神に背く書 06

mudan tensai genkin desu -yuki

全ての歴史は、一冊の本に集約される。
かつてあったことも、今起こりつつあることも全て。
それが神の力であるというのなら、この神もやはり不平等を生み出す存在なのだろう。フィレウスは皮肉げに唇を歪め頁を捲った。
現に神の書と呼ばれたこの本を手にしている者は、他者より多くを見渡すことが出来る。
「知られていないだろう」と思われ動かされる策も、薄布の向こうにあるかのように見通すことが出来るのだ。
今もそうしてイクレムへと忍び寄る企みを、彼は間諜も使わずに把握し得ている。フィレウスは最後の頁を読むと音を立てて舌打した。
「コダリスの野獣が……余計な小細工を弄してくれたな」
小国を挟んでイクレムの西に広がる強国コダリス。
その王シャーヒルがセノワを排除しようと動いていることと、撹乱のため同じ情報を周辺数ヶ国に流したことを、フィレウスは既にこの本から読み取っていた。結果、二日前から刺客を侵入させないよう城都の検問は厳戒態勢が敷かれ、離宮の警備は厳重になっている。
しかし事態はそれだけでは収まらなかった。
シャーヒルは豪快ではあるが、無駄を嫌う。
だからこそ彼は表立ってイクレムを攻撃するようなことはしない。それをしては不利益が多すぎるからだ。
だが情報を流された数国の全てがそうであるわけではない。
フィレウスは中でも一番動いて欲しくない国が対イクレム軍を編成し始めたとの記述に、頭痛さえ覚えて本を閉じた。自然と悪態が口をつく。
「あの直情者。少しは考えて軍を動かせ」
かつて自国より二年間イクレムに留学していた男。人懐こいながらも無駄に熱のある性格で、後先考えずに目先のことに突っ込む旧知の顔が彼の脳裏によぎった。

あの男であればシャーヒルから流された情報を深く考えることもせず、むしろ正義感を煮え立たせてイクレムを止めに来るに違いない。
かつてフィレウスと彼はケレスメンティアについて多くを話し合った間柄でもあるのだ。当時の裏切りともとれる今回の縁談に、彼は今頃怒り心頭であるだろう。
「止められるか……?」
おそらくは「少しイクレムを叩いて目を覚まさせてやろう」とでも考えている相手を、軍同士の衝突が起きる前に止めることは出来るか、フィレウスはいくつかの手段を考えてみた。
だがそのどれもがそれぞれの不都合を抱えており、先を考えれば実行に移し得ない。
下手に書状でも送れば、相手の性格から言って同じことを他国にも伝え、余計なところまで話が広がることは容易に想像出来る。
おまけにフィレウスが他国の情報に精通していることについて、万が一この本の存在に感づかれれば厄介この上ないのだ。
「何かが怪しい」と思い込めばあの男はしつこく食い下がってくる。それだけは何としても避けねばならなかった。

フィレウスはしばらく悩んでいたが、「一度思い込んだあの男を話し合いで止めることは不可能だ」との結論に嫌々ながらも到達すると、自らも軍の手配を指示する。一発殴りあった後、怒りを発散した相手に話して聞かせるように、最小限の衝突で事を収めることが出来れば重畳だと考えながら。






少しずつ、何かが動き出している。
セノワの婚姻話が持ち上がり、フィレウスの仕事が増え、怪しい男が現れた。
それだけではなくここ数日は離宮の警備も厳重になり、近く戦の予定でもあるのか騎士や兵士に出征の準備が言い渡されている。
城内がどことなくざわめき、誰もがそれを口にしないまでも何かを予感しているような空気。
そのような落ち着かない雰囲気の中、一人取り残されてしまったかのようなアナは焦燥を抱えて城の図書室に向かっていた。
ルニアディ家の一人娘である彼女は、いざ戦争が起きてもそれに参加することはない。
しないのではなく出来ないのだ。彼女の父も、そして現王もアナが戦場に立つことを許可していない。
だからこそ騎士でありながら出征準備を命じられない彼女は、けれど燻る焦りと苛立ちを一人抱えたままいるのではなく、自分が出来ることをしてみようと動いていた。図書室に入ったアナは目的の本を探していくつもの書架を覗いていく。
「ケレスメンティア……研究書はないかしら」
そもそもの始まりはセノワの縁談だ。そしてその真意を問うた彼女にフィレウスは「ケレスメンティアをどう思う?」と返してきた。
ならばこの変化の鍵は―――― 大陸最古の皇国である彼の国にあるのではないか。
そのようなことをふっと思いついた時、彼女は一つの符号に気づいた。
怪しい男が探りたがっている「内緒の話」の数々、秘された歴史の物語には、ケレスメンティアが舞台のものは一つもないのだということに。



