神に背く書 03

mudan tensai genkin desu -yuki

昔々、大陸西部にクルシアという国があった。
軍事国家として名を馳せたその国は次第に領土を広げ力を増し、しまいには西の大陸にまでその手を伸ばしたという。
しかし西の大陸には関わってはならない存在がいた。
それは「魔女」と呼ばれる女たち。強大すぎる力を持つ魔法士。
クルシアは魔女を知らぬまま一つの国に手を出し、忌避すべきその怒りを買った。
彼女は単身クルシア本国に現れると、国境の砦五つを破壊したという――――

それは、闇色の髪と瞳を持つ恐ろしいまでに美しい魔女の物語。






頁を捲るささやかな音が夜の部屋に響く。
ここ数年ですっかり耳馴染んだその音にフィレウスは皮肉げな表情になった。燭台の光を強めて連なる文字列に目を通す。
彼が読んでいる箇所はぶ厚い本の一番最後の部分だ。
それは普通の本であれば結の部分にあたるのであろうが、この本においてそこは「今現在書かれつつある」場所である。
暖色の明かりの中、半ば白紙の頁を睨んでいたフィレウスは、紙の上にうっすらと文字が浮かび上がってくるのを見とめて表情を引き締めた。
誰の手にもよらず書かれた文字は、それまでに記されていた前文に繋がり、まるで昔から頁の上にあったかのように沈黙する。
隣国の動向。本来ならば間諜を使っても容易くは入手できない情報をフィレウスは二度読んで顔を上げた。
「ケレスメンティアに抗うか? 何も分からぬあの国に……」
大陸最古の皇国ケレスメンティア。代々女皇が治めるその国は、いつの時代も中庸を持って歴史の片隅にあり続けた。
強大な力を持ちながら、それを率先して他国に揮ったことはない。ただ時折他国同士の争いに間接的な介入をしてくるくらいだ。
それだけの国。だがフィレウスはケレスメンティアを「それだけ」と思うことは出来ない。
―――― あの国だけなのだ。秘された歴史を記す深緑の本にその動向が現れてこないのは。

「神の書を抑えるはまた神の力……か?」
忌々しげなフィレウスの呟きに返事をするものはいない。
遥か昔、西の大陸よりアイテア信徒が持ち込んだとされる「神の書」。
秘された歴史が記され、それだけではなく今起きつつある事実をも綴り続けるこの本が把握し得ない国は、主神ディテルの庇護が篤いと言われるケレスメンティアだけである。アイテアの兄神にあたるディテルの力は「神の不在」を謳われて久しいこの時代においても未だ有効であるらしい。フィレウスは皮肉な笑いを浮かべながら本を閉じた。
「だがそれではいつまでもケレスメンティアには届かない」
だからこそ彼はセノワを女皇の夫として送りたいのだ。
謎多い大陸最古の皇国に、イクレムを少しでも近づける為に。






