神に背く書 07

mudan tensai genkin desu -yuki

小間使いの少女が言うにはセノワは本日外出していないらしい。
もっとも尋ねるまでもなく彼が離宮にいないことの方が稀である。
アナは挨拶をすべきか迷ったが、図書室を借りるだけであるし、彼の前に顔を出してはかえって邪魔なるだろうと判断した。少女にその旨だけ言付けると、かって知ったる部屋へと入る。
宮廷図書室の三分の一ほどの規模であるその部屋には、昔からセノワの趣味を反映して戯曲や詩歌などの貴重な書物が多く集められていた。 貴族の娘でありながらそういった文学教養には詳しくないアナは、ここにある本のほとんどを題名しか知らなかったが、セノワがそれらを元に何度か論文を書いたことは知っている。彼女は主人のいない部屋を見回すと、最近彼が読んだ本ばかりを集めている書架へと向かった。そこに並ぶ本の背表紙を確かめ、息を飲む。
厚さの異なる十数冊の本―――― それらはほとんどがケレスメンティアについてのものか、それに繋がるものだったのだ。


神話、歴史、逸話、そして文化研究。乱読とも言えるほど多分野にわたる本の数々が指し示すは、ただ一つの国である。
アナは半ば予想していたこととはいえ、あまりにも徹底した本の数々に気圧されて、すぐには手を伸ばすことが出来なかった。
しばらくそのまま立ちすくんでいた彼女は、しかし我に返るともっとも厚い一冊を手に取る。
それは約千八百年に渡るケレスメンティア史について、神話の時代から順に概要を解説した歴史読本だった。
「最近書かれたばかりなのね。著者は……ユーレン・バリエ? どこの国の人なのかしら」
名前からしてイクレムの人間ではないらしいが、それ以上は分からない。
本の発行者も著者の名が書かれているのみで、詳しいことは何も記載されていなかった。
或いは簡素な装丁からして著者が個人で小数部を発行したものなのかもしれない。
アナは十八頁もある目次に目を通すと、次に最後の索引を開いた。
そこにはとうに滅びた国や、失われた地名の数々、歴代女皇の名などが整然と並んでいる。
今まで見てきたどの本よりも詳細な索引に彼女の期待は膨らんだ。アナはぱらぱらと厚い本を捲ってみる。
「これを借りていこうかしら……」
どう見てもこの本はすぐに読める量ではない。
ここにあるということは既にセノワは読んだのであろうし、断りを入れれば少し借りることも出来るだろう。
アナは頁を捲る手を止めるとその本を胸に抱え込んだ。他にも借りていこうかと書棚に目を移しかけ―――― 何かに気づいて床を見下ろす。
「あら」
いつの間にか床の上に小さな白い紙片が落ちていた。
先程までは気づかなかったことからして本の間にでも挟まっていたのだろう。彼女は身を屈めてそれを拾い上げる。
裏返してみると紙片には小さな字でぎっしりと年表のようなものが書かれていた。
見覚えのある筆跡。セノワの字にアナは緊張を覚えて文字列を見つめる。

一行目は五百年前の大戦について書かれていた。当時の列強が入り乱れ大陸全土を戦火で染め上げた戦争。
だがあの大戦にケレスメンティアは確か直接関与はしていなかったはずだ。アナは自分が学んだ歴史の記憶を頼りに文字を追う。
そこにはケレスメンティアが参戦国のうち劣勢であった数国に物資を援助し、飢餓に陥りかけた民を救ったとの記述があった。
これが一体なんだというのか。アナはどんどんと年代を先に読み進んでいく。
その全てが大きな戦争についての記述で、ケレスメンティアが当時何をしていたかがセノワの字で補足されていた。
彼女が知らない些細なことまで列挙された紙片。
一見何もおかしなところがないそれらの記録に目を通していたアナが、何か引っかかるものを感じたのは、ようやく全体の半分まで読み終わった、その時だった。
「え? これって……」
一つ一つは何もおかしくない。いたって普通の、主観も入らない単なる書き付けだ。
けれどそれら全てを並べてみれば、セノワが何を洗い出す為にこれらを書き出したのか如実に見えてくる。
それは神の国と言われるケレスメンティアの――――



