双頭の蛇 09

mudan tensai genkin desu -yuki

待っていた連絡が届いた時、彼女の顔は引き攣りながらも笑顔になった。男からの手紙を貪り読む。
一度も会った事のない女をこれ程まで煩わしいと思ったことは今までない。
彼がもう五年も自分を顧みてくれないのも、きっとその女のせいだったのだ。
彼女は読み終わった手紙を手に立ち上がると、それを職台の火で焼き尽くす。
後に残るのはまるで彼女の心中と同じ、真っ黒に焼け焦げた散り散りの破片だけだった。

「と、言うわけで今城都では暗黙の争いが続いているようなんですよ」
「それは凄い! 大変そうですね!」
「よその国のことみたく言うな」
ティナーシャはモーラウと並んで砦の廊下を行きながら、ここ数日で調べたことを簡単に説明していた。
二人が今いるのは大国の一つメンサンの辺境城砦だが、遠く離れた城都には勿論王がいて、その息子たちがいる。
そして現在、城都では王の二人の息子が次代の玉座を巡って火花を散らしているというのだ。
息子たちはそれぞれ正室の生んだ子と側室の生んだ子で、年は同じ二十六歳。
どちらもそれなりに優秀らしいのだが、正室の子は軍務に、側室の子は内政に才が秀でているのだという。
「それならば、お二方でご協力されればよろしいのでは?」
「って思いますよね、普通。そうならないところが王位争いのどろどろしたとこなんですが。
 で、貴方が勝手に敵対視しているミラード将軍は正室の王子の方に重用されていたそうです。軍人ですからね」
「失脚すればいいのに」
「ちっちゃいこと言うな!」
軽く頭痛がしてきた気がしてティナーシャは被っているヴェール越しにこめかみを押さえる。
一応最低限でも知っておいた方がいいかと思って調査をしたのだが、何だか無用で終わってしまう気もした。
メンサンも大陸ではまだ大国と呼ばれる部類ではあるのだが、一時に比べ衰えていることは確かだ。
周囲の国が力をつけ始め、内部では力のある諸侯が台頭し……このままではあと百年持つかどうかというのが彼女の見立てである。
だが最早玉座にない彼女は国々の興亡に関わる気はない。ただ歴史の裏側を歩いていくだけだ。
この国も彼の気が変わったらすぐに出て行こうと、そう思っていた。

考え事をしながらモーラウの隣を歩いていたティナーシャ。だが、角を曲がったところで彼女は足を止めざるを得なくなった。
そこには逆側から歩いてきたらしき一人の男が立っていて、二人を含みのある目で見下ろしていたのだ。
がっしりとした体は戦う人間特有のものである。見覚えのない顔、だが身なりのよい格好と傲岸な態度ですぐにそれが噂のミラードだと彼女には分かった。
男はモーラウを見て皮肉に口を歪める。
「久しぶりだな。こんなところに来てまで女と一緒とは相変わらず腑抜けたものだ」
「僕はこの人がいないと何もできないからな」
もっと他に言いようがないのか、とヴェールの下で沈黙を保ちながらティナーシャは眉を顰めた。
彼女がいないとまだ一人で仕事ができないのは確かだが、何だか語弊がある。
相手も見事に誤解をしたらしく、嘲る色が一層濃くなった。
「相変わらずくだらぬやつだ。さっさと城都に帰った方が身の為ではないか? ラディア嬢も待っている」
「余計なお世話だ。何なら彼女はお前にくれてやる」
何ということを言うのか。部屋に戻ったら説教だ、そうティナーシャが決定した時、だが彼女にも予想できなかったことが起きた。
ミラードは無言で拳を作ると、それを無防備なモーラウに向って振るったのだ。
「え?」
男としては小柄なモーラウは真横に殴り飛ばされると、廊下に置かれていた箱に当たって倒れた。当たりどころが悪かったのか頭を押さえて呻く。
さすがにそれを見てティナーシャはモーラウに駆け寄ろうとした。しかしそれより早く手首をミラードに掴み取られる。
「あつかましい女だ。貴族同士の間に割り込むとはな」
「放してください」
「口答えをするな、妾ごときが。どのような顔をして俺に口をきく」
男は鼻を鳴らすと彼女の顔を隠すヴェールに手をかけた。そのまま薄布を引き剥がす。
稀有な美貌が露わになり、隠されていた黒い瞳が男を射抜いた。思わず絶句する男にティナーシャは冷ややかな笑みを浮かべる。
「放してください」
「…………妖女の類か。淫魔か?」
「お好きにご判断を。ですが後にしてください。あの人を診ますから」
モーラウは呻き声をあげたまま顔を上げない。どこを怪我したのか床に血が零れ始めていた。彼女はそれを見て険しい表情になる。
だが、それを為した男は女の手を放そうとしなかった。それどころか空いた手で彼女の服の襟元に手をかけ力を込める。
無詠唱で治癒の構成を組もうとしていたティナーシャは男の意図に気づくのが僅かに遅れた。
彼は彼女の肌に何か人外の特徴がないか確かめようとしているのだ。
―――― まったく腹が立つ。が、後で記憶を弄ればいいだろう。
そう判断してティナーシャは治癒の構成を優先させようとする。しかし次の瞬間、彼女は呆気に取られて思わず構成を手放しそうになった。
彼女の服を引き裂こうとした男の手、それを横から別の手が掴んで留めたのだ。
「無体が過ぎる」
吐き捨てるようにそう言って、怒気がこもる鋭い目でミラードを睨んだのは、まだ十代半ばでしかない一人の少年であった。

