蛇の残像

mudan tensai genkin desu -yuki

濡れた黒髪はいつもより艶めいて見える。
いつもなら持ち主の腰まで届く髪はその時、寝台から床へと無造作に垂らされていた。
うつ伏せでうとうとと眠りかけている女の額を少年は指でつつく。
「乾かさないの? 風邪引きそうだけど」
「ん……乾かしといてください」
「どうやって」
普段彼女は自分の髪も彼の髪も魔法で乾かしているが、当然彼にそんなことが出来るはずもない。
ラジュはとりあえず彼女の背にかかっていた布で妻の髪から水気を取り始めた。
直接頭皮に触れるところは自分で乾かしたのであろう。ぽかぽかと温かい。彼は冷えかけた毛先に触れて顔を顰めた。
「こら、ティナーシャ。起きて乾かせ。風邪引くから」
そう言って軽く髪を引いたものの、それくらいでは予想通り目を覚まさない。
もともと彼女は眠りやすく起きにくいのだ。
自分が夜更かしさせてしまったこともあってラジュは一旦水気を取る作業に戻ったが、きりがないことを悟ると心を決めた。
髪ではなく頬をつねって引っ張る。
「起、き、ろ。ちょっとでいいから」
「…………うぅ」
「起きろ、ティナーシャ」
「……貴方自分で出来るじゃないですか……ちゃんと構成組んでください……」
完全に寝惚けているようだ。魔法など使ったこともない少年は大きく溜息をつくと女の耳に顔を寄せた。
白い肌。うなじから耳の後ろにかけて指を這わせ口づけていく。
くすぐるように愛撫を加えていくとほとんど眠っている女の唇から熱い吐息が零れた。耳を甘噛みするとぴくりと震える。
「う……オスカー、やめてください」

―――― 空気が凍るとは、こういうことを言うのかもしれない。

ラジュは頭の片隅でそんなことを冷静に考えたが、片隅は本当に隅っこでしかなかった。
頭に血が上っていくような、逆に引ききってしまうような不思議な感覚が広がっていく。
彼は沸々と揺れる感情を抱えたまま、ほとんど眠っているのだろう女の耳元で呟いた。
「ティナーシャ、それ誰」
低く、静かな声。
だがそれは彼女の聴覚を刺激して思考を動かしたのだろう。少しの間を置いてティナーシャは跳ね起きた。
真ん丸の瞳がラジュを凝視する。
「あ、え……えーと、私、今何か言いました?」
「誰その男」
「あ……あれー?」
まるで雪原のような空気が二人の間を流れていく。
強張った笑顔を作っていたティナーシャは、若い夫の目を見返してこれ以上ない程に蒼ざめたのだった。



「ああああああああああああ、失敗したああああああああああ!!」
魔女の何ともいえない絶叫が地上より遥か上空に響く。
夜空に浮かぶティナーシャは、己の失態に頭を抱えて悶絶していた。制御を離れた魔力が周囲に電光を散らせる。
「寝てた! 寝てたんですよ! 不意打ち!」
どれ程言い訳しようともその相手は周囲にはいない。沈黙が続いた後、「おやすみ」と言って部屋を出て行ってしまったのだ。
ティナーシャは既に乾いた髪を十指で掻き毟る。
「どうしてああいうことするんですかね! 段々戻ってきてるのはあの人の方じゃないですか!」
半年前に結婚するまでは触られるのも嫌がっていた彼だが、最近は昔に戻ったかのように彼女に触れてくることもある。
眠っていた彼女は浅い夢に昔の記憶が甦り―――― 取り返しのつかない失敗をしてしまったのだ。多分彼は非常に怒っている。
「も、もう、時間戻らないかな……うう」
半泣きになりながら後悔しても時既に遅し。ティナーシャはどうやって謝ろうか、膝を抱えて真剣に考え始めた。



