双頭の蛇 08

mudan tensai genkin desu -yuki

彼は夢の中から意識を起こした。いつも通りの朝。気分は悪くない。
広い寝台の隣に手を伸ばすと、まだよく眠っている女を腕の中に抱き寄せる。
細く温かな躰。滑らかな背中に手を滑らすと、くすぐったいのか彼女は震えて縮こまった。その耳に彼は囁く。
「起きろ。朝だぞ」
返事はない。ただ声は眠りの中にまで届いたのか彼女は顔を顰めた。これが猫であったら耳を伏せていただろう。
彼は溜息をつくと背中に触れていた手をもっと下げて、彼女の太腿をつねる。
「起きろ。今日はお前も仕事が入ってる」
「いたたたっ」
小さく悲鳴を上げて彼女は目を開けた。眠気と非難が混じりあった目で彼を見つめる。
「何するんですか……。―――― 」
そこで彼は目を覚ました。

「うわっ」
飛び起きたラジュの第一声はそんなものだった。彼は自らの頭を抱えて呼吸を整える。
枕元では黒猫がしっぽを軽く上げたが、彼女は目を覚まさなかった。その姿を少年は形容し難い目で眺める。
「どういう夢見てんの、俺……」
妙に現実感のある夢だった。腕の中にまだはっきりと、知らないはずの彼女の躰の感触が残っている気がする。
寝起きのせいか、何だか色んな意味で自分が情けなく思えてラジュは肩を落とした。
「…………あー……風呂入ってこよう」
まだ同室の人間は誰も起きていない。彼は一瞬、よく眠っている猫も湯船に放り込んでやろうかという意地悪な気持ちになりかけたが、八つ当たりをすることの虚しさを自覚すると一人浴室へと向ったのだった。



モーラウと昼食を共にしていたティナーシャは、その知らせを聞いて軽く眉を上げた。
昼から酒瓶を開けようとしている男を魔法で拘束しながら聞き返す。
「配属変えですか?」
「そうなんですよ。いやー突然で困りますね。明日は我が身です。僕が別の場所に配属になったらついてきてくれますか?」
「綺麗に記憶消しといてあげますから、心置きなく一人で行きなさい」
「そんな殺生な! これから僕は何を糧に生きていけばいいのです」
「知るか」
彼女は言いながら酒瓶を取り上げてどこかに消してしまった。脱線しかけた話題を元に戻す。
「それで、ここに新しく配属された将軍があなたの知り合いなんですか?」
「知り合いと言えば知り合いですね。家柄が同じくらいで同世代なので、よく比較されていましたよ。
 やつと比べて僕は無能だとか……ひどい中傷です」
「事実じゃないですか」
聞けば、異例なこの時期に城都から直接異動してきたその将軍はかなりの切れ者で、王族からも目をかけられているそうなのだ。
そんな人間を国境近くの城砦に配備するとは何か情勢に変化があったのだろうか。政情にまで意識をかけていなかった彼女は思案顔である。
「うーん。大体、将軍で切れ者って言っても色々いますからね……。最近は戦争もありませんし。
 暗黒時代にはそれこそ天才、鬼才としか言いようのない人材が何人も現れましたけど、
 彼らだって乱世だからこそ頭角を現したんであって、平時にはその才覚が明らかにならなかったと思うと皮肉なものを感じます」
「ミラードは単なる性悪です。性悪」
「…………貴方の言うことってあてになりませんから」
ティナーシャはお茶のカップを片手に目を閉じる。
この国の政治に関わるつもりはさらさらない。
だからもし、自分たちの身に何かが降りかかるのだとしたらその時対処をするだけだ。
もっともその「自分たち」とは、目の前の男を含んだものではなかったのだが。
ティナーシャは目を細めてどうしようもない笑顔の男を見やると、軽く溜息をついた。