「貴方はどうしたって商人には見えませんよ。それは怪しまれます」
風呂から上がって寝台にうつ伏せになっていたオスカーは、背中に乗ってきた妻の呆れ声に苦笑いした。
彼よりは二回り以上小柄な体を持つティナーシャは彼の上に同じくうつ伏せになると、細い足で空中をパタパタと蹴る。
「それで、公爵令嬢には警戒されちゃったんですか?」
「みたいだ。ただ警戒されたにしては挙動不審だったがな。本当にあの本について何かを知っているかもしれない」
オスカーはルニアディから「娘はまるで空想じみた話を蓄えている」と冗談交じりに聞かされ、彼の屋敷を訪れたのだ。
そこで顔を合わせた娘は何も教えてはくれなかったが、「秘された歴史の話」を聞きに来た彼に対しての態度は尋常ではなかった。
これは案外「当たり」を引いたのかもしれない。彼は寝台に頬杖をついて黙考した。女の声が頭上から聞こえる。
「で、その令嬢はイクレムの末王子から聞いたっていうんですか?」
「らしい。ルニアディはそれをよく思っていないようだがな」
「何故? 王族との繋がりは家の益になるんじゃないですか?」
前宰相の息子であるルニアディは今でも宮廷内に影響力を持ってはいるが、その力が父の代と比べて弱まっていることは否定出来ない。
おまけに彼には娘しかいないのだ。その娘を使うとしてまず考えられるのは王族との婚姻だろう。
ティナーシャの疑問にオスカーは肩を竦めるような真似をした。
「セノワ王子は病弱で生まれた時から離宮で暮らしてるんだそうだ。
 まったく国政に関わっていない彼は権力も支持基盤もない。おまけに優秀な兄がいるときては、娘の夫としては不十分なんだろう。
 弟ではなく兄の方に嫁がせたいと、そう思っているのさ」
「はぁ……。余計なお世話という気がしますけど」
「娘には煙たがられているみたいだな。当然と言えば当然だが」
オスカーは体を返して仰向けになると、転げ落ちそうになった女の体を引き戻す。
ティナーシャは再びうつ伏せに戻りながら軽く歌うような声で笑った。
「ではそちらは私が引き受けましょう。貴方は他にもあたってみてください」
「分かった。……ああ、魔法具を作り足しておいてくれ。この大陸は精霊術士がいないから精霊魔法の魔法具にはすぐ飛びついてくる」
「了解しました」
彼にはあどけなく見える魔女の微笑。
だがそれは見る者によっては恐怖の前触れでしかないだろう。オスカーは長い黒髪に指を通す。
焦る必要はない。いくらでも時間はある。
それは彼ら二人に課せられた長い運命の重みであるのだ。






昨日の怪しい男について、いつも通り城の自分の部屋に出仕したアナは誰に言う気にもなれなかった。
一晩寝て起きてみると単に自分の意識が過剰だった気もする。あの男は本当にただの商人で何も含むところはなかったかもしれないのだ。
それなのに過敏な対応をとってしまった自分をアナは恥じると、昨日のことについては口を噤むことに決めた。
飾り気のない部屋の机の前に座した彼女は、お茶を持ってきた小姓に礼を言ってそれを飲む。
体の中を温めていく液体に複雑な思いもいくらか和らぐ気がした。

宮仕えの騎士には大きく分けて、身分によって指揮官待遇を受ける騎士と、実力を認められ騎兵として仕える騎士の二種類がいる。 前者は城の中に自分の部屋を与えられており、平時であればそこに出仕するもしないも自由であるが、後者は詰め所に毎日の出仕が義務付けられており、城にいる時間は訓練や雑務をして過ごすのが常であった。
イクレム城に所属する騎士は約百五十人。その中でアナは、自分の立場を両者のほぼ中間に位置すると思っている。
彼女が騎士の身分を得られたのは勿論公爵家の人間であることが大きいだろうが、彼女自身はきちんと実地試験を受けてそれに通ったのだ。城には毎日出仕しているし、訓練や仕事もこなしている。
全てが実力とは言わないが、与えられた身分にふさわしいだけのことはしているとアナは自負していた。
ただそうして無我夢中で前に進み、ふと自分の年齢を意識する時彼女は疑問に思う。
―――― はたして初めて剣を手にした時、自分が望んでいたことは一体何であったのだろうかと。



書類に目を通しながらアナが飲んでいたお茶は全て飲みきられる前に冷めてしまった。
それに気づいた小姓のリオルはカップを新しいものと交換すべく下げていく。
将来騎士になることを望んでいる城都出身の少年は、他意のない声音で「そう言えば」と城で仕入れたらしい情報を口にした。
「今日はセノワ殿下が宮廷にいらしているようですね」
「え……殿下が?」
自分の離れを出ないセノワが宮廷に顔を出すことはほとんどない。
せいぜい王族全員の出席が基本とされている行事に現れるくらいで、基本彼が自分から宮廷に出てくることはまずないのだ。
今は重要な行事もないことだし、王に呼ばれでもしたのだろうか。
気になりはしたもののアナは生返事だけをして、後でセノワの離宮を訪ねることにした。

