双頭の蛇 14

mudan tensai genkin desu -yuki

城の奥にある一室。そこへは部屋の主人の許可なく入ることは許されない。たとえ、この国の王であっても。
エズルは応接室を越えた寝室の扉を軽く叩く。返事が聞こえたのは扉を叩き始めてから五分ほど経った時のことだった。
「煩い」
短い言葉と共に扉が勝手に開く。彼が数歩中に踏み入ると、広い部屋の向こう、天蓋の奥からくぐもった女の声が投げかけられた。
「何の用だ?」
「ヴァセラ侯が他侯との争いの調停を依頼してきた。陳情に目を通して欲しい」
「三十分で行く」
エズルは「頼む」とだけ言って踵を返す。
本当はもっと別の言葉を交わしたい。彼女の顔を見たい。だがそれは自分には許されていないことだ。
この部屋に必要以上に居続けることでさえ彼女の不興を買う。だから彼は速やかに部屋を出て扉を閉めた。

「影の寵姫」と、そのように彼女は呼ばれているらしい。
彼女の名が知られていないことと、エズルが彼女に重きを置いて妃を娶らないからそう言われるのだろう。
だが実情はそれとは程遠い。彼は廊下を供もつけず戻りながら苦笑する。
彼女は「寵姫」ではなく「女王」だ。
彼を玉座につけ、多岐にわたる執務を見事な采配で動かしこの国を保っている統治者。
一方彼はいわば、彼女に育てられている未熟な王であって、彼女の体には触れることすら叶わない。
唯一物怖じせず彼女と接しているのは、彼と同じく彼女に教育されている一人の文官だけだ。
「なかなか……届きそうにない」
おそらく彼女はいつかいなくなるのだろう。それがいつになるのかは分からないが。
だからそれまでに一日でも早く、彼は自分と臣下を育てねばならない。
分かってはいたが国一つ動かすのは重労働だ。それでも、彼女の助力を得られただけ彼は幸運だったのだろう。
エズルは長い廊下を一人歩いていく。同じ廊下を彼女がやって来るのは、三十分と少し後のことだった。

「眠い。眠くて仕方ない」
「起きてくださいティナさん。仕事が山積みです」
「半分やれ」
「はいはい」
モーラウが書類を半分に分けると、ティナーシャは机に突っ伏したまま欠伸をした。
仕事をするのは苦痛ではないのだが、起こされるのは辛い。気を抜けばまた眠ってしまいそうだ。
それでもこの城に来たばかりの頃とは違い、最近は彼女の負荷も大分減ってきている。
城砦にいた時から教育を施しているモーラウは、着実に一流の執務処理手腕を身に着けつつあり、今では城になくてはならない人材となっていた。
一方、エズルへの教育も一応やってはみたのだが、こちらはあまり実を結んでいない。政に才がないというのは本当のことだったのだろう。
長く生きているティナーシャは今まで何人も政軍務両方に秀でた王を見てきたが、大半の王はそうではなく、 出来ない部分は臣下に任せることがほとんどだ。今、それを担わなければならないのは面倒だが、国内外の不安要素をあらかた潰してしまえば、彼女が城を離れてもあと数十年は余裕で平穏が保てるだろう。
「ティナさん、そう言えばもうすぐ城都の祝祭ですよ」
「そうですか。一日寝てようかな」
「キノコになりますよ。それより僕の文通相手が祝祭に来ることになったんで、街を案内しようと思います!」
「相手も気の毒に」
文通とは貴族の癖に随分地味な趣味を持っているな、と思ったが、こういうものは人それぞれだろう。
ティナーシャは書類に目を通しながら欠伸を飲み込む。
「城でも催しものがありますし、ティナさんもあちこち見て回られては如何ですか」
「やだ。眠い」
単に今眠いだけなのだが、彼女はやる気なく答えて仕事を進めていく。
いつの間にかこの城に来て一年が経とうとしていた。

