神に背く書 04

mudan tensai genkin desu -yuki

ケレスメンティアは代々女皇が治める国である。
その夫は国外から迎えられることもあれば国内で選ばれることもあり、明確な決まりは存在しない。
ただ夫を差し出した他国は、その女皇の代はまず間違いなく安定を約束される。
それは国力が弱く、周辺強国の顔色を始終窺わねばならない小国にとっては願ってもいない特権の好機だった。
「常にどこかで戦乱が起きている」と言われる大陸において唯一、平穏が当然のものとされている皇国。
だがその真の姿は―――― いくつもの伝説に彩られつつも未だ全てを明かされてはいない。






「イクレムがケレスメンティアに婚姻の打診を?」
波紋を生む一石として、その情報が強国の一つコダリスにもたらされた時、王であるシャーヒルはちょうど昼食を取り始めるところだった。
武人としても高名な彼は今年四十二歳。
そろそろ壮年の終わりに差し掛かりつつあるが、がっしりと鍛え上げられた肉体にはいささかの衰えも見られない。
戦となれば王として戦士として両刃の大剣を手に最前線に出てくる彼は、周辺諸国からまるで猛獣のように恐れられていた。
肉切りナイフを手にしたままのシャーヒルは報告を聞くと、普段剣を握る無骨な指で顎鬚を押さえる。
太い眉が思案するように寄せられ、日に焼けた眉間に何本かの皺が寄った。険しい表情に報告を持ってきた男は身を強張らせる。
だがシャーヒルは緊張する臣下を一瞥すると「料理が冷める。少し待て」とだけ言って、肉の塊に手をつけ始めた。
そのまま唖然とする男を前に、王は粗野と謗られる一歩手前の豪快さで食事をたいらげていく。
ゆうに三人前はあるであろう料理の全てがシャーヒルの胃に収まるまで三十分もかからなかった。
王は口についた脂を白い布で拭うと改めて臣下を見やる。
「イクレムが出してきた夫候補とはあの影の薄い末王子か。確かにあれでは他に使い道もないであろうな。王太子も無駄のないことをする」
「まだ単なる打診段階で、ケレスメンティアからの返答は出ていないようですが……」
「すぐには返答をしない。あそこはそういう国だ。大陸に波紋が立つ様を高みから見下ろし喜ぶ。性の悪い女と一緒だ」
シャーヒルは茶ではなく酒を手に取り、喉を鳴らして笑った。

国を女と喩えることは珍しくもないが、ケレスメンティアは女皇の国だ。
まだ若い女皇を揶揄していると言えなくもない王の戯言に、臣下の男は僅かに青ざめた。神の名が脳裏にちらつく。
西の大陸では既に神の不在は当然のものとして認識されているらしいとは言え、この大陸ではまだ彼の大陸程には魔法研究が進んでいない。結果知識層以上の人間の多くは神についてその論を知っていたとしても、身に染み付いた畏れに抗えずにいた。
シャーヒルは臣下の表情を読み取って唇の片端を上げる。
「そう怖がるな。ケレスメンティアはまだイクレムを庇護対象とはしていない。
 ―――― つまり、手を打つなら今のうちということではないか?」
王の指がテーブルを叩いた。それだけの仕草に反応して部屋の隅にいた別の男が進み出る。
陰気さを薄めて全身に塗りたくったような痩身の男は、シャーヒルの前に音もなく跪いた。灰青の瞳が王を仰ぐ。
「何なりとご命令を」
「イクレムの末王子を殺せ。王太子もまさか自分が女皇の夫になることは出来ぬだろう」
微塵の迷いもなく、下された命に男は黙して頭を垂れた。
忠実な人形の如き雰囲気の異様さに、報告を持ってきた臣下は気味悪げな視線を送る。
だが彼もすぐに新たな仕事の為に部屋を出て行くことになったのだ。
シャーヒルは楽しげに笑いながら「同じ情報を他国にもばらまいてやれ」との無造作な命を下したのだから。






