神に背く書 02

mudan tensai genkin desu -yuki

かつて城壁のように高く感じられた生垣は、今はアナの頭とほぼ同じ高さになっている。
騎士の正装に身を包んだ彼女は、入り口に立つ衛兵の会釈を受けると建物の中に入った。
城の中では小さな部類である離れの宮。だがその内装は多くの人目に触れる場所とまったく変わらず、父王からの深い愛情を感じさせた。
彼女は故王妃によく似ていると言われる王子の姿を探して、いくつかの部屋を訪ねる。
「アナ」
北西の図書室で本を読んでいた探し人は、彼女を見つけると柔らかく微笑んだ。金の髪が薄暗い部屋の何よりも明るく輝く。
少年時代には少女と言っても通った容姿の持ち主であるセノワは、一礼する女の為に隣の椅子を自ら引いた。本の途中に栞を挟むと厚い書を閉じる。
「どうしたんだい? アナ。そんな服で来るなんて珍しいじゃないか」
「わたくしでも出仕している時はきちんとしております」
「ああ。兄上のところに行って来たのか」
アナは彼の言葉にほろ苦く微笑む。
含みのないセノワの言葉に罪悪感を覚えてしまうのは、アナが自分の父親の意図を腹立たしいほどによく知っている為であろう。
父は彼女を王太子フィレウスの妃にしたがっている。だからこそ事あるごとにアナを公爵家の代表としてフィレウスのもとへ向かわせるのだ。
勿論セノワもそれを知らないはずがない。はずがないのだが、彼はこれについて負の感情を彼女に見せることはまったくなかった。

アナは名目上は城に仕える騎士ではあるが、女であるため正式な臣下というよりはあくまで「貴族」として周囲から見られている。
真剣に毎日何時間も剣を振り、体格的な不利を補おうと努力している自分が、他の貴族の子弟たちのように「騎士ごっこ」に興じているように思われるのは不愉快だが、その不満を声高に訴えても失笑を買うしかないことは彼女も分かっていた。
もうアナは子供ではないのだ。来年には十八になって、父との約束通り剣を捨てねばならない。
その後は公爵令嬢として誰かのところへ嫁がなければならないのだが、彼女にとってその未来は倦怠感を誘うものでしかなかった。
知らずうちについていた小さな溜息にセノワは苦笑する。
「随分浮かない顔だ。城はそんなに嫌かい?」
「そういう訳ではないのです。ただままならない自分というものに不甲斐なさを感じておりまして……」
「君の父はまだ君を子供だと思っているのだろう。子を心配するのは親として当たり前のことだ」
「子供を自分の栄達の為の道具にすることも、でしょうか」
皮肉と言うよりは誰の目にも明らかな真実を口にするとセノワは小さく肩を竦めた。
栞が挟まれている一冊、古くから読まれている戯曲の上に視線を落とすと彼は立ち上がる。
「必ずしも兄上の妃にと思っているわけではないだろう。ただ君の父は……君が私のところに来ることをよく思っていないだけだ。
 何と言っても君に剣を取らせることになった原因はこの私なのだからね」
「殿下……」
セノワは本を二冊抱えるとアナを促すようにして図書室を出て行く。
未だに頑健とは言い難い線の細い彼の後姿を見やったアナは、黙って立ち上がるとその後を歩き出した。
長剣を止める為の金具が音を立て、静かな廊下に響いて聞こえる。彼女はその音に自分でも違和感を覚えて僅かに顔を伏せた。



子供であった頃には、力があれば大抵の願いは叶うと思っていたのだ。
セノワは自分の体のことは自分で診るだろう。だから、アナは外敵から彼を守れさえすればよいと思っていた。
世界がそれ程単純ではないと理解したのは何年前のことか。
ただそれでもアナは訳も分からぬまま始めた剣を手放したくない。これさえも捨ててしまっては自分には何も残らないのだ。
皮の手袋越しに彼女は剣の柄をそっと触わる。
温かさのない硬質の感触はけれど―――― やはりセノワの住むこの宮には不釣合いなものに感じられたのだった。



