神に背く書 09

mudan tensai genkin desu -yuki

強い日差しは周囲に植えられた木々の葉が遮ってくれる。
青々と輝く葉は短く刈り込まれた草の上、不揃いな影を落とし込み、ちょっとした彩を加えていた。
だがそれらが作り上げた木陰にもかかわらず、風のない蒸した日は少年の少ない体力をじりじりと削り取ってしまうようである。
セノワは額に滲んだ汗を手の甲で拭った。
少しだけと散々医師に念を押され許された散歩だが、これ程外が暑いとすぐに持たなくなってしまいそうだ。
彼は浅い息を繰り返しながらすぐ上の兄に教えられた場所へと向かった。低木をかき分け、奥へと踏み入る。
「……ねぇ、つづきは? つづきがききたい」
木々の向こうから聞こえてきたのは幼い少女の声である。
セノワは聞き覚えのある声に体を震わせ足を止めた。兄の声が少女に答える。
「続きはないんだ。書かれているのはここまで。後は知らない」
「なぜ? ふたりはそのあと、どうしたのかしら。しあわせになれたの?」
「知らない。それはもう歴史の話じゃないんだ、アナ」
フィレウスは彼女からの同じ質問に慣れきっているのだろう。あっさりと切り捨てると「次は何の話がいい?」と尋ねた。
しばらくの後に少女の声が「おひめさまのはなし」と返す。兄が「またか」と呟く声が微かに聞こえた。

―――― さっさと二人の前に出て行けばいい。
ちょうど話も区切りの時なのだ。会話に加わるなら絶好の間であろう。
けれどセノワは何故かその場から動けずにいた。一人だけ脆弱な体に悩まされる自分が、二人に比べて何だか場違いな存在に思えて仕方なかったのだ。
よく兄と一緒にいるらしい少女、先日彼の手を取って城から連れ出してしまった無邪気な女の子の笑顔を思い出す。
あの時彼女は子供らしい純粋さと好奇心でセノワと共に逃げ、そして彼の話にひどく心を痛めていた。
セノワの瞳を正面から見つめ「かわいそうね」と零された言葉。―――― それは彼に焦燥と疼くような痛みを今も与え続けている。

「そして囚われの姫は騎士の手によって助け出され……」
「きし? きしって何?」
「騎兵。馬に乗って戦う人間のことだ。アナも城で見たことがあるだろう」
「あぁ……」
少女の声には得心の響きがあった。
城の訓練場で鍛錬に励む彼らの姿を思い出しでもしたのだろう。セノワはそう思ったが、彼の予想は次の瞬間思いもよらない方向へと裏切られた。
何の力もない少女。
無垢で残酷で、何の不幸も知らない恵まれた彼女は、希望に弾む声で「ならわたしは、きしになるわ!」と宣言したのだ。
彼女の言葉に驚いたのはフィレウスも同様だったのだろう。数秒の沈黙の後、聞き返す声が続く。
「何故? 貴族の娘は普通騎士になどなる必要がない」
「だって、きしならばセノワをたすけられるでしょう? だったらわたし、それがいいわ」
「アナ……」

セノワは動けない。
ただそれでも、彼女の顔を見たかった。外の可能性を象徴するような彼女の笑顔を。
彼女はまだ何も知らない。世のままならなさや制限やそれに従わざるを得ない人々について、何一つ分かっていない。
子供の戯言でしかない言葉だ。遠くない将来彼女は壁に突き当たり、己の他愛無い望みを諦めざるを得なくなるだろう。
けれどその言葉は望みを抱くことさえ躊躇うセノワにとって――――






