神に背く書 05

mudan tensai genkin desu -yuki

空は何処までも広がって見える。
夕暮れ時の青紫の空。その限界が何処にあるのかまだ誰も知らない。
けれど二人のいるこの大陸はそれより狭く、さらに彼の住む離れがもっと狭いことは確かだった。
郊外の丘に寝転んで空を見ていたアナは体を起こして隣の子供を覗き込む。
絵本で見た姫のように美しい金髪の子供―――― セノワの言葉が切れたので、眠ってしまったかと思ったのだ。
だが彼の両眼は変わらず天を見上げており、そこには少しの焦燥が燃えていた。アナは彼の感情が読めずに首を傾ぐ。
「かえりたい?」
「ううん」
彼の視線は遠くを見ている。まるでその先に何があるのか知りたいとでもいうように。
その思いの熱さが彼女には分からない。
ただそれでも同じ子供としてアナは、彼が「外を望んでいる」ことだけは感じ取れた。小さな手を繋ぎ、約束を口にする。
「なら今度はもっと遠くへ連れて行ってあげる」
「遠くへ?」
「うん。約束。また迎えに来るから。もっとずっと遠くへ―――― 」

遠く、城の外へ、国の果てへ。

でもそこには……一体何があるのだろう。






どれ程辛い記憶も温かい記憶も、時が経てば次第に薄らぎぼやけていく。
だからこの胸の痛みもやがて鈍痛になり、最後には古傷のように疼いていくのみなのかもしれない。
アナは手綱を操りゆっくりと馬を走らせながら右手の剣を上げた。正面から向かって来る騎兵を見据える。
相手の持つ武器は槍。彼女ではおよそ扱えぬ重い代物だ。だからアナは騎兵としては珍しく常に剣を使う。
―――― 落ち着いて、待つ。
向こうの間合いはアナよりも大分広いのだ。ぎりぎりまで引きつけなければ剣を届かせることは出来ない。
吸い寄せられるように距離を詰める二騎は、手綱と武器と研ぎ澄ませた意識だけを頼りに迫る相手へと向かった。アナは息を止める。
不思議な高揚が湧き上がり、だがすぐに沈静した。
世界から音がなくなる。全てがゆっくりと動きを緩め、馬上の振動ももはや分からない。
馬同士がすれ違う一瞬前。
彼女の胸当てを狙って、訓練用の槍が風を射抜く速度で突き出される。
手加減のない鋭さ。しかしアナはそれを身を捩って避けた。そのまま右手の剣を振るい相手の頸部を狙う。
その一撃は命中すれば兜を凹ませることに成功したかもしれない。だが相手もまた身をかがめて剣を避けた。
彼はすぐに槍を引き、態勢を立て直すと手綱を引く。
二騎はそのまますれ違うと、少し離れたところで馬首を返した。相手の男は兜を取るとアナに向かって笑いかける。
「あまり避けられると自信がなくなります。もう一回やりますか?」
「いえ。少し休憩するわ。ありがとう」
彼女が礼を言うと、平民出身の騎士は照れくさそうに頭を下げる。
そのまま馬首を巡らし他の仲間のところに向かう彼を見送ると、アナは馬を厩舎に戻すようリオルに預け、城の建物に向かって歩き出した。

城の敷地内にあるこの訓練場は、騎士たちが基礎訓練や馬上試合をするため使う広場でそれ以外の出入りはないが、近くの渡り廊下から女官などが訓練の様を眺めていることも多い。同じ平民同士として女官と若い騎士たちはお互いを気にしながらもあからさまにはそう見せない態度を取っているらしく、貴族として親に決められた婚姻を当然と躾けられたアナの目にその関係性は微笑ましく映った。彼女はいつも女官たちが溜まっている廊下を振り返る。
途中から広場に出られるようになっているこの渡り廊下において、けれど女官たちは決して外には出てこない。
ただ柱の影から意中の人物を探して視線を彷徨わせるだけだ。そこにはきっと目に見えぬ生垣が存在しているのだろう。
アナは己の想像にふっと微笑しかけ―――― だが広場に下りてくる別の人間を見つけると顔色を変えた。持ったままの剣を握り、侵犯者をねめつける。
廊下を下りてきたのは二人の男。そのうちの一人は貴族の子弟で、日頃から彼女につきまとって仕方ない男だった。
勿論それは城内においてのことで、彼が訓練場に出てくることなど見たこともない。今も単に隣の男を案内しているだけだろう。
そしてそのもう一人もまた、アナの知る人間だ。
数日前に屋敷へと訪ねてきた商人。長身に蒼い目を持つ男は、アナに気づくと軽く目を瞠る。
そのまま彼は貴族の男よりも余程流麗な仕草で会釈した。穏やかに見える微笑が口元に湛えられる。
「公爵令嬢。またお会いしましたね」
「……何故貴方がこのようなところに」
「僕が父に言われて案内していたのさ、アナ」
何故か得意げな貴族の男をアナは睨んだ。おそらくまた魔法具の交渉でもあって、そこで「城の中が見たい」とでも頼まれたのだろう。
怪しげな男を不用意に引き入れた親子に対し彼女は忌々しさを覚えたが、ここで騒ぎ立てても仕方ない。
「これ以上外に出ない方がよろしいかと」とだけ釘を刺すと、アナは男の脇を通り抜けようとした。彼の声がその背を叩く。
「先日の話については教えていただけないので?」
「話すことなど何も御座いません」
「では頼み方を変えてみましょうか」
アナがつい足を止め振り返ってしまったのは、男の声音が僅かに変じて聞こえたからだ。
夜の中を這い寄ってくるような先触れ。予兆にも似た恐れが彼女の中を過ぎる。
男はアナの視線を受けると声を上げずに笑んだ。その余裕がとてつもなく恐ろしく思えて、彼女は低い声で聞き返す。
「どう……変えるというのです」
「そう。たとえば、教えてくださるなら何かを代わりにさしあげるとか」
「何かとは何を?」
即座に聞き返され、彼は小さく笑う。
得体の知れない男は不思議とこのやり取りを楽しんでいるようにも見えた。蒼い瞳に稚気が走る。
「では……魔女が一つだけ願いを叶えるというのは如何でしょう」