単なる偶然、偏りの結果だと片付けてしまうには、それはいささか不自然だった。
彼女が幼い頃から聞き続けてきた話は既に数百を軽く越えているのだ。
そしてそれらの舞台となった場所は大陸全土に分散しており、特定の地方だけに限定されているわけではない。
にもかかわらずどの時代も存在し続けたケレスメンティアの話がないということは、さすがに一度気づいてしまうと気味の悪さを禁じえなかった。
「あの国には何かがあるのではないか」
少し前であればアナ自身一笑に付したであろう疑惑を、しかし今の彼女は裏付けるものがないかと探し回っている。
本の背表紙を睨みながら広い図書室を右往左往するアナは、二時間を有用な本の捜索に費やすと、見つけ出した七冊の本を抱えて閲覧室に移った。目次と索引を頼りにケレスメンティアについての記述を洗い出す。
しかしペンを片手にそれら全ての本を調べ終わった時、彼女の手元に残ったのは誰もが知っているような歴史上の事実でしかなかった。
アナは自らの手で箇条書きした項目全てに目を通し、溜息を落とす。
「これじゃ屋敷で調べるのと変わらないわ。折角城の図書室なのに……」
彼女が知りたいと思うことは額面的な説明などではなく、もう一歩踏み込んだケレスメンティアの内実なのだ。
それを記した本までもが見つからないとはどういうことなのだろう。アナは机に広げたものを片付けると、本を返しに図書室へと戻る。
そこで新しく寄贈された本を分類している文官を見つけると、彼女は探している本について聞いてみることにした。
「仕事中ごめんなさい。ケレスメンティアについて詳しく書かれている本はこれだけなのかしら」
「ケレスメンティア?」
男は顔を上げるとアナの抱えた本を見やる。その全ての題名に目を走らせた彼は何ということのない声で返してきた。
「それならばセノワ殿下が読まれるとのことで離宮の図書室に移動させました」
「殿下が?」
「ええ」
首肯した文官は再び図書の整理へと戻る。
しかしアナは何とも言えない気まずさを感じてその場を動けなかった。最後にセノワと会った時のことが甦る。



彼女は離宮への立ち入りが無許可で出来る数少ない人間の一人だ。だから本を読みたければ離宮に行けばいい。それだけのことだ。
しかし今、禁じられていないはずの行動に多大な決心が要るのは何故なのか。
アナは自分にしか見えない生垣がそこに張られているかのような錯覚に捕らわれ目を伏せた。文官の男に礼を言って本を返すと、黙って図書室を出て行く。
―――― セノワに会いたくないのかと言えば、それは違う。
かと言って会いたいかと言えば、それもまた違う気がした。
ただいつの間にか、とても「遠い」。
かつて生垣越しに繋いだ手が嘘であるかのように、アナはセノワとの距離をひしひしと感じて仕方なかった。
彼を守る騎士としても、彼の幼馴染としても中途半端である自分の不甲斐なさを思う。
理性と感情、どちらに寄れば後悔のない未来に近づけるのか、少しも分からなかった。
「正解が分かればいいのに」
ぽつりと呟いた言葉に、彼女は子供の頃の記憶を思い出す。
秘された歴史において翻弄された人々の軌跡。それを少年から聞かされた彼女は、「この本をその人たちが読んでいたならこんなことにはならなかったのにね」と言って苦笑されたのだ。
いくら「あの本」といえども、まだ起こっていない歴史を知ることは出来ない。人々は未来を知り得ない。けれど幼いアナにはそのことがよく分からなかったのだ―――― 何故ならその本は
「……本?」
泡沫のように浮かび上がる記憶の断片。その中に紛れ込んでいた単語に彼女は首を傾げる。
「本」とは一体何なのだろう。セノワにそのようなものを読んでもらったことがあっただろうか。どうしても思い出せない。
彼女は違和感に小さな頭を振ると、しかし気を切り替える為「よし」と呟き歩き出す。
自分が知りたいことを手にする為に、アナはこうして生垣に囲まれた城の離れへと向かったのだ。