あんまり腹が立つとどうやら眠れないものらしい。
苛々としたまま一睡も出来なかったラジュは休日を一人城都に出ていた。
昨日あんなことがあるまでは彼女と一緒に過ごそうと思っていた休みの日である。
だが正直、今はティナーシャと顔を合わせて平静でいられる自信がない。
その為現在、屋台の立ち並ぶ広場を不機嫌な顔で散策するという、自分で見ても生産性のない時間を送ることになったのだ。
広場はあちこちの店からの食欲を誘う香りが混ざり合い、多くの人で賑わっているが、自分程無愛想な顔をしている人間はいないと断言できる。
それくらいラジュは昨晩の妻の発言が忘れられなかった。
「浮気はしてないです!」と主張した彼女だったが、その点は疑っていない。
ティナーシャは結婚から半年が過ぎても彼にべったりであるし、昼間は家事をしているか本を読んでいるかのどちらかなのだ。
ならば彼女が呼んだ名とはかつて結婚していたもう一人の夫の名であるのだろう。他にあんな風に彼女に触れた人間がいるとは思えない。
過去のことは変えようがないのだし、責めても仕方がないとは思っているのだが、「九十年前のことをまだ忘れていないのか」という思いもある。
ましてやそれが寝室で自分と間違えられたのだから尚更だ。やり場のない怒りが頭痛を呼び起こしてラジュは顔を顰めた。
大きく息を吐き出すと近くにあった石段に腰掛ける。

「うらないを、しない?」
聞き覚えのある声が背後からかけられたのはそんな時のことだ。
振り返ると、いつか砦近くの街で出会った白い少女が、あの時と同じく花束を抱えて彼を見下ろしている。
二段上から自分を見やる少女の名を、ラジュはしばらく考えた後に思い出した。
「えーと……カサンドラ、だっけ?」
「そう。あれ? また会った?」
「また。ティナーシャの知り合いだよね」
指摘をすると少女は目を丸くする。だが少女に見えるのは外見上のことだけであり、彼女も実際は百歳以上の人間なのだ。
何だか途方もない気分を味わってラジュは嘆息した。
「俺のこと覚えてない? 君はあんまり昔のことは覚えてないのか」
「覚えていることも、覚えていないこともあるわ」
「百年くらい前のことって覚えてる?」
「百年……? そう、あなたとティナーシャのことくらいは」
「ん?」
何だか会話におかしな点があった気がする。
ラジュは大きく右に首を傾げた。見合わせた少女も同じように首を傾げる。
「俺のこと?」
「あなたのこと」
「百年前?」
「百年前」
首を左に倒すと彼女も同じ方向に倒す。言動のことといい仕草といい、子供か鏡を相手にしているようでラジュは吹き出してしまった。
「俺、生まれてないよ。百年前とか」
おそらく二年近く前のことを百年前と混同しているのだろう。苦笑する少年にカサンドラは不思議そうな顔になる。
「同じ、でしょう? 変質した王。あなたのこと」
「…………え?」
何だか彼女の言うことはよく分からない。
分からないのだが、「何か」を感じてラジュは笑うのをやめた。頭痛がするこめかみを押さえる。
「俺のことって……あれ? 俺のこと知ってる? …………名前とか」
何故名前を聞いたのか。
それは予感がしたからだ。
知っている、という予感が。
カサンドラは腕の中の花束を抱き直す。白い花弁に目を落とす。そうして彼女はしばらく考え込むと
「あなたはティナーシャに、オスカーと呼ばれてた」
と返したのだった。