「アナ」
背後からの声。
食い入るように紙片を見つめていたアナは虚を突かれて硬直した。おそるおそる振り返る。
そこに立っていたのは離宮の主たる男だ。彼は彼女が握っている紙片に気づくと片眉を上げた。無言で歩み寄り、アナの指の間から紙を抜き取る。
「何処に忘れてしまったかと思っていた」
「殿下、それは……」
「単なる覚書だ」
「で、ですが、ケレスメンティアは、それではまるで……」
「アナ」
彼女の言葉を遮ったセノワは落ち着いた声音の中に、けれど静かな重みを込めていた。
語ることを拒む空気。その重さに彼女は遅ればせながら真実を悟る。
セノワはこれを知っていたからこそ婚姻の話を承諾したのだ。知っていたからケレスメンティアに向かうのである。
「神の国」と呼ばれ、畏れと威光を備え持つ皇国。そのもう一つの姿を知ってしまったアナは青ざめ沈黙した。
セノワは手元の紙片を一瞥すると、それを小さく畳んで袖の中にしまう。
「何故この本を? 読みたいものでもあったのかい?」
「わ、わたくしはケレスメンティアについて……何かおかしいと……でも」
「余計なことを調べるのはやめなさい」
「ですが殿下は、お調べになっているではないですか!」
彼女の声は悲鳴にも似て二人しかいない図書室に響き渡った。
隠されていた断絶を知らしめる静寂。生まれた空隙にアナは唇を噛む。
セノワを待っているものは単なる婚姻などではない。もっと孤立無援の戦いに似たものだ。
ケレスメンティアの側面を知りながら彼の国に一人向かうということは、つまり彼自らが間諜となるに等しいのだろう。
セノワはおそらく、自分の調べあげたことが真実かどうか裏付けが欲しいと思っている。
その為に彼は女皇の夫という地位に立とうとしているのだ。
アナは彼の未来を占める危うさに眩暈を覚えて、小さく頭を振った。
「殿下、おやめください。あまりにもこれは危険すぎます。もしこれが真実というのなら……」
「だが他にいない」
短い返答が何を意味しているのか、アナはいくつかの可能性を瞬時に考えつく。
しかし彼が言わんとしていることはそのどれでもなかった。セノワは彼女から視線を逸らすと、窓越しに空を見上げる。
「他の国々も気づき始めている。―――― ケレスメンティアは何かがおかしいのだと。
 しかし、その全てを把握し得るのはイクレムしかないのだ。私たちには『あの本』があるからこそ、明かされない真実も手に入る」
「……あの本?」



それは、何のことなのか。
思い出せそうで、どうしても出てこない。
アナは息を止め、薄れかけた子供時代を思い起こす。
胸が痛むほどはっきりと覚えているのは、ただセノワとの思い出だけだ。



困惑の視線を漂わせるアナを彼はじっと見つめた。
かつて在ったもの、失われたものを見つめる目。
そこには朽ちない記憶があり、思いが残っている。失ってしまった彼女と同じく、託された願いを抱えながら。
セノワは物悲しく微笑むと独り言のように呟く。
「君は本当に忘れてしまったのだね。アナ」
「殿下……?」
「私は覚えている。私は『忘れなさい』と言われなかったから。でも君は言われた通り忘れてしまったのだ」
彼が何を言っているのか、アナには分からない。そのようなことを言われたことなどない。
だがセノワは彼女自身よりもずっと彼女のことを知っているような目でアナを注視していた。
その双眸が「今」ではなくずっと遠い何処かを向いていることを、彼女はおぼろげに感じ取る。
そこに見えているものが何なのか。けれどそれは想像も出来なかった。
「君は勝気ではあるが素直な子だった。いつも兄上の言うことをよく聞いて、言いつけを守らないことはなかった。
 アナ、君は本当は私よりもずっと……兄上と仲がよかったのだよ。
 兄上が『忘れなさい』と言ったから、君はそれを忘れてしまっただけだ」
「王太子、殿下、が? わたくしに?」
フィレウスはアナの幼馴染の一人であった。そのことは覚えている。
ただそれは「知識」として覚えているのであり、何故か彼との思い出はほとんど思い出せない。
だから単に、フィレウスとは大して親しくもなかったと思っていたのだ。アナは三本の指で額を押さえる。
「兄上は私たちによく本を読んでくださった。君が私に聞いたと思っている話の半分は、実は兄上が読んでくださったものなのだ。
 君の父が君を兄上に嫁がせたいと考えるのも当然だろう。
 それくらい二人は親しく……私は後から割り込んできた人間に過ぎなかった」