午前中の訓練を終えてガートと二人、廊下を歩いていたラジュが、その騒ぎに気づいたのは何かがぶつかりあう激しい物音によってだった。
兵士たちの私闘は当然ながら規則によって禁止されているが、血の気の多い者も少なくない。その為また何か小競り合いでも起きているのかと思ったのだ。
だが、角を曲がった彼らが目にしたものは殴られ這いつくばっているモーラウと、将軍に拘束されているティナーシャだった。
ただごとではない様子にガートは嫌そうな顔になる。
「やばいぜ。関わらない方がいい」
「……隊長呼んできて」
「呼んできてって、お前」
制止の言葉をラジュは待たなかった。険悪な雰囲気の二人に向って駆け出す。
相手は目上で貴族だ。介入は命取りと言ってもいい。そのことはよく分かっている。おまけに彼女が強い人間だと言うことも。
ただそれでも、彼は割って入った。入らないという選択肢ははなからなかった。
つまりは―――― 誰の女に暴力を揮おうとしているのかと。ただそれだけの理由で。

「小僧。手を放せ」
「そちらの手を放すのなら放します」
上からの恫喝に微塵も怯まず、ラジュはティナーシャの手を掴んでいる方の男の手を示した。ミラードはますます顔を歪める。
何故十歳以上も年下の、それも平民にこんなことを言われねばならないのか。
一瞬前に少年の眼光に怯んでしまったという事実も相まって男はますます怒りを募らせた。しかし二人を睨むもどちらもが動揺を見せない。
少年は相変わらず刺すような目で彼を見据えており、驚きから逃れでたらしき女の方は、視線を逸らして倒れたモーラウをじっと見つめていた。
何の言葉も身振りもない、だが女の目線にミラードは幾許かの訝しさを感じる。
「何をしている、妖女」
「何も」
「とぼけるな!」
男は掴んだままの細い手首を捻り上げようとした、だがその時少年が逆の手を伸ばす。ミラードの肘に触れようと彼は手を開いた。
何と言うことのない仕草。だがそこにミラードは本能的な危険を感じた。このまま受けては不味いと感覚が告げる。
剣の技量もかなりのものだと賞賛される将軍は、瞬時に女の手を離し後ろに飛び退いた。充分な間合いを取ってから彼は少年を見やる。
「……お前、ただの兵士か? 名を名乗れ」
「俺は―――― 」
「ミラード将軍! どうされましたか!」
いつの間にか廊下の先には騒ぎを聞きつけた人間たちが集まっている。
その中にはガートに呼ばれたらしき部隊長に加え、他の将軍の姿も見えた。彼らは倒れたままのモーラウを見てざわめく。
これがミラードとラジュだけであればラジュへの叱責は当然だっただろう。だが、咄嗟には判断しにくい状況に彼らは困惑した。
状況に不利を感じ取ったミラードは派手に舌打すると、「何でもない」と野次馬を掻き分けて姿を消す。
取り残されたラジュは、モーラウの傍に膝をついているティナーシャの隣に立った。頭を押さえて起き上がる男を覗き込む。
「血止めをしましたから、部屋に戻ったらちゃんと治します。自分で歩けますか」
「何とか。すみません、ティナさん」
モーラウはラジュの手を借りて立ち上がると、少年に向ってやはり「すみません」と謝ったのだった。

