神に背く書 10

mudan tensai genkin desu -yuki

フィレウスに軽くあしらわれたアナは、失意のもとに城を下がると屋敷へと戻った。
父親に見つからぬようまっすぐ自室へと入り、着ていた服を自らの手で乱暴に脱ぎ捨てる。
「……っもう! どうして!」
ようやく当事者になり得る、その糸口を掴んだと思ったのだ。
今始まりつつある戦を未然に止めさせ、セノワの身をも危険に曝さずに済む策。
何も自分にセノワを越える程の機転や知識があると思ったわけではない。
ただこの状況でもっとも被害を抑えられ、かつケレスメンティアへの侵入も諦めないで済む策はこれしか思いつかなかったのだ。
だが必死に考えた彼女の願いは脆くも打ち崩された。
彼女の身分が潜入に足りぬから、というわけではないだろう。ルニアディ家はイクレムでも有数の名門だ。
だからおそらく、アナ自身の力量が任せるに足りないと思われたのだ。彼女は奥歯をきつく噛み締める。

フィレウスは冷徹な王太子である。
だからこそセノワをあのような婚姻の贄にあげるのだと、彼女はずっと思っていた。
しかし過去の話が本当なら、彼にはきっと弟を思う心がある。
そしてその気持ちが通じるなら、アナは自分の提案が受け入れられるのではないかと思ったのだ。
だが結局返って来たのはいつも通りの反応だ。
国を優先し、もっとも確実な橋を渡ろうとするフィレウスにとって、アナの提案など児戯にも等しいものにしか見えなかったのだろう。
本当に忘れてしまった過去などあったのだろうか。
あったとしたらフィレウスは……何を思って彼女に「セノワを大事にしろ」などと言いつけたのだろう。

もう何も出来ることなどない。
セノワにも、フィレウスにも拒絶されてしまった。力ない自分の手は砂一粒さえ掴めない。
何の為に今までの手の皮を破り続けてまで剣の稽古を続けてきたのだろう。
色々とままならない悔しさに、アナは右腕を思い切り振りかぶると寝台の上に上着を投げ捨てた。
そのまま自分の体をも投げ捨てたい衝動に駆られ―――― だが彼女はふと、上着からはみ出た封書に気づいて我に返る。
あの時フィレウスに渡された封書。おそらく騎士位剥奪の書類か何かだろう。
あまりにも自分が情けなくて開けぬまま帰ってきてしまったが、王太子に渡されたものを見ないわけにはいかない。
彼女は厚い皮に覆われた指を動かし封を切った。畳まれていた紙を広げ、目を瞠る。
「これは……」
呆然としたのは僅か数秒。彼女は身を翻すと脱ぎ捨てた服を再び身に着け始める。
そうしてアナは最後に剣を手に取ると、封書を懐に部屋を飛び出していったのだった。






武装を整えたフィレウスは、宮廷魔法士が用意した転移門を使い戦場へと移動した。
イクレムでは軍まるごとを転移させるなどということは擁する魔法士の人数からいって不可能だが、要人だけであればそれが叶う。
生温い風の吹く草原。展開した軍の本営として準備された天幕の中に彼は護衛兵と共に入った。
二十人程ならば狭さも感じずに立っていられる天幕は、元は遊牧民であるセーロンのものよりは張られた布も薄く簡単な作りであるが、外と内を遮断しこれからの方針を話し合うには充分なものだった。緑の本を左手に開きながらフィレウスは地図を覗き込む。
「こちらが風下か。とは言っても地の利はどちらにもないな。そういう場所を選んだのだろう」
「セーロンが、でございますか?」
「アリスティドがだろう。そういう奴だ」
彼がイクレムに留学していた頃は、フィレウスもよく正々堂々などと言われ剣の勝負を挑まれていたのだ。
アリスティドは権謀術数には疎いが、剣術や戦術には長けている。
向こうの希望通り正攻法で挑めば被害甚大は避けられないことだろう。フィレウスは上体を引くと手元の本に目を落とした。
「……セーロンはもうしばらくで左翼から動かし始める。その時を狙って左翼を叩こう。
 本営を討ち取る必要はない。向こうに『充分交戦した』という印象を与えれば充分だ」
再三の話し合い要請にも応じなかったアリスティドに対しフィレウスがそう指示すると、将軍たちの何人かは苦笑を洩らした。
彼らは他にもいくつかの打ち合わせを済ますと天幕を出てそれぞれの配置へと散っていく。
そうしてもっとも後方にあたる本営において、自身も馬上の人となったフィレウスはだが、動き始めた軍を見渡しながら本に視線をやり
―――― そこに浮かび上がってきた記述に絶句してしまった。
起こった歴史を淡々と書き留めていく神の書。
その最後にはこともあろうに『イクレム城都の離宮が襲撃される』との一文が、新しく記されていたのである。