セーロンが北西の草原に布陣したとの連絡は早々にフィレウスの執務室へともたらされた。
イクレムがケレスメンティアへ婚姻を打診したことに対し、セーロンからの抗議と見られる突然の出兵。
だがあらかじめそれを知り得ていたフィレウスは、既に近くの砦へと移動させていた軍に迎撃の為の出陣を命じる。その上で最低限の執務を済ませてしまうと、彼は自身も戦場に移動するため部屋を出た。護衛の兵士を従えながら一旦自室へと戻る途中、見覚えのある人影をみとめて足を止める。
騎士の正装を纏った彼女は明らかにフィレウスを待っていたようだった。彼は冷ややかな目でその意図を問う。
「そこで何をしている、アナ」
「お忙しいことはよく存じ上げております。ですが殿下、ほんの少しお時間を頂けませんでしょうか」
「そのような時間はない。今我が国がどういう状況にあるのか、お前も分からないわけではないだろう」
「分かっております。であればこそのお話です。殿下」
普段は騎士として凛とした空気を纏っていながらも、年相応の少女らしさを残していた彼女。
だが今の彼女には何故かその「甘さ」が見られなかった。
心持ち低めの声に感じ取れるのはただ覚悟のみで、そこに惑うばかりの少女は見られない。
フィレウスは逡巡したが、兵士たちを下がらせると一人でアナに向き直った。険しい表情のまま年若い騎士に問う。
「何だ? 何の話だ」
「セノワ殿下の婚姻の話をお取りやめになってください」
「またそれか」
折角耳を傾ける気になったというのに、彼女は相変わらずセノワしか見ていないらしい。
時を弁えず前しか見ない彼女にフィレウスは怒りさえ覚えかけたが、彼の苦言が注がれるより先にアナは軽くかぶりを振った。今現在、祖国に迫っている危機について言及する。
「セーロンの出兵はケレスメンティアとの婚姻に異議を唱えてのことでございましょう。
 ならば、この話がなくなればアリスティド殿下は兵を退かれるはずです。無用な被害を出さずに収められます」
「本気で言っているのか? セノワがケレスメンティアに向かうことは既に決定事項だ。
 あれが皇国に入ることこそがイクレムにとって重要な利益を生む。今更取りやめることなど出来ない」
「分かっております。ですから、ケレスメンティアにはわたくしが向かいます」
「……何だと?」
今彼女は何を言ったのか。
フィレウスは先日彼女が述べた、似て非なる希望を思い出そうとした。セノワと共に行きたいと、ただそれだけの愚かな願いを。
しかしアナははっきりとした口調で新しい希望を告げる。
「セノワ殿下がケレスメンティアに入る本当の目的は、あの国の調査でございましょう。
 イクレムにはケレスメンティアの庇護など必要ない。欲しいのはただ『これから起こりうること』の為の情報でございますね?
 それを得る為には地位があり、フィレウス殿下からの信が篤く、いざという時の危険も覚悟出来る人間が必要」



滔々とした指摘。アナが並べる内容は、フィレウスが秘している思惑の真を突いていた。
だが彼自身これを話した相手は父と弟のみ。そしてそのどちらもがアナに本当のことを明かすとは思えない。
ならば彼女が自分で何かしらの真実にたどり着いたのだろう。
フィレウスは、アナが幼い頃の記憶を思い出した可能性に気づき青ざめた。
厳重に口止めをした「あの本」のことを……彼女は今、思い出しているのだろうか。それを確認することは躊躇われる。



「ですからその役目は、わたくしが担います。
 わたくしも公爵家の娘。ケレスメンティアの大貴族なり神職の家なりに嫁いで皇宮に入ることは可能でしょう。
 殿下のお知りになりたいことを必ずや手に入れて参ります。どうぞわたくしをお使いください」
決然とした声に迷いは感じ取れない。
フィレウスは顔を逸らし溜息をつくと、再び彼女を見た。自分でも先の分からぬ苦い声音が彼女の名を呼ぶ。
「アナ、お前は……」
そこまで言って彼は息を止めた。
幼馴染の少女の瞳に、揺らぐ不安を見出し言葉を失くす。
どうやって真実にたどり着いたのか。だがアナはまだ己の推論に確信を持っていないのだ。
分からないまま足掻こうとしている。「騎士」の意味さえも知らなかった、幼い頃と同じように。



