっさり事実を口にすると、「俺も今日は外泊」と言って部屋を後にする。
そして部屋には、気分次第で砦を破壊できる女だけが取り残されたのだった。



月が煌々と光る深夜。
一人部屋に戻ってきたラジュは、自分の寝台の上に女が座っているのを見て反射的に死を覚悟した。
猫ではなく人の姿を取っているティナは、少年の姿を見出すと艶やかに微笑む。
「おかえりなさい」
「た、ただいま」
―――― まだばれていないかもしれない。
ラジュがそう期待しかけた瞬間、だが女は「娼館に行ってきたんですか?」と尋ねて来た。まるで死刑宣告のような問いに少年は硬直する。
「何で、知ってるの」
「部隊長さんが教えてくれました」
何てことをしてくれるんだ、砦壊れたら半分はデファスのせいだ、などと頭の中で瞬間現実逃避をしてしまうとラジュは腹を括った。
彼女が座っている真向かいに自分も椅子を引いて座る。
「話し合おう」
「はい」
「行ってない。逃げてきた」
「そうですか。お疲れ様です」
あっさりとした返事。話し合いどころか五秒で終わってしまった。
いささか拍子抜けして彼はティナを見つめる。
「信じてない?」
「え? 嘘なんですか」
「いや、嘘じゃないけど。もっと怒られるかと思った」
「怒りませんよ」
彼女の言葉は嫌味でも何でもないらしい。きょとんとした態度に気を挫かれてラジュは肩で息をついた。
どうも彼女の反応はいまいち予想できないのだ。異常なほどの執着を示すかと思えば、今のように彼に無関心なのではないかと思うことさえある。
仲間たちの手をかいくぐり、苦労して戻ってきたラジュは、彼女の淡白さに安堵を通り越して憮然としてしまった。溜息を大きく吐き出す。
「そう納得してくれるなら、普段もべったりしてこないで欲しいんだけど」
「やです。それはそれ、これはこれ」
「どう違うの」
「だって私が焼餅焼いたら、人が死ぬじゃないですか」
当然のように言う女に彼は絶句した。
確かに彼も不味いと思ったのだ。彼女が怒ったなら何をしでかすのか分からないと。
「まず相手は死にますし、余波で建物とか壊れて他の人とか死ぬかもしれないでしょう? 下手したら貴方も巻き添えですよね。
 でもそういうのって嫌ですから。嫉妬って感情は知ってますし記憶にもありますけど、今の私にはないんですよ」
ティナは口を手で覆うと小さく欠伸をした。無理もない。普段はもう寝ている時間だ。彼女は眠気に重くなる目で少年を見上げる。
「だから怒りません。ただ……淋しいだけです」
触ってもいいですか? と彼女は続けた。ラジュは幾許かの罪悪感に駆られ頷く。
―――― もし彼が帰ってこなかったら、彼女はここで彼を待ち続けていたのだろうか。
見かけよりずっと永い時を生きてきたという彼女に孤独を味わわせるのは、激怒されるよりよほど身に染みる。
ラジュはようやくそのことに気づいて、膝の上に座る女の頭を撫でた。
「ごめん」
「どうして? 帰ってきてくれたじゃないですか」
「まぁ。色々」
彼女は怒っているに違いないと思ったことも今は悪いとさえ思える。ラジュは懐から紙包みを取り出すと、それを彼女に手渡した。
「これ、お土産」
「え」
中に入っているのは銀細工の首飾りである。仲間を撒いて逃げ回っている最中、露店で見つけてティナに似合いそうだと思ったのだ。
機嫌を取ろうと思ったわけではないが、何となく贈りたくなって買った。
ティナは手の中に首飾りを広げて驚いている。その彼女に「安物だけど」と言おうとして、だが彼はその言葉を一瞬で忘れてしまった。
目に入ったのは女の嬉しそうな笑顔。ティナは稀有な美貌に蕩けそうなあどけない笑みを浮かべて彼を見上げていた。
「頂いていいんですか?」
「あ、うん」
「嬉しいです。ありがとうございます」
女の首は細く、すぐに折れてしまいそうに思える。
ラジュは息を飲みながら自分の手で首飾りをつけてやった。普段は見ない白いうなじが妙に艶かしくて落ち着かない。
ティナが振り返ると漂う花の香は強くなる。もっともそれは彼だけが感じる錯覚なのかもしれなかった。
「大好きです」
少女のように愛を囁いて、彼女は口付けを贈る。
駆け引きのない鮮烈さは色街の空気よりもずっと、彼にとって扇情的なものだった。

「ね、猫に」
「はい?」
「猫になって! 今すぐ!」
切羽詰った少年の言葉にティナは怪訝そうな顔をしながらも自分の姿をいつもの子猫に変えた。
首にしたままの首飾りも縮んでいるが、そのことを気にするよりもとりあえずの窮地を脱したことに彼は安堵する。
結局彼女は直線的で突っ込んでくることしかしなくて、自分の行動が彼にどう影響を与えるかを考えもしないのだ。
結果、いつも少年は自分自身と戦わざるを得ない。彼は何度か深呼吸して失われかけた理性を呼び戻そうとする。
「他に誰もいなくても、この部屋は猫で!」
「はい」
「よし、じゃあ寝る」
「おやすみなさい」
黒猫は小さく纏まって枕元で丸くなった。艶やかな毛をラジュは手を伸ばして二、三度撫でる。
自分が彼女に吊り合っていると思えない現在は、これが精一杯だ。
それでももっと近くがいいと思う日が来たら、彼は猫ではない彼女と共に眠るのかもしれない。
少年は自分だけの猫を腕の中に抱き寄せて目を閉じる。
小さくふかふかの体は温かく、花よりも太陽の匂いがしたのだった。