「魔女」が何を意味するのか。
この大陸でそれを知る者はあまりにも少ない。この大陸には魔女がいない。
だがアナは、その僅かな例外に入る人間だった。みるみるうちに顔が強張り青ざめる。
ずっと昔、少年が語った物語。「これは本当のことだよ」と前置きされた話が脳裏に甦った。自然と唇が動き、亡国の名を綴る。
「それはまさかクルシアの……」
誰も知らない話。秘された歴史の断片。
震える彼女の呟きを聞いて―――― しかし男の表情からは笑みが消えた。彼は目を細めてアナを見下ろす。
「なるほど。『あれ』を知っているのか」
低い声。
それによって彼女がまず感じたのは「畏怖」であった。
とても敵わない。
どうしようもない相手。
商人などではない。もっと格上の「何か」。
何故このような存在に行き当たってしまったのか。慄然とした本能に体が凍りつく。
アナは後ずさろうとして足が動かないことに気づいた。何をされているわけでもなく、ただ恐怖で動かせない。
視線を逸らすことも出来ない彼女に、男の手が伸ばされる。



―――― 死を覚悟するなら、「今」なのか。
そんなことさえ思った時、だが男は彼女の頭上で軽く右手を払った。耳障りな金属音が響き、傍の草むらに何かが落ちる。
慌ててアナが振り返ると、ちょうど訓練場から何人かの騎士が慌てて走ってくるところだった。
口々に叫ぶその内容からして、短剣か鉄矢か、訓練に用いられた何かが誤って飛んできたらしい。
それを彼女にぶつかる直前で弾き落とした男は、謝罪する騎士たちに苦笑で応えた。
今はもう畏れを感じさせない彼の雰囲気に、アナは深く息を吐き出す。
「あの……ありがとう」
「お気になさらず」
突然の事故に腰が引けてしまったのは、訓練などしたこともない貴族の息子の方らしい。
彼は謝る騎士たちに向かって悪態をつくと、案内してきた男を連れてさっさとその場を立ち去った。
再び一人になったアナは体に残る緊張を振り落とそうとして……しかしふと思い出す。
あの時鳴り響いたのは、金属同士がぶつかり合う高い音。
けれど飛来物を弾いた男はその手に何も持ってはいなかったという―――― おかしな事実を。






「うー……ないなぁ」
手に持ったハタキをティナーシャはくるくると回す。そのまま逆さに空中を移動しながら彼女は腕組みをした。
離宮の一室、図書室に収められた無数の書物を見回し溜息をつく。
「やっぱり普通の本棚には入れてないんですかね……変な本だって一番後ろを見ればすぐ気づくし」
掃除をすると見せかけてこの部屋を調べ始めたのはもう三日前のことだ。
それから彼女は毎日のように掃除もしながら目標物の捜索をしているのだが、一向にそれは見つからない。
隅々まで埃がなくなった部屋を見回して、小間使い姿の彼女は唇を曲げた。
「別の場所かなぁ。うーん。手がかりが足りない……」
―――― もうこの離宮に見切りをつけて他を調べるべきだろうか。
そのようなことを考えもしたが、宮廷はここと違って魔法結界も多い。いくら彼女でも痕跡を残さず長時間入り込むことは難しいだろう。
もっとも痕跡を残していいのなら無茶な手段もいくつか取れるのだが。
とりあえず方針を変えるならオスカーと相談してからではないと難しい。ティナーシャは床に下りると本棚の一つに歩み寄った。
そこには「セノワが最近読んだ本」が離宮の主人に配慮して並べられている。
「歴史と、神話と……ケレスメンティアの本ばっかり」
噂ではセノワはもうすぐケレスメンティアに女皇の夫として向かうらしいのだが、その前勉強でもしているのだろうか。
ティナーシャは数十冊に及ぶ本の中から特に厚い一冊に手を伸ばす。
しかしその時、彼女は人の気配を感じて姿勢を正した。ハタキを手に「掃除をしていた」振りをする。
扉を開けて現れた女中は、彼女を見つけると厳しい声を上げた。
「もうそこはいいわ、ユリア。庭を手伝いなさい」
「かしこまりました」
背を向ける女中の後を追って、闇色の髪をみつあみにした魔女は駆けていく。
少女姿の彼女の正体を知る者は、この離宮にまだ誰一人として存在していなかった。