アナ・ルニアディはイクレム国のルニアディ公爵家に生まれた唯一の娘だ。
父は前宰相の息子であり、今でも宮廷におけるルニアディ家の影響力は強い。
その為彼女は父に連れられ幼い頃からよく城に出入りしており、セノワに出会ったのも僅か六歳の時だった。
好奇心から城の奥深くに入り込み、生垣の隙間から中を覗いたアナの目には、セノワはフィレウスと兄弟であることが信じられぬほど儚く綺麗な生き物に見えた。一度も離れの宮を出たことがないという彼に外のことを色々と語ったアナは、次第に自分こそが彼を助け出すのだという使命感に駆られていったのだろう。しまいに家から持ち出した鋏で生垣に小さな穴を開けると、彼を連れて城を抜け出した。
そして、その後のことはよく覚えている。
二人は郊外の丘で日が落ちるまで無数の言葉を交わし、城の兵士に見つかって連れ戻された。
駆けつけてきた父に平手で殴られたアナは「セノワが痛い目に遭わなければいい」と願ったが、彼はその晩高熱を出して寝込んだらしい。
しかし彼女がそれを知ったのは、父親に反発して剣を取った、その後のことだった。
あれから十年以上が過ぎたが、アナはまだセノワを城の外に連れ出せてはいない。



「兄上はあれでお優しいところがあるのだよ。アナのことも評価している」
廊下を歩きながらのセノワの言葉に、アナは「そうでしょうか」と返したかったが、それはさすがに不敬にあたる。
自然彼女は「恐縮です」とだけ答えて彼の後に付き従った。後ろで一つに束ねられた男の金髪を何とはなしに見上げる。
自分が彼に何を望んでいるのか、そのようなことをアナは考えない。
セノワは宮廷の権力とは無関係な位置にいるとは言え、王族であり守るべき主君の一人だ。
だから彼女は、彼が話す多くの物語に夢中になって時の経つのを忘れた時も、いつの間にか彼に背を抜かれていた時も、言葉にしがたい胸の痛みを覚えはしたが、それを表に出すことはしなかった。セノワには何も伝えてはいない。
黙り込んだアナを男は足を止めて振り返る。
「アナ。今日はお茶菓子にベルロを出そう。何をかけるかは君が選べばいい」
「殿下」
まるで十年前から変わっていない慰めの言葉にアナは思わず笑い出しそうになった。
彼のところでしか食べることの出来ない遠い異国の焼き菓子。それが好きで仕方なかったのはほんの子供の頃の話なのだ。
だが今でも嫌いなわけではない。むしろ菓子の中ではベルロが一番好きだ。
顔をほころばせるアナに、セノワは自分もふっと微笑すると歩き出す。彼女はその横顔を眩しそうに見上げた。
「殿下、本日はお話も拝聴したいのですがよろしいでしょうか」
「ああ。久しぶりだな。今日はどの話が聞きたい?」
「皆の知らない話がありましたら、それを是非」
そうしてセノワに聞いた「秘密の話」はアナの中に宝石のように積まれている。彼女はその一つ一つを大切に押し抱いて彼の後を追うのだ。
けれど―――― 誰も知らない隠された歴史の真実はいつか、彼ら自身をも飲み込んでしまうのだろうか。






セノワと共に過ごした三時間で温められた気持ちは、しかし屋敷に戻った瞬間気鬱へと変じた。
帰って来たアナに小間使いが「着替えて旦那様のところに行かれますよう」と伝えてきたのだ。
大方今日のフィレウスについてでも聞かれ、なおかつセノワのところに行ったと知られていればそれを責められるのだろう。
彼女は苦々しい気持ちを抱えて騎士の正装から簡素なドレスに着替えると父のいる広間へと向かう。
だがそこにいたのは父だけではなかった。
見覚えのない長身の男。蒼い目に一瞥されたアナは反射的に息を飲む。
下手をしたらそのまま硬直してしまったであろう彼女を動かしたのは、呆れたような父の一声だった。
「どうした、アナ。こちらに来なさい」
「お父様、この方は……」
「西の大陸から来た魔法具商だ。面白いものを多々見せられてな」
「魔法具商?」
つい上げてしまった疑問の声に、男は「初めまして」と軽く頭を下げる。その姿をアナは眉を寄せてまじまじと見つめた。