その時のセノワの表情は、アナが見たこともない苦渋に満ちた微笑だった。
亡き王妃によく似ていると言われる彼は、柔和な美貌を自嘲で染め上げ溜息をつく。
それだけの仕草が、何よりも孤独を感じさせるのはどうしてなのだろう。
彼に差す影の原因が、アナの忘れた「記憶」にあるのか、「忘れてしまったこと」自体にあるのか、覚えのない彼女は答を出せない。
無言を保つアナに、セノワは「失っていない」過去を語り続ける。
「だが兄上はいつまでも私たちと遊んではいられなかった。
 急遽王太子になることが決まり……私たちそれぞれに最後の言いつけを残していったのだ」
「最後の……言いつけ?」
「ああ。私には君に新しい話を読むことを。そして君には『あの本』を読んでもらったことを忘れるようにと。
 そして私たち二人ともに、相手を労わり大事にし続けるようにと言いつけ、兄上はこの離宮に来なくなった。
 君は今日までその言いつけをよく守ってくれていたよ。度々私のもとを訪ね、孤独を和らげてくれた。変わらず親しくしてくれたのだ。
 本についても―――― 子供だった君は聞いた話を父親に教えても、本のことだけは誰にも言わなかった。
 いや、忘れていたのか…………。君は兄上の願いに応えた」



何も、心当たりなどない。
だが言われたアナは頭の何処かが痛む気がして、浅い息をした。
記憶の中の「少年」がセノワなのかフィレウスなのか分からなくなる。
子供の自分が何を考えていたのか。アナは途端に過去を、そこから続く想いを見失った気がしてセノワをじっと見上げた。
「殿下、わたくしは」
「何も言う必要はない、アナ。君のせいではないのだから。
 けれどもう充分なのだよ。君は充分私の為に多くを費やしてくれた。
 この離宮において、いつでもひたむきな君が私の『外』そのもので、慰めだった。
 感謝してもしきれない。むしろ詫びたいと思っている」
「詫びなど……そう、したかったのです。殿下、わたくしが自分で……」
彼に淋しい思いをさせたくないと思った。いつか外に連れ出したかった。
それは彼女自身の願いで、誰かに強いられたものではない。
だがもどかしくもそう伝えようとするアナにセノワはゆっくりと首を横に振る。その仕草は穏やかでありながら、彼女に静かな拒絶を感じさせた。
「違う。君がここに来ていたのは、兄上が私を一人にしないよう頼んだからだ。
 君が大事に思っていたのは兄上で、私には同情を向けていたに過ぎない。
 だが、アナ。私は私の役目を得てここを去る。願ってもいないことだ。このような私でもまだ国の役に立てるというのだからね。
 私は望んで外へと出て行く。だから君も―――― もうここに来てはいけないのだ」
「殿下」
言葉が喉につかえる。
多くの言いたいことが、けれどどうしても出てこない。
あまりにも多すぎるそれらはセノワによって蓋をされ、そのまま二度と取り戻せない海底へと沈められていくようだった。アナは睫毛を震わせて唇を噛む。



いつか終わりが来るかもしれないとは思っていたのだ。
だが予想出来たものは身分差がもたらす終わりであって、このように思いの捩れによって別たれる日が来るとは、考えたこともなかった。
信じられないことが多すぎて、夢ではないかとさえ疑いたくなる。



どのような時でも涙を見せなかった彼女の泣き出しそうな顔に、セノワは一瞬息を詰める。
だが彼は何も言わぬまま踵を返すとその場を立ち去った。取り残されたアナは夕日の差し込む図書室に立ち尽くす。
確かに一歩一歩を歩んできたと思っていた過去が、振り返ればいつの間にか穴だらけだ。
その穴に何を落としてきてしまったのか、彼女は取り戻せない自分を思って椅子に座り込んだ。
そのまま長い間虚脱していた彼女は、だから自分を見つめる闇色の目が窓の外にあったことを知らない。
今は平凡な少女姿の魔女が「なら本は王太子のところですか」と呟いたことも、アナはついに知らないままだったのだ。