剣戟の音が訓練場に響いている。
よく晴れた陽気はだが、暑すぎるということもなく外で過ごすには快適なものだった。
兵士たちがそれぞれの訓練に精を出す中、ラジュは稽古の相手であるデファスに向って一歩を踏み込んでいた。
予想の速度を上回ったのか目を瞠るデファスへと、少年は剣を打ち込む。それをかろうじて受けた男は「おっと」と言いながらニ、三歩よろめいた。
追撃をかけようとしたラジュをデファスは空いた手で留める。
「待った待った。降参」
「……手、抜いてませんか」
「抜いてないって。俺じゃもう無理だ」
笑いながらそう答える彼にラジュは一瞬疑わしげな顔をしたが、相手が上官である手前頭を下げた。デファスは自分の剣をしまうと肩をすくめる。
「本当に抜かれちまったな。もっと上の人間に相手してもらうといいぞ。今度来た将軍はかなりの技量だっていうし」
「お会いしたことありませんよ」
「貴族階級だからなぁ。俺も話に聞いただけ」
デファスはそのまま「休憩するわ」と言って訓練場を去っていった。ラジュは振り返ると、試合を眺めていた同室の兵士に声をかける。
「じゃ、ガート、やる?」
「やだ。お前とやると凹む」
彼より四歳年上の男は全力で首を横に振る。すげない拒否に少年は肩で息をつくと剣を持ち直したのだった。

「それで私ですか」
女の声は呆れよりも嬉しさが勝っていることが分かるものだった。ラジュは頷いて双剣の女を見やる。
さすがに最年少で武官でもない自分が何の面識もない将軍に稽古の相手を頼むことは難しい。
だが、彼の知り合いは皆、最近は「無理」と言って相手をしてくれないのだ。
結果としてそれなりの腕を持っていて彼と剣を交えることを嫌がらない人間は彼女だけになった。ティナーシャは周囲に誰もいない昼過ぎの草原を見回す。
「貴方の相手を出来る人間はそのうち誰もいなくなりますよ。ましてや辺境の城砦でなんて尚更です」
「と言われてもな。城都にでも行った方がいいの?」
「それより私と旅に出ませんか? 実戦で得られるものは倍の時間稽古をして得るものよりずっと多いですよ」
「駄目」
「うー」
唸り声と同時に彼女は草原を蹴った。右手の短剣を軽く振るってくる。ラジュがそれを長剣で受けると彼女は左手の短剣を至近から投擲してきた。
少年はぎりぎりで体をそらして短剣を避ける。が、数秒後、後頭部に衝撃を受けて彼は「ぐ」と声を上げた。
見るとティナーシャが目の前で楽しそうに笑っている。
「攻撃魔法禁止って言ったのに」
「使ってませんよ。そういう魔法剣なんです。勝手に手元に戻ってくるっていう……」
「先に言ってよ」
「だから実戦の方が身になるって言ってるじゃないですか」
ラジュは苦い顔で柄が頭に激突した短剣を拾い上げた。ズキズキと痛む頭を押さえる。
小憎たらしいとは思うが、彼女の言うことの方が正しいとは分かるのだ。
稽古を積むのは実戦の時の為だが、いざその時に不測の事態に出くわしたからといって「稽古と違ったから」などと文句は言えない。
「魔法を使わない」という条件が既に彼女の力の大半を削いでいる以上、剣の動きくらいは自力で対処してしかるべきだろう。
ラジュは短剣を彼女に返すと、再び距離を取った。
「もう一回お願い」
「いいですよ。勝ったら結婚してくれますか?」
「しない」
「ずるい……」
恨みがましい言葉とは別に、何がおかしいのか彼女は腹を抱えて笑っている。
ラジュはどこからかこみ上げてくる憮然とした気分に剣を構えると、今度は自分の方から踏み込んだ。