本当に大切だったのは何なのだろう。
かつて彼ら三人が時を共有したあの時代。
弟と少女の二人に「互いを大事にしろ」と言ったのは、このような岐路を迎える為のものだったのか。

―――― だがそれでも、もっと優先すべきことが、今は在る。



「無理だ。アナ。お前ではセノワの代わりになれん」
「殿下」
「第一口だけで婚姻を取りやめたなどと言ってもアリスティドは納得しまい。もっと明らかな証拠を見せつけでもしない限りはな。
 アナ、お前に出来ることなど何もない。早く父親のもとへと戻れ」
彼女は何も覚えてはいない。忘れてしまったのだ。彼が言いつけた通り、素直な心のままで。
だがそれでも今、自分なりに調べ、もがき、真実へ近づこうとしている。
そうして幼かった少女は騎士にまでなったのだ。けれどフィレウスにとってアナは無知で無力な少女のままであり、彼女一人をケレスメンティアに送り出すことなど到底考えられなかった。いつも通りの突き放すような言葉にアナは表情を硬くする。
「騎士になったというその努力がお前の目を晦ませているのなら、騎士の位などいつでも剥奪してやる。
 思い上がるな、アナ。お前に為し得ることなど何もない」
そう言い放ちながら、フィレウスは胸元に忍ばせた封書を取り出していた。
―――― いつ誰に渡す為、このようなものを用意したのか。
それは彼自身の中でさえ定まっていない。きっとただの保険のようなものだ。
フィレウスは微かに震えて沈黙する少女に向かい封書を差し出す。
「離宮を警備する衛兵にもお前を入れないように命じておいた。……頭が冷えるまで家で大人しくしていろ」
アナの小さな手がかろうじて封書を受け取った。それを確認すると彼は少女に背を向け長い廊下を歩き出す。
背後で微かな少女の声が彼を呼んだ。
「殿下、怪しい男が『秘された歴史』を知ろうとしています。どうかご用心を……」
「……何のことだ? 心当たりがない」
フィレウスは訝しさを押し殺すとそれだけを返した。
そのまま二度と振り返ることはない。彼の見るべきものは傍にも背後にも存在しない。
ただ、長兄の死によって王太子にならざるを得なくなった男が、置いてきた過去において弟と小さな少女に何を望んでいたのかと言えば―――― それは彼女に渡した封書一つくらいの、ささやかなものなのかもしれなかった。






低い山の裾から緩やかに傾斜して広がる大草原。
イクレム国境内に入ってすぐの緑の大地を、男は穏やかな風の吹く空中から悠然と見下ろしていた。
蒼い瞳が捉えるものは北西から北にかけて布陣したセーロン軍と、迎撃の為布陣を開始したイクレム軍の二つ。
特にイクレムの布陣を確認すると彼は苦笑する。
「やはり当たりか。転移陣を使っていないにしては布陣が早すぎる。あらかじめ読んでいたな」
間諜をセーロン軍に潜入させているにしては連絡を入れたらしい動きも、魔力の波動も感じられない。
ということはイクレムは「何らかの手段」でセーロンの布陣を把握していたのだろう。その手段を探しているオスカーは、イクレムの本営の場所を上空から目で確認した。今はそこに王太子はいないようであるが、軍同士衝突が起きる頃には指揮官である彼は間違いなくそこにやってくるだろう。そしてオスカーはその到着を待っているのだ。不可視の結界を張って空に立つ男は不敵な笑みを浮かべる。
「本の力に慣れきった人間なら尚更、戦において本を使おうとするだろう……。
 だがそれももう終わりだ。入り込んだ異物は排除させてもらう」
異質なる男の宣言に、だが畏怖を抱くことの出来る人間はこの場にはいない。
そして人ならざる力を巻き込んだ闘争の幕は人知れず開けられることになるのだ。