慰めを謳う

mudan tensai genkin desu -yuki

『薬草を買出しに行ってくる』
そう言って彼女は出かけたのだ。いつも通り、いつも通りの笑顔で。

「街に? 一人で大丈夫か?」
「平気ですよ。子供じゃあるまいし。それに貴方薬草になんて興味ないでしょう?」
「荷物持ちくらい出来る」
彼が返すとティナーシャは嬉しそうに笑った。何十年経っても変わらない澄んだ双眸を見せて。
だが彼女は「そんなに荷物ないですよ」と言って屋敷を出て行ったのだ。
―――― そしてそれきり、夜になっても帰ってこなかった。



精神が倦んでしまうことを彼女は何よりも恐れていた。
終わりがない旅路であるがゆえに、永遠に限りなく近い時間を前にして。
かつて一人で永い時を越えてきた彼女は、時の長さそれ自体が人の精神にかける圧力を知っていたのだろう。
いつか彼が自分を捨ててしまうのではないかと、口には出さなかったが怖がっていたように見える。
けれど、それは単なる杞憂だ。他ならぬ彼だけがそのことを知っている。彼女と共に在るからこそ、この無限に耐えられるのだと。
精神を保つのは決して時折彼らを襲う別離ではなく、緩やかに積み重ねていく時そのものなのだ。
共にいる時がどれ程大事であるのか、彼は夜毎彼女に囁く。
彼女は嬉しそうに微笑して、だが、それでも



ティナーシャが行方を晦ましてから三日、オスカーは彼女が行きそうな街の薬草屋を全て回った。
しかし返ってくる答はどれも同じ「そんな客は来ていない」というものである。
彼女の容姿はよくも悪くも非常に目立つのだ。来ていないというのならそうなのだろう。
苛立ちがそろそろ臨界点に達しそうになった頃、だがオスカーはようやく彼女を見たという証言に行き当たった。
「ちょうどその人の欲しがった薬草の在庫が切れててね。
 あと三時間も待てば城都から届くよって行ったら、『早く帰りたいから自分で城都に行く』って言ったんだよ。
 驚いたけど転移を使える魔法士だっていうから店を教えてやった」
「城都とはファルサスの城都か?」
それはかつて彼らが治めていた国の都だ。
数十年前から魔法大国とも呼ばれ始めたファルサスはけれど、数ヶ月前突然隣国に攻め込んでそれを滅ぼし、話を伝え聞いた二人の眉を顰めさせていた。
「城都に……? まさかな」
彼らは滅多に城都へは行かない。
それは城の奥には彼らの分も含めて代々の王夫妻の肖像画が飾られている為だ。
肖像画を見た人間によって万が一にでも素性がばれたら面倒であるし、何よりファルサスはもう彼らの国ではない。
思うところはそれぞれあるが、よほどのことがない限り国政に干渉する気はないし、これからもそういう事態にはならないだろう。
しかし、オスカーはこの考えをまもなく翻すことになる。
それは辿りついた城都の薬草屋で「その女性は城に連れて行かれた」という話を聞いた、その二時間後のことだった。

「起きろ。俺の声が聞こえるだろう。トゥルダール女王ティナーシャの夫だ」
低い声は強い魔力のこもったものだった。
それは円状に配置された精霊の像の、残る四つに当たって跳ね返る。
城の奥宮の庭に入り込んだオスカーはティナーシャの魔力が感じ取れないことにかなりの焦りを覚え始めていた。
彼女が城に来たことは間違いない。確かに薬草屋の主人は「王の馬車に乗った」と教えてくれたのだから。
だが、あれ程までに強い魔力を持った女が、どれ程探索用の構成を組んで探しても見つからない。
これは余程強力に魔力を封じられているということだろう。
その為彼は、自分の不慣れな構成に頼るのではなく、彼女が使役していた精霊を起こして頼ることにしたのだ。
「起きろ。短時間で構わない。俺の命を聞いてくれ」
本来ならば複雑な構成を以って使役される精霊。
しかし男の纏う威と魔力に押されたのか、二つの石像がゆらりと形を変えた。みるみるうちに人の姿に変じる。
旧知である二人の精霊、カルとミラは形式を重んじたのかオスカーの前に跪いた。その頭上に彼は命令を降らせる。
「久しぶりで悪いが、ティナーシャを探してくれ。この城で行方が途絶えた」
「……この城にはもういないと思う。魔力を感じ取れない」
「何だと? お前たちもか?」
「今動いてる他の精霊締め上げてくるよ。命じて」
「分かった。手段は選ぶな。あいつの居場所を俺のところへ。……行け」
声と共に青年と少女の姿をした魔族はその場から消える。
しかし、十二いる精霊のうちでも上位であった彼らがまもなく持ち帰った答は―――― 想定し得る中で最悪のものだった。