休憩を何度か取りながら一時間ほど手合わせをすると、ラジュは草原に転がっているティナーシャの隣に腰掛けた。
どうも彼女は体力があまりないらしく、すぐに息を切らせてしまう。少し無理をさせたかと彼は目を閉じている彼女の額に手をあてた。
「その剣ってさ、いつどこで誰に習ったの?」
「いつかは言いたくないですね!」
「…………まぁいいけど」
百歳を越えていることはばれているのだから、今更何を隠すことがあるのかとラジュは思ったが、暗黒時代などと言われたらさすがに引いてしまうのでそれ以上は突き詰めないことにした。ティナーシャは残りの質問について返答する。
「あとは、タァイーリで当時将軍だった人に習ったんですよ」
「……その国ってもう滅んでるよね」
「ああああああ、しまった!」
ラジュは頭の中で大陸年表を大雑把に思い出す。かつて大国であったその国は確か百年ほど前に現在の大国メディアルに破れて滅亡したはずなのだ。
これで最低でも百年以上前に彼女は剣を習っていたことが明らかになってしまった。
ティナーシャは己の失態に「みぎゃー」などと叫びながら草の上をころころ転がっている。
その様子を見ていると更に突っ込んで苛めてみたい気もしないではないが、とりあえず今聞きたいのは別のことだ。
ラジュは転がってきた女の頭を軽く叩くと回転を止めた。
「タァイーリってそういう剣技が主流だったの? ちょっと変わってるけど」
「違います。私は元流れ者の暗殺者に教わったんですよ。本当は後継者一人にしか教えないらしいんですけど。
 その人は出会った時は既に足洗ってましたし、子供に教えるつもりはないっていうか結婚できなそうな人でしたからね。代わりに私が習ったんです」
「暗殺技能なのか!」
「です。と言っても、私はそこまで腕が及びませんでしたけど」
確かに彼女の双剣は防御よりも攻撃を重視する傾向がある。速度を極めて死角から急所への一撃を主眼とするような。
しかし今まで、てっきりそういう流派があるのかと思っていたのだ。まさか普通表に出ることはない暗殺技能の一種だとは疑ってもみなかった。
ラジュは立膝に頬杖をつきながら考え始める。
確かに違和感を抱いてはいる。だがそれは、まるで夢の中のことのように曖昧で形にならない。上手く思い出せない。
一体これは何なのだろう。少年はまとまらない思考を抱えたまま、ふと隣で仰向けになっている女を見下ろした。
「ラジュ」
彼女は目が合うと同時に微笑んで両手を伸ばしてくる。無防備で柔らかい笑顔。―――― その微笑に今朝しがた見た夢が甦った。
「うわっ!」
ラジュは反射的に飛び退く。赤くなる顔を押さえて立ち上がった。
そのあんまりな反応を見てさすがにティナーシャは目を丸くする。彼女は体を起こすと猫のように首を傾げた。
「どうかしたんですか?」
「ど、どうもしない」
「でも何かおかしいですよ」
「おかしくないおかしくない。それよりもう帰るから猫になって」
「まだ昼間なのに」
彼女は不満顔ながらも姿を変えるための詠唱を始めた。だが十秒後、四つ足となったティナーシャを見てラジュは絶句する。
しなやかな体と黒く艶やかな毛皮。だが優美な姿はいつもの仔猫のものではない。もっとずっと大きい―――― 黒豹の姿に彼女はなっていた。
豹は足音をさせずに唖然としているラジュの背後へ回ると背中に飛びつく。
「無理! 乗れないから! 何で豹なの!」
「だってちっちゃいとつまんないんですもん!」
「豹なんか連れて帰れないよ! 猫! 猫希望!」
「やーでーす! いつも猫だと思ったら大間違いです!」
「砦に帰れないって! 夕飯どうすんの!」
「もう帰らなくていいですよ。どっか別の国行きましょう」
訳の分からない平行線を辿る二人。
彼らが砦に訪れたちょっとした変化に対面するのは、この翌日のことであった。