瞼がやけに重く感じられるのは、昨晩一睡も出来なかったせいであろう。
アナは鏡を見ずとも分かる腫れぼったい顔を濡れた布で押さえた。その様を小姓のリオルが不思議そうに眺める。
彼は、自分が仕える女騎士に何かあったらしいとは察しているようだが、それを問うような無礼はしてこない。
結果彼女は少年の気遣いをありがたく思いながらも、心の何処かで誰にも心情を吐き出せないこの状況を苦く感じていた。
この十年の間、本当に辛くて仕方なかった時、アナの弱音を聞いてくれていた男のことを思い浮かべる。

アナは彼に涙を見せることをしなかった。
彼女はあくまで彼の為に力をつけ、彼を守り、連れ出す者でありたかったのだ。
だから他の貴族の娘のように泣いて感情を顕にすることはしたくなかった。
背に突き刺さる陰口も所詮他人の感想と思えば気にならない。
悔しいことがあった時ほど、その苛立ちを剣にぶつければ鬱屈とした気も晴れた。
―――― それでも突き当たるままならなさについ心が折れそうになると、アナは躊躇いがちに彼の前で本音を零したのだが。
セノワはそのような時、彼女の言葉を嫌な顔一つせず全て聞くと、黙って彼女にお茶とお菓子を勧める。
子供の時から変わらない温かさ。安らいでいられる空気。
それがどれ程自分を支えてくれていたかアナが知ったのは、もはやセノワに苦しみを吐露できなくなった今に至ってのことであった。



飲み込んだ溜息。
それをまた一つ胃の中に落とし込んだアナは、リオルの視線に気づくと弱弱しいながらも微苦笑する。
ふと思い立って彼女は質問を一つ口にしてみた。
「リオル、貴方はケレスメンティアをどう思う?」
主人からの問いに少年は慌てて反り返るほど背筋を伸ばす。
戸惑い顔で彼女の意図を探りながらもリオルは自分なりの意見を口にした。
「神の国という印象が強いです。そのせいか平和の国という印象もございますが……。
 魔法士たちは『神などいない』と申しますが、仮にそれが正しいとしても、やはり信仰心とは簡単に拭えぬものでございましょう。
 戦乱絶えぬ中、ケレスメンティアに侵攻する国が未だ現れないのは、人々が神の意志を重んじているからではないかと思っております」
「そうね」
リオルの答は若さのせいか素直すぎるきらいはあるが、この大陸の大半の人間が抱いている感慨を上手く言い表していた。
アナは「自分もそう思う」と答えかけて―――― だが何故か違和感に首を傾げる。

『あの国はこわい国だ』

その言葉を、いつか何処かで聞いた。
暗闇を睨むかのような少年の言葉。
彼女に「そう」言ったのは、セノワだったか、それとも……。

アナは痛む頭に手を添える。
しばらくそうしていた彼女はけれど、意を決すると「人に会うから」と言って自分の部屋を出て行ったのだ。






「それで私に会いに来たというのか、アナ」
彼に呼ばれる名は、何故かいつも肌寒さを感じさせる。
それだけはセノワと似ている声。しかしまったく異なる温度に彼女は負けぬよう顔を上げた。
突然の面会希望にもかかわらず執務室に通してくれたことをまずフィレウスに感謝する。
「殿下、わたくしめに時間を取ってくださり、ありがとうございます。突然の無礼をお許しください」
「用件を言え。どうせセノワのことであろう」
フィレウスが弟を呼ぶその響きも温かいわけでは決してない。アナはここ数年笑ったところを見たことがない王太子に頭を下げた。
「仰るとおりでございます。此度のセノワ殿下の婚姻案について、差し出がましくも申し上げたいことが御座いまして」
「それならば私にではなく、ケレスメンティアに頼み込む方が確実だ。
 私は意見を翻すつもりはない。彼の国がセノワを認めたならいつでもあれをケレスメンティアに送る用意がある」
「ですがセノワ殿下のお体は……!」
いくら魔法の転移が使われるだろうといっても、ケレスメンティアは遠い。
大陸北東にある皇国は標高も高く、イクレムとは風土からして違うのだ。
そのような国でずっと病弱でこもりきりだったセノワがやっていけるのか、アナは希望的観測を持ち得なかった。
彼の命を削るようにしか思えない未来。それを何とか変えようと彼女はフィレウスに向かって嘆願する。
「どうしてもということなら、わたくしを供としてつけることをお許し下さい。
 魔法士ほどではございませんが、殿下のお体についてはよく存じ上げているつもりです」
「出来ると思うか? 女皇の夫に大貴族の娘をつけて引き渡すなど。
 女皇への侮辱と取られずに済めば幸いだ。―――― よく考えてから物を言え」
フィレウスの声音には冷ややかさの他に微量の怒りが混じっているように聞こえた。
アナは目を瞠りかつて少年だった男を見つめる。

