神に背く書 01

mudan tensai genkin desu -yuki

城の奥庭に、その生垣はあった。
子供であった彼らには鉄格子よりも強固に思えた生垣。
彼を閉じ込めているのだとアナが憤慨してやまなかった常緑の境が、実は病弱な彼を守る為のものであったと知ったのは、二人で手を取り合って逃げた夕暮の時のことだ。
あの後アナは初めて父親に殴られ、家から閉め出された。
けれど頬を腫らす痛みや肌に突き刺さる寒さよりもずっと彼女の胸を熱くさせたものは、城から離れ郊外の丘に寝転がった時、彼が「ありがとう」と微笑んだ―――― その淋しげな瞳だったのである。
全ては十年以上も前の話だ。






東の大陸の中では五指に入るであろう強国イクレム。
歴史と力をあわせ持った国の城都へと通じる街道を、一台の乗合馬車が走っていく。
ゆっくりとした速度で、けれど着実に先へと進む馬車の中、もっとも入り口近くに座っていたケグスは大欠伸をすると、それに乗じて馬車の奥を見やった。乗り合わせている客は全部で五人。そのうちの二人が彼の視線の先に座っているのだが、もうずっと前から彼はその二人が気になって仕方ないのだ。
一人は秀麗な顔立ちをした長身の男であり、鍛えられた体に旅人の服装を纏っている。
装備は質素な剣を佩いているのみだが、油断を見せない空気からしてかなりの手練なのかもしれない。
まだ若い傭兵であるケグスは同じ傭兵で腕の立つ人間も何人か見たことがあるが、この男はそれら傭兵とはまた違った威を持っていた。
さりげなく様子を窺うケグスの視界内、男はふっと息を吐くと腕の中の毛布を抱きなおす。
もう一人はその毛布の中にくるまれている子供。
長い黒髪に、顔はちらっとしか見えなかったが、作り物めいて綺麗な貌だった。
年のころは七、八歳だろうか。
繊細かつ異様な美しさを持つ姿は、そういった趣味の貴族なら貴金属をどれ程積んででも手中にしたいと思うであろう蠱惑を持っている。
姿を変え人を惑わす魔物ではないかとケグスが疑ったくらいの少女は、今は男の腕の中で安らかな寝息を立てているようだった。
いやおうなく目を引く二人。兄妹にしては年が離れすぎている彼らは、ケグスたち他の客と共に無言で馬車に揺られている。
―――― まさか貴族の娘とそれを攫って来た騎士じゃないだろうな。
そんな空想を膨らませていたケグスは、馬車が城都近くの検問前で速度を緩めた時、男が少女を揺り起こす声に気づいて耳をそばだてた。
低い穏やかな声がかすかに聞き取れる。
「起きろ、ティナーシャ」
体ごとゆっくりと揺さぶりながらの声に、しかし少女は縮こまっただけだった。起きる気配のない彼女に男は溜息をつく。
「起きろ。人攫いと思われたらどうする」
ケグスは一瞬自分の想像を見抜かれたのかと思ってぎょっとしてしまった。
しかし男は彼の方は見向きもせず腕の中の少女を揺り起こす。
やがて彼女は激しい振動に耐えられなくなったのか顔を上げた。魂が抜けてしまったかのような寝ぼけ眼で男を見上げる。
「……オスカー?」
「起きろ。検問だ」
「うう……」
少女はもぞもぞと動くとしなやかな腕を上げて伸びをした。毛布の中から体を起こすと男の顔に手を添える。
「あぁ……ここで見つかればいいんですけどね」
気だるさの漂う言葉と仕草。男の額に口付けた闇色の瞳は幼い外見とはかけ離れた「女」のもので、それを見たケグスは、瞬間ぞっとするような戦慄に襲われた。
―――― この少女こそが西の大陸で最強と恐れられた魔女であると、彼は知らない。