どうやって謝ればいいのか、結局結論はでなかった。
でなかったのだから真剣に平謝りするしかないだろう。浴室で冷水を浴びていたティナーシャはがっくりと項垂れて寝台に戻る。
「彼」と「彼」は、同じで違う存在だ。
同一人物を違う環境で育てたらどうなるのか、その見本のような差異がそこにはある。
そして彼女は、どちらの彼も、相似も差異も含めて愛しているのだ。彼の隣にあることこそが彼女の望みであり、彼を失うのならそこには何もない。
自分でも制御がきかぬほどに彼を求めてやまないのは、きっと九十年間の喪失が大きく影響している。
今の自分が少しおかしいとは分かっているのだが、どうにもならない。この傾倒は彼の存在によってゆっくりと癒していくしかないのかもしれなかった。
「まずは、ごめんなさい千回からですかね……」
帰ってきてくれなかったらどうしよう、と思いつつ濡れたまま萎れていたティナーシャは、けれど寝室の扉が開いて夫が戻ってきたことにより飛び上がった。
いつも通り飛びつこうとして、事の成り行きと自分が濡れていることを思い出す。
ラジュは冷ややかな目で濡れ猫のような妻の全身を眺めた。
「……拭けば」
「あ、あう。はい」
謝ろうと思った矢先から別のことで怒られてしまった。
ティナーシャは魔法を使って体から水気を取り、ついでに湿ってしまった寝台も乾かす。その間に溜息混じりの少年が隣に座った。
「何で冷たいの。何時間ぼけっとしてたの」
「いえ、水を浴びてまして……」
「風邪引くよ」
「す、すみません」
ラジュの指がティナーシャの耳にかかる。全身冷え切っているせいか、その指先がとても熱く感じられた。
普段は剣を持つ大きな手がまだ濡れたままの髪を一房手繰り寄せる。
「で……昨日は俺を誰と間違えたの?」
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
「いやそれはいいから……。前に結婚してた相手?」
「ごめんなさい!」
「まだ忘れられないの?」
「ごめんなさい!」
「俺の話聞いてる?」
「……ごめんなさい」
忘れられないのか、と聞かれたら、「忘れられない」としか答えられないだろう。
忘れることは出来ない。彼女が彼女で在る限り。
彼を思う―――― それこそが、時を渡っていく彼女の、永劫に変わらぬ安息であるのだから。

ティナーシャはがっくりと項垂れて沈黙する。
何だか何を言っても彼の機嫌を損ねそうだ。どうすればいいのか正直分からない。
もう剣を差し出して「お好きにどうぞ」と言ったほうがいいだろうか。
そんなところまで思考が飛躍した時、彼女はふと伝わってくる温かさに顔を上げた。
見ると隣に座る夫が黙々と彼女の髪を手に取り、指を滑らせている。―――― その指の触れた先から髪が乾いていくのを彼女は唖然として見やった。
彼はその視線に気づくと不敵な微笑を見せる。
「反省したか? 次は気をつけとけ」
間違えようのない瞳。その口調。
ティナーシャは穴の開くほど夫を見つめる。
普段硬質な少年らしい空気を纏っている彼は……いつのまにか大人の稚気を整った容姿の上に湛えていた。
それが何を意味するのか悟って魔女は大きく口を開ける。
「オスカー! 何で!? いつから?」
「昼間から。カサンドラに会ったぞ。相変わらずよく分からない女だな」
「私をからかったんですか!? 酷い!」
「あんまりにも凹んでて可愛かったからな」
なじりながら飛びつくと鍛えられた腕が彼女を抱き寄せる。揺らぎようのない温もりにティナーシャは目を閉じた。
髪を梳いていく指。耳に触れる唇。低い声が体の奥底にまで染みこむ。
「待たせたか?」
その一言だけで、男は彼女を支配する。無自覚なままに彼女を手に入れる。
おそらくそれは、ずっと変わらないのだろう。
彼が忘れても、自分が忘れても、ティナーシャはそう断言できる。自分の全ては彼のものなのだと。

魔女はそうして、王の元へ還る。
束の間の人の暮らしを経て、在るべき場所へと戻っていく。
長い長い旅の終着点が何処にあるのか、まだ二人のどちらもが知らない。
だがその旅路こそを幸福として、彼らは人知れず大陸を渡っていく。

彼女は少しだけ顔を離すと、花のように笑った。顔を寄せ男の頬に口付ける。
「いいえ少しも? ―――― 私の王」
少しの意趣返しを込めて魔女が夫の耳をつねると、彼女を膝に抱くオスカーは喉を鳴らして笑ったのだった。