確かに一時、子供時代を共有していた彼のことが分からなくなったのはいつからか。
フィレウスはアナの幼馴染の中でもっとも早く大人になり、子供じみた戯言は口にしなくなった。
だから彼女には彼の考えていることが分からない。
気づいた時彼は既に、王太子という存在になってしまっていたのだ。



フィレウスは「言いたいことを言ったなら帰れ」と背を向ける。そこには既に言葉にするまでもない拒絶が見て取れた。
たった数分。だがこれでも多忙な彼にとってはかなりの譲歩だったのだろう。
しかし何の成果も得られぬままのアナは、帰れと言われて諦めることが出来なかった。男の背に向かって問う。
「何故です殿下! イクレムにはケレスメンティアの庇護など必要ないのではないですか!?」
広い大陸には確かに何処かの国の保護を得なければ生きていけぬ国も多い。
だがイクレムはそうではなく、充分に自身の力を持った強国の一つなのだ。
「セノワ殿下を売ってまで何を手に入れようとなさっているのです!  あの方は貴方にとってもはやただ一人のご兄弟でございましょう!」
フィレウスが欲しいものとはセノワと引き換えにしてでも惜しくないような「何か」なのか。
それが何なのか、アナには分からない。彼女にはそのような「何か」がない。
壁にあたって跳ね返る叫びに、だがフィレウスは振り返らなかった。
ただ腐り落ちていくような沈黙の後、抑揚のない声が問う。
「アナ。お前はケレスメンティアをどう思う?」
「―――― ケレスメンティアを……?」
それは先程彼女自身が口にしたものと同じ問いだ。アナは茶色の眉を軽く寄せる。
考えても答など一つしか思いつかない。彼女は躊躇しながらもその単語を言葉にした。
「神の国……ではないかと」
あの国には他になにもない。
歴史と、伝説と、象徴たる女皇以外には。



アナは答えた。
フィレウスは振り返らない。
そうして幾許かの静寂の後、彼は今度こそ彼女に退出を命じ―――― 彼女はそれに従ったのである。



執務室を出た後、アナは力ない足取りで宮廷の廊下を歩いていった。
そのまま庭の奥へと入り込み、離宮を取り巻く生垣の前で足を止める。
かつては彼を閉じ込める檻にしか思えなかった場所。だが今は、彼を守る為の場所だと分かっている。
「でも、それでも私は……」

門の前で立ち尽くす彼女に、庭を掃除していた小間使いが気づいて駆け寄ってくる。
見覚えのある少女の名がすぐには出てこなかったアナは、中に入らないのかと尋ねて来る彼女に対し黙って首を横に振った。小間使いは怪訝そうながらも頷く。
「では殿下にアナ様がいらしていたとお伝え致しましょうか」
「いえ。いいのよ、ユリア。ありがとう」
今度はすっと思い出せた名に、しかしアナはほろ苦く微笑んで踵を返した。生垣に背を向け、その場を去っていく。
はたしてこの低い柵のどちらが外でどちらが内なのだろうと、埒もない考えに想像を揺られながら。