無関係でいたいと思いつつ、祝祭の書類には彼女もいくつか目を通した。
街の警備や要人警護、他国からの招待客についての手配から始まって、城の敷地内を使って開かれる剣術の大会や魔法士の研究発表まで。
次々に書類を捲って要点を押さえてしまうと、彼女は最後の一枚、魔法研究発表と図書館資料の一部開放という項目に目を留めた。
この城においてティナーシャは自分の為以外に魔法を使うことはほとんどなく、その為彼女が魔法士であるということ自体知らない人間も多いが、 現在の宮廷魔法士がどのようなことを研究しているのかは少し気になる。暇があったら見に行ってみようとティナーシャは記憶に留めた。
署名と共に書類を処理すると、彼女は祝祭までの予定表に目を落とす。
もう一年。まるであっという間だったような、とても長かったような時間だ。
今頃、あの城砦で彼は何をしているのだろう。
それを干渉して知ろうとは思わなかったが、彼女が保っているこの国のこの時間が、少しでも彼にとって有意義であればよいな、と思った。
ティナーシャは午前中の仕事全てを片付けると、睡眠を取りなおすために部屋に戻る。
こうして眠っている時間が一年前より長くなってきているのは、代わりの人材が育っているということでもあるのだろう。
だから彼女は何を為すわけでもなく眠っていられる。
それでも三日に一度は予定外のことで起こされることが未だにあるのだが。






寝室の扉が大きく叩かれる。
この叩き方はモーラウだろう。彼女の結界が張られた応接室まで入る許可を与えているのはエズルとモーラウしかいない。
眠かったので五分無視してみたが、彼は飽きもせず扉を叩き続けている。
根負けしたのは結局ティナーシャの方で、彼女は「諦めろ!」と言いながら魔法で扉を開けた。
「ティナさん、着替えて外来て下さいよ。陛下が祝祭に顔見せして欲しいって仰ってます」
「そんな理由で起こすな! 断る!」
「じゃあ僕の文通相手に会ってください」
「余計嫌です」
「今日、祝祭の中日ですよ。ティナさん魔法士の研究発表見に行くって言ってたじゃないですか」
「あー…………」
すっかり忘れていた。そう言えばそんなことを思っていたのだ。私用で動くことなどほとんどないから忘れていた。
ティナーシャは乱れた髪をかき上げながら寝台の上に起きあがる。人前に出るならそれなりに支度を整えなければならないだろう。
「二時間で行きますよ」
「もっと早く!」
「煩い。外出てろ」
彼女はモーラウを叩きだすと寝惚けた体を引き摺って浴室へと向う。
入浴して目を覚まし、略装のドレスに着替えてヴェールを身につけた頃には既に一時間半が経過していた。
廊下に出ると、そこにまだモーラウがいたのでティナーシャは驚く。
「うわっ。待ってなくてよかったのに」
「二時間経っても来なかったら二度寝を起こそうと思ってました」
「人の言うことを信じろ!」
そんなことの為に待っていたとはよほど暇なのだろうか。彼女はモーラウと並んで城の廊下を歩き始めた。
顔を見せたくないティナーシャは人前では大抵ヴェールを被っている。
それは名前を知られていないことと相まって城の人間に興味と畏怖を抱かせていた。
長い廊下を二人は回廊に差し掛かる。そこから張り出した広い露台には、多くの人々が席を作って座っていた。中にはエズルの後ろ姿も見える。
露台の下から時々沸き起こる歓声にティナーシャは首を傾げた。
「あれ何かやってるんですか?」
「ティナさん書類読んだのに端から忘れてますね。そう言えば陛下がお呼びでしたし行きましょう」
「嫌だ」
「我侭言わないでください。もうすぐ終わりそうですからちょっとだけ」
「嫌ですって……。表出るの好きじゃないって知ってるでしょう」
「まぁまぁ。僕の文通相手を紹介しますから」
「心からどうでもいい!」
何故そんなところに出て行かなければならないのか。
だが、大声を上げたことで人々が振り返り、更には彼女に気づいたエズルにまで手招きされては行かないわけにはいかなかった。
表面上は王を立ててティナーシャはその隣に座る。そこから見える広場では、ちょうど今何かの大会が終わったばかりのようだった。
興奮の熱気が残り、まだ辺りを深く支配している。場を整える為に慌しく走り回る兵士をティナーシャはヴェール越しに見下ろした。
観客たちの視線が集まる中、広場の中央に立つ将軍が王を見上げる。エズルはそれに応えて立ち上がった。
「見事であった。優勝者には将軍位と何か望みのものを与えよう」
王の言葉に、将軍は一歩横によけると後ろに立っていた人物を振り返る。優勝者らしい彼は前に進み出ると礼をした。
その姿にティナーシャは唖然と口を開く。何故彼がこんなところにいるのか、それがまず分からなかった。
「希望を申せ。地位か? 宝石か?」
彼は堂々たる態度で王を見上げる。
そして、左手を迷いなく差し伸べた。真っ直ぐに、隣にいるティナーシャに向って。
「彼女を」