無事イクレムの城都に入った二人は、街の中央近い宿屋を取ると馬車に揺られて疲れた体をほぐした。
元の姿に戻ったティナーシャは、大きな椅子に深く腰掛けると窓越しに城を見上げる。
「しばらくはここで情報集めですか」
「だな。城が怪しいと思ってはいるが」
ある呪具を探して遠く西の大陸からやって来た彼らは、もう一年近くもの間この大陸を彷徨っている。
だが、未だにそれらしい情報は掴めていない。多くの噂に触れる為わざわざ転移を使わず街道を旅しているというのに成果の上がらぬ現状は不満といえば不満だが、一年で「長い」などと思う感覚は既に失われて久しかった。オスカーは妻の体を抱えると自分が椅子に座って頬杖をつく。
「この国の王は代々切れ者らしいからな。『あれ』に頼っている可能性も充分ある」
「洞察力が優れてるっていうのが怪しいですよね。
 探している方からすると何処かに死蔵されてるより使っててくれる方が分かりやすいんですが」
ティナーシャはここに来るまでの間、イクレムについて仕入れた情報を思い出した。その中には「この国の王は代々異様なほどに洞察力がある」というものが混ざっていたのだ。だが空振りを続けたせいか、実際は大して期待もしていなそうな妻の声音に男は苦笑する。
「まぁここにもなかったら次は皇国ケレスメンティアだな。何しろ大陸最古の国だ」
「うーん。さすがにこっちの大陸の歴史にも詳しくなっちゃいましたね……」
オスカーの膝上に座るティナーシャは男の体によりかかりながら嘆息した。
最初は本来の姿を取って旅をしていた彼女も、検問などで警備兵に絡まれる面倒が増えるにつれ、いい加減対応にも飽きてきたらしい。
最近はもっぱら外見を変えているのだが、周囲に迷彩をかけた探知結界を常に張っていることもあり、動き回っていなくとも疲労が溜まっていくのだろう。たちまち眠そうに力が抜けていく躰をオスカーは苦笑し抱き上げた。寝台に移すと、丸くなる妻の隣に座り地図を広げる。
あてどない旅を続ける彼らだが、「元の大陸に戻りたい」という気持ちがないわけではない。
屋敷があることを差し引いても、あの大陸が彼らの故郷であり慣れ親しんだ場所だ。
現に今、この大陸において体は休められても心は何処か落ち着かないでいる。
だが、そう思いながらもオスカーは湧き上がって来る疑念を消すことが出来なかった。
彼らが探している呪具は今の目標を除いて残り七つ―――― それら全てが隠されているにしては元の大陸は狭すぎる。
つまりこれからは、未知の大陸へも手を伸ばす必要があるのではないか。
何処にあるのかも分からぬ三つの大陸。先の見えぬ海の果てにかつての王は思いを馳せた。
「……もっともとりあえずは『あれ』の後始末が先決だがな」
この大陸に来る切っ掛けとなった呪具。ただそれだけを探して二人の異質は大陸を彷徨する。
それは歴史の裏を、時に表を縫っていく隠された闘争の軌跡なのだ。






「ケレスメンティアにセノワを?」
父王の言葉に王太子であるフィレウスは頷く。銀の耳飾りが軽い音を立て首肯の後を追った。
今年六十三歳になる王は目元の皺を深くして息子を見上げる。
イクレム国王である彼には、かつて四人の子がいた。
民の人望も篤く誠実な長兄とその妹。
そして冷ややかなところを持ちながらも有能な息子フィレウスと、末弟セノワが。
しかし四人の子のうち体の弱かった王妃の体質を受け継いだ娘は十八の時に亡くなり、将来を有望視されていた長子も遠乗りに出た際に崖から落ちて突然の死を遂げた。結果彼の下に残されたのは二人の息子―――― しかしそのうち末弟セノワはやはり体が弱く、優しすぎる性格もあって王族の責務を負わすには心許なかった。今年二十一歳になる彼はまだ城の奥宮で籠の鳥のように暮らしており、その母に似た顔立ちを思い出すたび王は憐れを感じて仕方ない。
「あれがケレスメンティアでやっていけるのか?」
「可能不可能の問題ではないでしょう。セノワも王族である以上、務めを果たす義務がある。
 それにケレスメンティアの女皇であれば年の頃も釣り合いが取れているし、こちらの血筋も申し分がない。
 他国が女皇の夫を出してくる前に動くべきです」

大陸最古の国であるケレスメンティア。
決して広大な領土を持つわけではない皇国は、しかし鍛え上げられた武力と不思議な伝説の数々で彩られた国である。
神にもっとも近い国と言われ、神話の時代には主神ディテルから直接武器を賜ったとさえ言い伝えられる国は、神代が遠くなった今でさえ有力諸国の意識をひきつけてやまない。特に若い女皇がそろそろ夫を迎える年齢であるという事実には、イクレムをはじめどの周辺国も無関心でいられなかった。 それら国々がお互いの出方を窺い半ば膠着している状況の中、先に一歩を踏み出し弟を女皇の夫にすべきだと主張するフィレウスは、父王の何度目かの溜息に軽く眉を上げる。
「あの国は得体の知れぬ国だ。お前も知っておろう? あの国だけはあの本に……」
「だからこそ、セノワを送るのです」
きっぱりとした返答に父王は瞬間息を止めた。
息子の狙いが何処にあるのか。
それを悟った王は皺の中に埋もれかけていた目を見開き、険が濃く現れた王太子を見つめる。
「フィレウス。お前は……」
驚愕が香る声に名を呼ばれても彼は揺らがなかった。迷うことなく王とその先を見つめ、僅かに頷く。
何百年もの間、無数の決断が下されてきた玉座の間。
空虚さが漂う空間で、二人の父子はまるで昏い河を挟んでいるかのように向かい合っていた。フィレウスは血の気の薄い唇を動かし、冷えた声で問う。
「許可を頂けますね? 父上」

これが何の始まりであるのか、知る人間は誰一人いない。
王は最後の溜息を吐き出すと―――― 「アナが悲しむかもしれぬな」と小さく呟いて応えたのだった。