そして彼女は彼の口から直接聞くことになったのだ。
セノワがイクレムを離れ、ケレスメンティアに向かうことになったという話を。






「な、何故です、殿下! 何故ケレスメンティアに……」
「女皇の夫としてだそうだ。彼女は今年十六歳で、ちょうど私と年の頃が合うからだと」
「そのような理由で……っ!」
言葉が喉に詰まったのは不敬を恐れたからというより感情の大きさのゆえである。
アナは緑の目を見開いてセノワを見つめた。
まるで凍りついたかのような視界の中、男は普段と変わりない微笑を浮かべている。
その穏やかさが今は彼女の胸を焼いて仕方ない。震えが伝う声でアナは問うた。
「それはフィレウス殿下のご命令ですか?」
「いや。父から伝えられた。これからケレスメンティアに打診するのだと」
「でもそれは……」
このような政略結婚の案など王自ら言い出すはずはない。二人の子を失った王は末弟のセノワを深く慈しんできた。
だからこれは、おそらくフィレウスの策なのだろう。
あの冷徹な王太子ならば「他に使い道のない」弟を、駒として動かすことに躊躇いはないはずだ。
突然背後から穴に突き落とされたような思い。
呆然としかけたアナは、知らずうちに唇をきつく噛んだ。
自分が何を望んでいるのか。これからどうすればいいのか。そんなことがぐるぐると頭の中を回る。
そして女皇の夫として他国に去ってしまうセノワのことも――――
「わ、わたくしも……」



彼はずっと閉じ込められていたこの城を出て、別の城に閉じ込められる。
そうしてそこで一生を過ごすのだ。「必ず外に連れて行く」というあの時の約束を守れぬまま。



「わたくしも………………連れて行っては頂けませんか……」
考えるより早く零れ落ちてしまった言葉にセノワは目を瞠る。
そこには瞬間影が揺らめいたが、アナにそれを意識するだけの余裕はなかった。
真摯というよりも悲痛な問いかけに彼は小さく息をつく。
「アナ。それが可能かどうかは誰よりもよく君が分かっているだろう。
 何も考えずに大きなことを口にしてはいけない。私たちはもう子供ではないのだから」
セノワの声は穏やかであったが、アナが期待していたよりも遥かに冷静なものであった。
そしてその答に衝撃を受けた時、彼女は初めて自分が「期待」していたことを知ったのだ。
一体何を期待していたのか―――― 彼が諾ということか、それとも「共に逃げよう」とでも言ってくれると思ったのか。
不遇の王子と女騎士が手を取り合って逃げ出すなど、そんな話は夢物語にしか存在しない。子供の空想でしかありえないのだ。



父の嘲笑が耳の中でこだまする。
アナは息の出来なくなる錯覚に喘いで、一歩後ずさった。
非礼を詫びなければと思うのだがどうしても膝を折ることが出来ない。騎士としてあるまじき自分の弱さに焼け付く苛立ちが生まれた。
セノワは笑みのない真面目な目で彼女を見返している。
そこに王族の高貴さを見て取ったアナは、抗えぬ距離感を意識せざるを得なかった。かろうじて頭を下げると、そのまま部屋を出て行く。
おぼつかない足取り。途中で小間使いの少女が不思議に思ったのか声をかけてきたが、アナはそれにも気づかない。
ただ大きすぎる喪失感を抱えて離宮を出た彼女は、生い茂る生垣を眺めて、ふとその時腑に落ちる。
―――― 自分はきっとずっと、彼のことを愛していたのだろうと。
だから今、こんなにも世界に色がないように思えるのだと、アナは強張る十指で顔を覆い、かすかな嗚咽をもらした。