道具は道具でしかない。
それを十全に生かす為には、人の力が必要になってくる。
だがフィレウスはそのことを分かっていながらも、結局は「本」の力に依存し他が見えなくなっていたのだろう。
シャーヒルからの暗殺の手はとうに退けたと思っていた。
けれど実際あの周到な王は、己との関係に気づかれないようにか、その準備が「本」にも現れない程の小さな組織いくつかに依頼し、セーロンが攻めてきた時を狙って離宮を襲撃させたのだ。襲撃が成功したことによって加えられた記述を読み、その実情を見抜いたフィレウスは音を立てて歯軋りする。
「誰か! 城に連絡を取れ! 離宮に兵を回せ! すぐにだ!」
咄嗟に叫びながら脳裏に浮かんだのは、弟と少女の姿だ。
早く手を打たねば彼らの命はない。そしてこれは、自分の甘さが招いた危機なのだ。
ケレスメンティアを探る途中でセノワの命が危うくなろうとも、それは国の為に尽力してのことだ。まだ何もしていない「今」とは事情が異なる。
フィレウスは弟がずっと何かを成し遂げたいと願っていたことをよく知っていた。
自身の脆弱さに自嘲を感じながら、それを払拭するほどの使命と充足をセノワはずっと望んでいた。―――― だからこそフィレウスは逡巡を押し殺し、たった一人の弟にあの役目を振ったのだ。
それは決してセノワを無為に死なせる為ではない。勿論アナも。

「早くしろ! 城に残る騎士全てを動かせ!」
既に離宮の中には暗殺者が複数侵入している。フィレウスは本の記述を食い入るように見つめながら叫んだ。
言いようのない恐怖。
今ここが戦場であることも、セーロンのことも、瞬間どうでもよいことのように忘れ去った。
そうして熱くなった頭が己の叫びを聞きすっと冷めかけたその時、彼は部下の応答が聞こえないことにようやく気づく。
何故返事がないのか。魔法士が控えているはずの背後を振り返ろうとしたフィレウスは、しかし突然横から伸びてきた手にぎょっとすると身を引いた。
まるで異物のようなその手はあっさり彼の膝上から本を取り上げる。
「随分慌てているようだな」
涼やかな声。
本を手に取った男は、秀麗な容姿に皮肉げな微笑を湛える。
優雅とも言える物腰。男の両足は草の上にはなく、馬上のフィレウスと同じほどの高さの空中に佇んでいた。右手には両刃の長剣が握られている。
それは、白昼夢のように非現実な光景だった。
いつの間にか周囲にいた護衛たちは一人残らず姿を消しており、至近にはこの男しかいない。
前方で進軍を続ける者たちも、後方で起きているこの「異常」には何故か誰も気づいていないようだった。



何処から、どうやって現れたのか。
イクレムの人間であるはずがない。そして、尋常な魔法士でも。
この男は、もっと違う何かだ。存在するはずもない逸脱した――――
「……どうやら当たりのようだ。これで『彼女』にも報いられる」
緑の本を片手で探りながらの呟き。
意味の分からぬその言葉を聞いたフィレウスは、けれど本能によって硬直する。
―――― 本を取り戻さなければならない。取り戻して、セノワの無事を確かめなければ。
そう思いながらも動けぬ彼の脳裏には「怪しい男にご用心ください」と忠告したアナの声が、今更ながら虚しく響いていたのだった。