広い部屋は日中にもかかわらず全ての窓が閉ざされ、暗闇の中に何もかもが埋没していた。扉を開けた途端漂う臭気に彼は眉を顰める。
探していた彼女は、部屋の中央にいた。扉から差し込む光が、長い黒髪の一部を照らし出す。
床に広がった髪は乱雑に絡み合っていた。それだけではなく何かがその髪を床に凝り固めている。
「明かりをくれ」
「見ない方がいいって」
「くれ」
再三の命令にカルは諦めて光球を生んだ。白々とした光が彼女の全身を浮かび上がらせる。
魔女として、最後の女王として、そして王妃として美貌を謳われた女が、そこにはうつ伏せに倒れていた。
黒く固まった血の海が彼女を絡め取っている。めった刺しにされたのだろう、白い魔法着はそのほとんどが血で染まっていた。
オスカーは変わり果てた妻の姿をその場から動けずに見つめる。背後でミラの嗚咽が微かに聞こえた。
「…………何故だ?」
「女王は王の要請で城に連れてこられたらしい。封飾を嵌められ、王に他の王族の魔法士を殺すよう脅されたが、それを拒否した」
「何故、殺す必要がある」
「分からない。今の王は狂っているようだ」
カルの答に頷きながら……だが彼は、それがどんな答だろうとどうでもいいのだと、既に分かっていた。
どのような理由であろうと、彼女はもう死んでしまった。これ以上ないくらいに壊されてしまったのだ。
オスカーは彼女の亡骸の傍に膝をつく。上着を脱いで無残な彼女の遺体を包み込むと、そっと抱き上げた。
目を閉じ、冷たい体を抱きしめる。



彼女は、精神が倦んでしまうことを何より恐れていた。
だから、死と再会にも意味があると、そう言って笑っていたのだ。
けれどそれは、絶望を乗り越える為の単なる慰めではなかったのだろうか。半身を失い、渇えながら世界を彷徨う苦痛の為の。
突然やって来る喪失は、あまりにも長く彼らを打ちのめす。そこに意味があると思わなければ、空虚な年月に耐えられないくらいに。
―――― だが本当の答はもう当分得られないだろう。
彼女はもはや、一人行ってしまったのだから。



オスカーは妻の遺骸を抱いて長く沈黙していたが、やがて立ち上がるとその体をミラに預けた。困惑する精霊に「清めておいてくれ」と命じる。
「何処に行くの?」
「これを殺した理由を聞いてくる」
「理由って……そんなのないよ! 今だってどんどん人が殺されてる! そういう奴なんだって!」
大広間では今この瞬間にも虐殺が起きている。
アカーシアの主人であり圧倒的な剣士でもある狂王に、他の王族でさえもどうにも出来ないでいるのだ。
その異常さを数代前の王である男に訴えようとした彼女を、けれどカルが抑えた。
「ミラ、口を慎め。今はあの男が王だ」
「だって……」
「構わん。答次第ではすぐに代がわりをさせる」
本来世界に二つとない剣。
隠されたもう一振りを手に、オスカーは静かとも言える面持ちでたどり着いた大広間の扉を押し開ける。
そして歴史に残る狂王は、その血の源流に佇む男の剣によって、玉座から死を以って廃されたのだった。



ミラによって綺麗に整えられ、白いドレスに着替えさせられたティナーシャは充分に美しかった。
その体を抱いて、オスカーは大きな肖像画を見上げる。
額縁の中、彼の隣に座り幸せそうに微笑む女。
この絵を描かせたのはもうどれくらい前のことであろうか。まだ子供が生まれていなかった頃の記憶を彼は懐かしく思い出した。
当時の二人はどちらも己の変質を知らなかった。知らないまま共にいたのだ。彼はまだ絶望を知らず、彼女の存在を当然と感じていた。
それがどれだけ無知な幸福であったのか、今の彼はとうに分かっている。ただ時折それを忘れかけ、喪失と共に思い出すだけだ。
オスカーは腕の中の可憐な死に顔に目を落とすと、抱き上げる腕に力を込めた。傍らに控える精霊に命じる。
「焼いてくれ」
「絵を? いいの?」
「ああ。もう不要のものだ」
彼が見ない彼女の笑顔などもう必要ないだろう。今は子供たちもいない。あの笑顔から彼女を思い返す者は誰もいないのだ。
オスカーが踵を返すと同時に絵はゆっくりと燃え始める。
やがてその炎が壁に焦げの染み一つ残さず消え去った時、魔女を抱く王の姿もまた長い廊下から消え去っていたのだ。