剣など持ったこともない父には分からないのであろうが、どう見てもこの男は商人ではない。
おそらく戦闘を生業とする人間、それも傭兵のように崩れたところがない正統の騎士か何かだ。
そんな人間が何故、商人などと偽って屋敷に入ってきたのか。不審に顕にするアナに男は彼女にしか見えないよう微苦笑する。
端正な顔立ちに似合う低い声がアナに届いた。
「ルニアディ公爵のご令嬢は色々と変わった話をご存知とのことで。是非それを拝聴したく思いまして」
「お父様!」
娘の非難にルニアディは鼻を鳴らして笑う。
アナが初めてセノワから「秘密の話」を聞いたのは八歳の時。
彼女はけれどその時、あまりにも驚いた話を秘密にしていられず父親に教えてしまったのだ。
ルニアディはそれを「子供の妄言」として嘲笑い彼女を傷つけたが、彼女が「秘密の話」を父に教えなくなった今でも時折子供の頃のことを持ち出して彼女を嘲る。そして暗に「セノワのところになど近づくな」と釘を刺すのだ。

そのような父の態度にも腹は立っていたが、他人を巻き込んで話をさせようなどさすがに度が過ぎている。
アナは男に断りを入れようと口を開きかけ―――― だがその前に彼の問いかけを聞いて絶句した。
穏やかな微笑を浮かべた男は何かを探るような目で彼女を見つめる。
「貴女は色々とご存知ではないのでしょうか。秘された歴史、誰も知らない裏側の事件について……私はそういった話を集めているのです」
「……そ、それは」
―――― この男は、ひょっとしてセノワと自分のことをよく知っているのではないか。
そんな悪寒に駆られアナは立ち竦んだ。
普通に考えればそれは商人が貴族の機嫌を取る為の方便であろう。
だが男の雰囲気はそれだけではない妙な真剣味を帯びており、まるで商売よりもそちらの方が目的であるかのように彼女に注意を払っているのだ。
一体この男は何なのか。何故セノワが教えてくれる話を知ろうとしているのか。
青ざめたアナの変化を男は黙って注視する。蒼い目が全てを見透かすように彼女の瞳を捉えた。
「どうした、アナ? 好きなだけ語ればいい。お前が殿下から……」
「お父様! おやめください!」
先程の非難よりも一段高い、悲鳴にも似た叫びにルニアディは目を丸くする。
その間にアナは「気分が悪いので失礼します」とドレスの裾を翻し部屋を出た。



自分はいつまでも子供ではない。
だから変わっていかなければならないこともよく分かっている。
けれどそう思いながらも割り切れない彼女一人を取り残すように変化は押し寄せ、それだけではなく不穏な影も差し始めていることに、アナはまだ気づいていない。



自室に戻った彼女は部屋の窓から屋敷の門を窺った。ちょうど先程の男が門を出て行くのが見える。
息を潜めてその姿を見つめていたアナは、けれど門の外で一人の女が男を迎えたのに気づいて眉を顰めた。
遠目にも浮き立つような美しい容姿。長い闇色の髪におそらく同じ色の双眸。
見る者に忘れられぬ記憶と畏怖を刻み込むその様はまるでセノワに聞いたことのある――――
「魔女みたい」
ぽつりと呟いた自身の言葉にアナは身を震え上がらせると窓際から後ずさる。
そのまま彼女は、子供の空想とは思いたくなかった過去の話に追われるようにして、寝室へと飛び込んだのだった。