手近な扉から外へ出たアナは、わざと人目のつかない林の中を選んで城の奥へと歩き出す。
別に誰に見られても問題ないのだが、今は誰にも見られたくない気分だったのだ。
或いは彼女が一番見つかりたくないのはセノワなのかもしれない。滅多に離宮を出ない彼が外出していればよいとさえアナは思った。
葉を落とさぬ鬱蒼とした木々の間を彼女は縫って歩いていく。

人の声が微かに聞こえたのは、ちょうどアナが城の裏に回りかけた時のことだった。
空耳かと思った彼女はしかし何となく視線を彷徨わせて、遠くの木の陰からはみ出るスカートを見出し足を止める。
あの服は離宮に仕える少女たちのものだ。ということはアナも知っている誰かだろうか。
彼女は小間使いに声をかけセノワがいるか聞こうとして―――― けれど逆に聞こえてきた男の声に飛び上がった。反射的に手近な木に隠れる。
「……というわけか」
「そうなんです」
男の姿は見えないが、彼は小間使いの少女と話をしているらしい。少女の柔らかい声からいって随分親しい相手なのだろう。
ひょっとして騎士と女官の逢瀬に出くわしてしまったのかもしれない。アナは顔を赤らめ、その場を立ち去ろうとした。
彼女は音を立てないよう歩き出し、しかしつい好奇心が抑えきれず二人がいるであろう方向を一瞥する。

―――― その時アナの目に映ったものは、少女に口付ける男の背中だ。
騎士のものではない服装。勿論文官でも何でもない、この城の者ではない人間。
彼女の周囲に二度現れ、忌まわしい畏れをもたらした異国の男にアナは目を見開いた。彼の腕の中で微笑んでいる小間使いに視線を移す。
「ユリア!」
少女の名を叫んだ時、アナは既に走り出していた。驚く二人の間に飛び込むと、男から少女を庇って立ち塞がる。
先程まで図書室にいたアナは剣を持っていない。そのことを不安に思いつつも彼女は鋭い視線で男を射抜いた。震える声で男に対する。
「どういうおつもりです? 城の者を篭絡しようとするなど……そうまでして殿下について知りたいとでも?」
「不味いところを見られてしまったか。悪気はないんだがな」
少し苦笑してみせる男は、言葉遣いも態度も今までのものとは異なっているように見えた。
どちらが本当の姿なのか、しかし敵意も威圧も感じられない様子にアナは若干の気まずさを覚える。
けれどこれまでのことを思えば、ここで退くことは出来ない。彼女は姿勢を正すと出来るだけ厳しい声音で返した。
「今後このような真似をするなら城への出入りを禁じます。貴方は他国の人間であることをお忘れなきよう」
「分かっている。失礼したな」
拍子抜けするほどあっさり男は頷くと、軽く手を振って城の方へと歩き去った。
悠然とした歩き姿。容姿の秀麗さもあいまって年端もいかない少女ならばすぐに気を惹かれてしまうだろう。
アナは彼の背が見えなくなると、振り返って困り顔の小間使いに釘を指した。
「駄目よ。あの男は余所から来て殿下のことを探りたがっているのだから」
「す、すみません」
頭を下げたままの少女は肩を小さく震わせている。その様をアナは気の毒に思ったが、念を押すことは忘れなかった。
「この国の人間ではないのに発音が綺麗だったでしょう? 西の大陸の人らしいわ。気をつけなさい」
「はい」
顔を上げた小間使いはもう震えてはいない。
アナは大きく息を吐くと「もういいわ。行きましょう」と離宮に向かって歩き出した。その後に少女が続く。
「アナ様。あの人は何を知りたがっているんですか? 離宮に何か秘密でも?」
背後からの疑問にアナははっきりとした答を返せない。彼女自身よく分からないのだ。ただ不穏を感じるだけで。
それでも何かが「不味い」と訴える。彼女はおぼろげな思考を手繰るよう指をこめかみに当てた。
「分からないわ……だって本のことなんて……思い出せない……」
薄らいでしまった過去。そこにあったかもしれない「何か」を探してアナの視線は空を見上げる。
それは昔、少年と見上げた空よりもずっと、不透明にくすんで見えたのだった。