物の焼ける匂いが鼻をつく。
身を屈めて黒煙を避け、廊下から図書室へと入り込んだセノワは扉を閉めた。まだ煙の入り込んでいない室内を見回す。
突然の襲撃に彼の住む離宮が襲われたのは、つい十五分程前のことだ。
複数の侵入者たちに衛兵が殺された。その直後に内側から火が放たれたのだ。
もともと暗殺の危険性があるとして厳重になっていた警備をかいくぐり襲ってきたのだから、相当な手練が混じっているか計画が秀逸だったのだろう。
フィレウスが不在の時を狙ってくるところなどさすがに徹底している。セノワは痛む肺を押さえ苦笑を零した。武器の一つも携えていない己の身を顧みる。
「参ったな……。追い詰められたか?」
―――― 彼らには「あの本」があるが、あれは決して万能ではない。
それは当然のことで、今自分の命が危険に曝されているこの事態を、セノワは兄のせいだとは決して思わなかった。
ケレスメンティアとの婚姻の話を受けてから、いつかこのような日が来るかもしれないとは考えていたのだ。
ただここで死んでしまえば兄がどれだけ後悔するか、そんなことだけが幾許か心配だった。
「あと十五分も粘れば、何とかなるか?」
放たれた火はセノワを逃がさない為、また外部からの突入がしづらくする為のものであろうが、逆に言えば煙で城が異常に気づいた可能性は高い。救援が来るまでの間持ちこたえられれば活路は開けるだろう。
セノワは本棚の中から他の本の三倍ほどもある辞典を取り出した。頁をくりぬき中に忍ばされていた短剣を手に取る。
彼も王族として最低限の剣の修行はしたが、形ばかりのものだ。実戦はおろか試合もしたことがない。
こんな短剣で戦闘技能者と戦えるとは思ってもいなかった。ただないよりはあった方がましというくらいのものだろう。
セノワは書架の影に隠れて息を潜める。
図書室の扉が開けられ、複数の足音が駆け込んできたのはその直後のことだった。
口数の少ない彼らは、だが空気からして城の人間ではないと分かる。セノワは緊張に体を固めた。
気配からいって入ってきたのは三人だろうか。足音の一つが彼の隠れている方に近づいてくる。
いくら分散しているとはいえ、正面から向かっていって勝てるはずがない。勝機があるとしたら相手の不意をついた時だろう。
セノワは書架の影にぴったりと体を重ねると耳をすませる。
規則的な足音から距離を計り、その時を待った。
―――― そして目の前を黒尽くめの男が通り過ぎる。

刺客が本棚の影を覗き込もうとするその瞬間、セノワは無言で短剣を振るった。
予期していなかったであろう攻撃に、覆面をした男は胸を刺され数歩よろめく。
「こ、この……!」
だがそれでも人を狙ったことのない彼の剣は急所を外していたらしい。蹲りながらの男の怒声に図書室内の空気は一変した。セノワは短剣を握ったまま男の横をすり抜けて入り口へと走る。
追いつかれれば命はない。相手は複数だ。とにかく廊下に出るしかない。セノワは視界の隅に追いかけてくる人影を見ながら扉へと向かう。
けれどそこに到達するより早く、横合いから銀色の軌跡が飛んだ。彼は咄嗟に身をかがめて暗殺者の剣を避ける。
死角からの攻撃。これを食らわなかったのは彼からすれば奇跡と言っていいだろう。
セノワは体を起こそうとして、しかし足に走る激痛に膝をついた。見ると脹脛に小さな短剣が深々と刺さっている。
「く……ッ」
目の裏が赤く感じられるほどの痛み。
だがそんなものに拘泥していられる場合ではなかった。セノワは短剣を引き抜くと立ち上がろうとする。
しかし黒尽くめの男たちはそれを許してくれるほど寛大でも鈍重でもなかった。誰何の声もなく抜かれた長剣が彼の頭上に振りかかる。



子供の頃、彼はよく自分が死ぬ瞬間について考えていた。
おそらく病によって死ぬのだろう。死の床につき、一人そっと息を引き取る。
―――― その時一体自分は何を考えるのだろうか。
少年は未来において待っている最後の一瞬に、ただ怖れと好奇心を抱いてやまなかった。

『所詮それだけの人生だ』
一時は口癖だった言葉をいつからか口にしなくなったのは、それを聞いたアナが悲しそうな顔をするからだったろうか。



長剣は風のように鋭く動いた。
狙いを違わずセノワの命を絶とうとしていた剣を弾き、それを持った男の喉を切り裂く。
そのまま剣は二人目の刺客に向けられると、相手が短剣を投擲しようとするより早く腕を貫いた。短い苦痛の悲鳴が高い天井へと響く。
けれどそこでは止まらない。素早く引き抜かれた剣は、放たれた矢の如く男の胸に突き刺さる。
そうして瞬く間に二人の男を絶命させた彼女は、煤だらけの顔で振り返ると微笑んだ。
「遅くなりました。殿下」
「……アナ」
差し出された手は血に濡れて、微かに震えている。
ここに来るまでの間怪我を負ったのだろう。騎士の正装はあちこちが切り裂かれ、血が滲んでいた。
しかし彼女は何の痛みもないかのように笑顔を見せる。
「お守りします。殿下。わたくしが必ず……」
他愛もない子供の約束。
けれど彼女はそれを守ろうと一人走り続けてきたのだ。
誰に褒められずとも、まるで今この時、彼の手を取る為だけに努力してきたかのように。

セノワは黙って少女の手を握る。
はじめて生垣越しに触れた手とは違う、皮も固くなり血に濡れて罅割れた手を。
貴族の娘のものとは思えない、手袋もしていない小さな手。
けれどそれはあの時と変わらず彼の胸を熱くさせる、かけがえのない温もりだったのだ。