神に背く書 08

mudan tensai genkin desu -yuki

寝台脇に置かれた燭台が淡い光を洩らしている。
温かな暖色でありながら温度のない光。魔法で灯した燭台は宿の室内をほんの一部、おぼろげに照らし出していた。
机に置かれたペンや本は黒い影を伸ばし、侵食する夜とそっと繋がっている。
近くの露店で買った鳥の置物は僅かに傾いて物憂げな表情を宿していた。
小さな寝息だけしか聞こえない静寂。
寝台の上、横になっていた男は燭台へと手を伸ばす。軽く指を弾いて光を消した。
この燭台は宿に元からあったものではない。彼の妻が即席で作ったものだ。
この大陸では魔法具は総じて高価であり、彼らは旅の中でしばしばそれを利用してあちこちに入り込んでいた。
男は窓から差し込む月光を頼りに掛布を引くと女の白い肩にかける。
「……オスカー?」
「何だ。起こしてしまったか。悪い」
よく眠っていると思って明かりを消したのだが、ティナーシャはそれ程深く寝入ってはいなかったらしい。
魔女は男の腕の中で小さく欠伸をすると白い肢体を起こした。半ば夢の中にいるのか蕩けるような笑顔を見せる。
ここ数日、顔を変え年齢を変え離宮に入り込んでいた彼女は、変化の魔法のせいか身体的に疲労を溜めていたようである。
本来の体に戻った時からしきりに伸びをしており、今もしなやかな両腕を上げて猫のものに似た鳴き声を上げていた。綺麗にくびれた腰にオスカーが手を伸ばすとくすぐったがって身を捩る。「やめてください」と言いながら再び隣にもぐりこんできた彼女に、男は声を上げて笑うと小さな頭を撫でた。
「大人姿のお前は最近珍しいからな。つい触りたくなる」
「好きで外見変えてるんじゃないですよ。肩凝るんですから」
「だが上手くすればもうすぐ帰れる」
その言葉に魔女は息を詰めて男を見上げた。闇色の瞳が月光を映して揺らぐ。
夜よりも深く広がりを持つ魔女の双眸は、長い年月にもかかわらず始まりと同じだけの感情を擁していた。彼女は細い指を伸ばして夫の顔に触れる。
「帰れますか」
「そろそろ、な。話を聞くだに当たりの可能性が高い」
「私、帰ったらゆっくり眠りたいです」
「お前は今でもしょっちゅう寝ているぞ」
事実を指摘するとティナーシャは何が面白いのか喉を鳴らして笑った。体を返し彼の上に乗ってくると裸の両腕を男の首に投げかける。
「でもあるとしたら王太子のところでしょう? 何処かに隠していたらどうします? 部屋ごと破壊しますか?」
「それをして壊れたところを確認出来なかったらどうする……」
瓦礫の下に埋もれるくらいならまだしも、消滅したことに気づかなかった場合は「破壊した」という確定が得られない。
少なくとも彼ら自身で本が本物であるか確かめ、その後手元でそれを破壊しなければならないだろう。
ティナーシャは甘えるように男の体に軽い口付けを降らせた。若い恋人のような仕草の中、目だけは深淵そのものの底知れなさを孕んで笑う。
「ではどうやって? 操作して本を差し出させますか?」
「操作が充分に効かない可能性もあるからな。本が先に支配していると面倒だ。―――― それよりもっと簡単な手段がある」
「何でしょう」
「セーロンがイクレムに向けて軍を挙げたそうだ。まもなく戦が起こる」
端的な答。
セーロンとはイクレムの前に彼らがいた国の名だ。
そこで出会った暑苦しい性格の庶子王子を思い出したのか、ティナーシャは微妙な表情になった。
だが彼女はすぐにオスカーが何を狙っているのかを悟ったらしく、得心の声で相槌を打つ。
「ではそれで終わりですね。私がやりましょうか?」
「いや。俺が行く。お前はあの本に書かれているらしいからな。『クルシアを傾けた魔女』と」
「向こうが先に手を出してきたくせに物は言い様ですよね。どうせ延々文句を言われるなら城を破壊すればよかったです。
 ……まぁ、では私は掃除でもして待ってましょう」
「寝ててもいいぞ」
黒髪を引きながら男が笑うと魔女は唇を尖らせた。
妖艶な姿ながらも月光のような清冽さを残す女は、細い肩を竦めると男の胸に躰を預けて目を閉じる。その瞼の上に手を置いて彼は嘆息した。
かつて王であり妃であった一対は、今はまだ月影の下沈黙し寄り添う。
けれど彼らが異質な力を以って歴史の上に現れる時、その時人々は世界が擁する可能性の無限を、畏怖と共に知ることになるのだ。






