双頭の蛇 10

mudan tensai genkin desu -yuki

何処からが思い切った判断なのか、彼には分からなかった。
混乱し判断力を失ったわけではない。もともと状況を見極める目がなかっただけなのだ。
彼は、自分の軍事的才能には自信を持っていたが、その他の識見には乏しいという自覚があった。
だから彼は迷い……だが決断する。
「本当によろしいので、殿下」
「……構わん。これ以上やつの好きにさせては遅かれ早かれこの国は滅びる。
 どうせ攻め込まれるのなら、今のうちに起こさせた方が対処もでき私への評価も上がる」
「ですが、城砦は……」
「ミラードがいる。あの男なら上手くやるはずだ」
苦渋を込めた決断にややあって臣下は頭を下げた。主の命令通りに動かす為に部屋を出て行く。
彼はその背を見送って深い溜息と共に椅子に沈み込んだ。
本来は謀略などとは無縁の剛毅果断な性格である彼は知らない。
彼の部屋の片隅に、盗聴用の小さな魔法陣が隠されていたことを。
そしてもう一つ、城の高い位置にある部屋の窓の外に一匹の黒い子猫が座っていたことを……彼は知らないままであったのだ。

夢の中で彼女を膝に抱くことがある。
放っておけば自分から乗ってきたがる彼女を、夢の中では彼が引き寄せ膝に乗せる。
髪を撫でて口付けて、誰よりも愛おしむ。壊れ物に触れるように大事にする。
幻の中で彼女はころころと姿を変える。
子供に、少女に、女に、そして妻に。
だがいつも変わらない。手を伸ばせばその手を取ってくれる。
少しやるせないのは、彼女を抱き上げる自分はいつも彼女より年上の姿をしているということだ。
彼女を守る力と、自信を持っている大人の姿。
今もそうであったなら、もっと素直に彼女を愛せただろうか。
その微笑は二つとない。
幸せそうに、嬉しそうに彼女は微笑む。
それは、長い年月と喪失を知る彼女だからこそ見せる、水晶のような笑顔だった。

打ち所悪く脳震盪を起こす羽目になったモーラウだが、ティナーシャの治癒もあって翌日にはすっかり元通りになっていた。
「もう平気」と保証された彼は机の上に詰まれた本の山を見てしばし沈黙する。
「……何ですかこれ」
「本以外の何に見えますか」
確かにここしばらく彼女に仕事の仕方を習っていた。だがそれは実際の書類を教科書とした目先の技術だったはずだ。
けれど今目の前に置かれているのは歴史・経済・政治についての名著の数々である。少年時代には貴族の必須として習わされ、しかし全然身につかなかったそれらの教本をモーラウはまた無言で見つめた。
「ティナさん、僕これとっても駄目駄目だったんですが」
「煩い。時間がないから叩き込みますよ。私が教えるんですから一流の文官になりなさい」
有無を言わせない迫力に男は黙らざるを得なかった。これ以上の口答えをしたら楽しいでは済まない目に遭いそうである。
こうして彼は、かつてファルサスの次期王に為されたのと同じ統治の基礎についての教育を、苛烈なまでに押し込まれることになったのだ。

彼女の姿を見なくなった。
それは、あのミラード将軍との揉め事の日の夜からである。
以前は毎晩猫として部屋に来ていた彼女が来ない。日中も、窓から彼の姿を見下ろすことはなくなった。
まるで砦の中から消えてしまったかのようにティナーシャは姿を見せない。
それでも時折、彼女の気配を感じるのだ。
すぐ傍にいるような、彼の後ろに立っているような。
だからラジュは不安には思わなかった。ただ少し、彼女の笑顔を見たいと思っただけだ。
ミラードとはあの後何度か目を合わせることがあった。だが、特に何かをしてくるということはない。
精々凄みを込めて睨まれるだけで、彼はそれを何とも思わなかった。