九十年は長かった。
彼と出会う前の四百年よりも、ずっとずっと。
だから、彼にもう一度出会えた時は嬉しかった。言葉では言い表せないくらい。とても。
愛されないことは悲しい。だがそれは、ささやかな欠損でしかないだろう。
彼がいる。
それだけで、この世界は鮮やかに色を変えるのだから。

「ラジュ!」
少年の望みに答えたのは王ではなかった。隣にいた女が手すりを乗り越え露台から飛び降りる。
長いドレスが走りにくいのか、もどかしげに裾を引きながら駆けてくる女をラジュは苦笑して待った。目の前に来た彼女を腕を伸ばして抱き上げる。
「ラジュ! どうして!」
「寝てるか怒ってるかしかしてないって手紙に書いてあったから。迎えに来た」
「仕事してましたよ!」
「知ってる」
少年は女のヴェールを取り去った。久しぶりに見る闇色の瞳には少し涙が滲んでいる。
その双眸を近くに見ることに今は何の抵抗もなかった。ただ胸を焼く想いだけがある。
一年の間に鍛えた腕の中で彼女は一輪の花のように稚い笑顔を見せる。白い両手が彼の頬に添えられた。
「ラジュ、私、貴方が大好きなんですよ。結婚してください」
「駄目」
「ぎゃあ」
猫のような声で悲鳴を上げる女に彼は笑う。華奢な体を抱く腕に力を込めた。
「待たせたのは俺だから俺が言うよ。―――― 俺と結婚して」



世界に二人しかいない異質は、幾度も出会いと別れを繰り返す。
そうして彼らは絶望と希望を縒り合わせて、悠久の時、精神の倦厭を乗り越えていく。



飾り気のない求婚にティナーシャは黒い目を瞠った。顔を寄せて囁く。
「私でいいんですか? 本当に?」
「ティナーシャが俺でいいのなら」
似た言葉を返すと彼女は嬉しそうに微笑んだ。小さな頭を撫でてラジュは王を見上げる。
露台に立つ男は少し残念そうな目で二人を見下ろしていた。だがすぐにその感情も表面から消えうせる。
「よかろう。もともと彼女は私の支配下にはない。好きに連れて行くがよい」
「ありがとうございます」
ラジュは抱き上げていたティナーシャを地面に下ろすと白い手を取った。彼女の温かい指がそっと握り返してくる。
このささやかな温度がどれ程二人を救うのか、彼はまだ知らない。けれど、いつかは思い出す。
ただ今は、幸せそうに笑う彼女が目の前にいるだけだ。



右に出る者がいない剣の腕を以って史上最年少十六歳で将軍位を得た少年は、数日後彼女とささやかな式を挙げた。
平和の時代にあっても浮き立つ程の能力を示す二人は、けれど半年後何の痕跡もなくこの国から姿を消す。
そしてそこから先は、歴史の影を行く話だ。人ではなく異質の物語。その全貌はどこの国の記録にも残されない。
この短いお話は彼らの幸福の、ほんの僅かな記憶の一部である。