夜の草原に張られた野営の天幕。
防寒の厚い布が区切る空間は、城の広間程に余裕を持って人々を包み込んでいる。
夜露も入り込まぬよう徹底して閉鎖された内部は、派手な装飾こそないが落ち着いた色合いの棚や長椅子が置かれ、人をくつろがせるに充分な雰囲気を湛えていた。天幕いっぱいに広げられた深い紅色の敷物。長い毛足の上には大きな机が配され、ここ一帯の地図と十数枚の書類が広げられている。それら書面を囲む六人の男と一人の女は、各自視線を机上に垣間見える戦場に集中させていた。
七人の中でもっとも若い青年―― 身分の高さを窺わせる上質の服を纏った彼は、ふと顔を上げると周囲を見回す。
明るい緑の双眸が、怪訝な表情の将軍たちを順に捉えた。
「いかがなさいました、殿下」
「いや。誰かに呼ばれたような気がした。気のせいか?」
「気のせいでございましょう」
即答され青年は憮然となったが、瞬時に気を取り直すと夜空ではなく白い布が作る天井を見上げる。
穏やか、というには無駄に熱がありすぎる声が零れた。
「おそらくユリア殿が私のことを考えてでもいるのだろう。どうせなら遠くから想うのではなく直接会いに来て欲しいものだが」
「それはありません」
きっぱりとした二度目の即答は、彼の隣にいる若い女からのものである。
彼を除いて男全員が思っていても、さすがに言えなかった事実を口にした彼女は、王家に代々仕える魔法士の一人だった。
青年は拗ねたような目で彼女を睨む。
「エル。そんなことはないだろう。ユリア殿は確かに私を好いてくださっていた」
「いえ、非常に迷惑そうでした。明らかに逃げ出していました。
 それに気づかず間男のような真似をされて……殿下にお仕えして十八年、あれ程恥ずかしかったことはございません」
「安心しろ、エル。次は負けない」
「次がなければいいと思っております」
セーロン国現王の庶子である彼、アリスティドは民に人気の高い王子である。
その理由は身分に捕らわれない気さくさにあるのだが、それにしても限度というものは存在するのだ。
二月程前、西の大陸からやってきたという美しい精霊術士に入れあげ彼女に散々つきまとった上、その連れの男に決闘を挑んで敗北した。―――― どうしようもない彼の失恋を、この場にいる誰もがまだ忘れていなかった。もっともアリスティドは「失恋している」という自覚自体がないらしいのだが。
「しかし、ユリア殿ではないとすると……フィレウスか? 己の非を認める気になったとでもいうのだろうか」
「ですから、誰も殿下をお呼びしておりません。意識を会議にお戻しになってください」
「大丈夫だ。フィレウスは妙に先読みの出来る奴ではあるが、軍を動かすのは私の方が得意だ。がつんと殴って間違いを正してやる。
 ケレスメンティアの衣の下に入ることがどれほど誇りない行為であるかを……」
熱く握り拳を作ってあらぬ方向を見据えるアリスティドを、今度は誰もが止めない。
代わりに「何とかしてくれ」との無言の視線がエルの上に集まると、彼女は大きく溜息をついて……ただ気だるく首を横に振ったのだった。