黒い毛並みは湯気のせいか少し艶めいている。彼女はそれを気にしながら壁に向って猫の頭を下げた。
「昼間はありがとうございます」
「別にいいけど。何か砦ごと吹っ飛ばされそうな気がしただけ」
「ここ一年くらいの記憶ごと吹っ飛ばしてやろうと思っただけなので大丈夫です」
「精神攻撃か!」
ある意味砦を壊すより悪質である。ラジュは浴槽のお湯を汲み上げながらげっそりとした表情になった。
あの場では小さな礼だけで立ち去った彼女は、夕食を終えた頃を見計らったのか、いつもより早い時間に彼のところにやって来た。
しかし話をしようにも部屋には同室の人間もおり、また昼間の騒ぎで彼には自粛が命じられていて外出はできない。
結果、妥協案として、ラジュは猫の彼女を浴室に入れると「振り返ったらお湯かける」と壁際に置いて自分は風呂に入り始めたのだ。
「あの人の怪我は平気なの?」
「平気です。額は切れてましたが、少し頭を打っただけだったんで。明日になれば元通りじゃないですか」
「何で喧嘩になったの」
「喧嘩というか……何か癇に障る発言でもしたんでしょうね。突然殴られたんです」
「貴族って短気だね」
「個人の性格という気もしますが」
むしろ彼女本人が結構短気な気質だとラジュは思っているが口には出さない。体を流しながら少年は溜息をついた。
「もっと抵抗すればいいのに。どうせ記憶操作しちゃうなら」
「貴方に迷惑をかけてしまうとは思いませんで。貴方に気づいていたならその場で将軍は吹き飛ばしてたと思います」
「それもやめて。何でそう極端なの」
「背中流しましょうか?」
「要らない」
釘を刺す意味を込めて、手元の円器からお湯を弾いて子猫の背中にぶつけると、彼女は「ひゃあ」と悲鳴を上げた。余程濡れるのが嫌らしい。
思わず上からざぱーっとお湯をかけてみたい衝動に駆られたが、それをしては相応の仕返しをされることもまた確実だろう。
ラジュは濡れてしょんぼりする子猫を想像の中だけに留めて浴槽に沈んだ。猫に背を向けて目を閉じる。
「でも、貴方あれで目をつけられちゃったんじゃないですか? 今のうちに記憶を消してこようか迷います」
「いいよ別に。他にもいっぱい人が見てたのに、ミラード将軍だけ記憶がなくなったら怪しまれるだろ」
「あー……全員操作するのは確かに大変ですね。出来なくはないですけど」
ティナーシャはそこで言葉を切った。少しの沈黙に水滴の落ちる音が重なる。
一体何を考えているのか、今日の彼女は何か考え事に気を取られているように見える。
もっとも猫の彼女からは表情など読み取れないのでそれこそ何となく、に過ぎないのだが。
「ラジュ。この国を出ませんか?」
「出ない。何で」
「さぁ……何かあったら面倒なので」
「お湯かけるよ」
「仕返ししますよ」
白い二本の腕が背後から伸びてきたのは、その直後のことだった。
ぎょっとして立ち上がろうとしたラジュの首に細い腕はゆるりと巻きつく。後頭部に彼女の小さな頭の重みがかかった。
「ちょ……っと! こら!」
お湯をかけてやろうにも人間の姿では何のお仕置きにもならない。おまけに振り返れないから引き剥がしにくいことこの上なかった。
彼に後ろから抱き付いている女は頭のすぐ後ろで小さく溜息をつく。濡れた首筋に息がかかって、ぞっと背筋があわだった。
「ラジュ。自分を守ることを最優先にしてくださいね」
「そう思うなら離れて! 猫になれ!」
「貴方に何かがあったら―――― 私は狂ってしまう」
しんと静かな呟き。
それだけを、残して。
彼女の腕は解かれた。その気配も消える。
ラジュは驚いて振り返った。
だがそこには人の姿はなく…………そして猫の彼女も、この晩ついには戻ってこなかったのだ。