「ラジュ」
懐かしい声で名を呼ばれたのは、彼女の姿を見なくなってから一月程経った時の夜のことである。
振り返ろうとした彼は、その直前で背中に彼女が抱きついてきたことにより行動を停止させた。 肩越しに手を後ろにやって小さな頭を撫でる。
「廊下だよ。誰かに見られたらどうするの」
「そしたら記憶操作します」
「離れろ」
「やだ」
首に回された腕にますます力が込められた。少年は頭痛未満の悩みの種に溜息をつく。
人目を避けて、適当な空き部屋に入るとようやくティナーシャは腕を解いた。
「お久しぶりです。会いたかったですよ、ラジュ」
「しばしの平穏が終わったことを実感してる。今まで何してたの?」
「色々」
彼女は真面目に答える気はないらしい。彼の前に回ると今度は正面から抱きついてこようとした。
ラジュはその体を直前で押さえて、ついでに近寄れないように持ち上げる。
「みぎゃー! 何ですかこの扱い」
「くっつくなという意思を表してみる」
「けち! 減らないじゃないですか!」
「精神力を消耗するから」
猫を両手で持ち上げるように、脇の下に手を入れられて持ち上げられたティナーシャはばたばたと暴れたが、ラジュは下ろしてくれない。
仕方なく彼女は宙に浮いて少年の手から逃れた。天井付近で逆さになる。
「貴方は本当につれないですね。非常に残念です。思わず砦が惜しければ結婚しませんか、とか言いたくなります」
「それはどう贔屓目に見ても脅迫だから。言わないのが賢明だと思う」
「砦を破壊されたくなかったら結婚しませんか?」
「言うなって言った!」
頭上から降ってくる鈴を鳴らすような笑い声にラジュは額を押さえた。一月ぶりだというのにまったく変わっていない。その美貌も、執着も。
彼女を通常の神経で理解しようとする方が無理なのかもしれない。ティナーシャは壁によりかかる少年の前に下りてくると嫣然と笑った。
「ラジュ、明日は野外演習でしょう?」
「そう山中訓練。山歩きは平気だけど泊りがけだから三日」
近隣の山を登る訓練は二年に一度、砦にいる兵の三分の一ずつを引き連れて行われる。
明日はラジュのいる隊がその訓練に出る日なのだ。何故知っているのかとちらりと思ったが、彼女が知りたいと思ったならどうにでもなるだろう。
どちらかというと彼女が何を思ってその話題を口にしたのか、ラジュはそちらに嫌な予感を覚える。
ついて来ると言ったらどうしよう。ずっと猫でいてくれるならともかく、その可能性は低いとしか言いようがない。
山で育った彼は山中訓練に不安はないが、彼女がついて来るのなら一気に不安が臨界点にまで達してしまうだろう。
自然と身構える少年に、ティナーシャは稚い笑顔を見せた。
「この国を出ませんか、ラジュ」
「出ない! 明日演習だって!」
「それは残念。じゃあ私を抱きませんか?」
続けて言われた言葉に、もし何かを飲んでいたならラジュはそれをむせる程吹き出していただろう。
しかし幸いなことに何も口にしていなかったので、彼は絶句するに留まった。床より少し上に浮く女を唖然として見やる。
「……そういう冗談禁止」
「本気なのですが」
「禁止!」
「あう」
ティナーシャは軽く床を蹴って背後に跳んだ。風を孕む絹のように、音もなく硝子の嵌っていない窓枠に腰掛ける。
月光が黒い髪に輝く艶を持たせた。軽く目を伏せた、類を見ない美貌に長い睫毛が翳を落とす。
どこまでも蠱惑的な―――― 清冽で妖艶な女。
望めば手に入る。それだけで目が眩みそうな程の誘惑だった。意識が落ちてしまいそうになる程の。
誰にでも得られる女ではない。彼女が望む人間にしか与えられない。それははなから分かっていることだ。
だが彼はそれを退ける。
今、望んでいるのは彼女自身ではない。彼女の隣に立つ為の力だ。彼女を愛しみ、守る為の。
だから、まだ早い。
「ティナーシャ」
「うわっ、何ですか」
「何で驚くの」
「その名を呼ばれるのは久しぶりなので……」
確かに彼女を本名で呼ぶのはこれが初めてだ。だがそこまで驚かなくてもいいだろう。ラジュは眉を顰める。
少年は壁際から離れると窓辺に座る女の前に立った。水晶のように微笑む女を見下ろす。
「ティナーシャはここにいるの? 三日の間」
「いますよ。不出来な弟子に教えることがいっぱいありますからね」
それが誰のことを指しているのかはよく分かるが、とりあえずは瑣末事である。ラジュは頷くに留めて彼女の髪を撫でた。
「じゃあその間砦を壊さないように! あと人間も傷つけない!」
「貴方に一体どう思われてるのか、最近ちょっと分かってきた気がします」
「分かっているなら改善すれば」
「嫌です」
拳骨をくれてやりたくなったが、それは我慢した。いくら彼女が強力な魔法士でも肉弾では彼の足元にも及ばないのだ。
「貴方こそ気をつけてください。演習の指揮官ってミラードでしょう?」
「何もされないよ。平気」
「したら反撃していいですよ。全員の記憶を改竄しますから」
「何もない!」
ティナーシャはまたころころと笑う。どこまでが本気でどこまでが冗談か分からない。掴みどころがないのにも程がある。
「気をつけろよ」
何故そう繰り返したのかは分からない。彼の勘がそうさせたのだろうか。
ただそれを聞いたティナーシャは嬉しそうに微笑んだから、ラジュは彼女の額に口付けて、そうして別れた。

翌朝、砦を出立する少年を城壁の上から一人の女が手を振って見送る。
その姿を遠目に見ながらラジュは苦笑した。そして彼は後に思う。
もし『この国を出ないか』と、あの誘いに頷いていたのなら、歴史は少しだけ違ったものになったのではないかと。
彼女は他国の興亡よりも、彼の希望の方を遥かに尊んでいたのだから。