神に背く書 11

mudan tensai genkin desu -yuki

体のあちこちがじくじくと痛む。
それは火傷や何度かの交戦でついた傷の為であったが、高揚するアナの意識を冷ますほどのものではなかった。
彼女はセノワの怪我に応急手当を施すと、足を負傷した彼に肩を貸し図書室を出る。煙の立ち込める視界の悪い中を、壁伝いに先へと進んだ。
前を警戒するアナに代わり背後を窺いながらセノワが問う。
「どうやってここへ? 出入り口は燃えていただろう?」
「王太子殿下に隠し通路の地図を頂きました」
あの時フィレウスから渡された封書の中身は、離宮への隠し通路を記した地図だったのだ。
まだこの襲撃が起きる前に託された地図。彼が果たしてこの事態を予測していたのか、もっと異なる何かを期待していたのかアナには分からない。
だがそれは結果として幸運に繋がった。城都の隅の空き家から通路に入った彼女は、離宮に入ってすぐ異常事態に気づき、まさに刺客の手にかかろうとしていたセノワを助けることに成功したのだ。
「こちらへ、殿下。外に出られる通路がございます」
初めての実戦。それは守らなければいけない存在と相まって彼女の手足に震えをもたらしたが、今は少しの逡巡も許されない。
アナは右手の剣をきつく握った。いつ襲撃者と出くわしてもいいよう意識を研ぎ澄ませる。
つい一時間程前には全身を覆っていた無力感が、今は何処にも見当たらない。
ただ今のこの状況こそが自身の走ってきた道の到達点のような気がして、アナは煙に染みる目をしばたたかせた。

彼女は廊下の角を曲がると、普段使われていない空き部屋へと滑り込む。
扉をセノワに任せてアナは懐から地図を取り出した。現在地を確認すると空の本棚の並ぶ部屋を見回す。
「殿下、奥の二番目の本棚を動かせばその奥に通路があるはずです」
彼女が行きに使った通路は既に火の中に飲み込まれている。その為別の通路を選んだのだが、セノワもこの通路のことを知らなかったのか目を丸くして本棚を見やった。だがすぐにアナの示す本棚に寄るとそれを横へと押し始める。
本棚は中身がないせいか割とあっさり動きそうだった。彼女は剣を鞘に収めると自身もそれを手伝おうとする。
けれどその時―――― 彼女は何かを感じ、反射的に剣を抜き直した。切っ先を閉まったままの扉に向ける。
「アナ?」
「殿下……」
何を感じているのかと問われれば上手く説明することは出来ない。
気配ではなく予感。
馬上にて敵手とすれ違う直前にも似た「何か」。
まるで正体の知れない、だが確かにそれは気のせいなどではなかった。
二人の視線が集中する先で、扉はゆっくりと開かれる。
声はない。突き刺すような殺気も。
ただ煙にけぶる扉の向こうで……陰気な灰青の瞳が、物を見るかのように二人を見つめていた。



すらりとした長剣を片手に抜いた男は、無言で部屋の中へと押し入ってくる。
その動きにアナは弾かれたように我に返ると男とセノワとの間に割って入った。震えそうになる両手できつく柄を握り締める。
「殿下、お早く」
たった十年。
けれどそれだけの間、彼女は脇目もふらず剣に打ち込んできたのだ。
そしてその過程の中で敵わない相手に手合わせを申し込んだことも決して一度や二度ではなかった。
アナは肌身に染み付いた感覚―――― 勝てないと感じる相手を前に、正面から剣を構える。
男はそんな彼女を一瞥しただけで何の感情も見せなかった。代わりに一歩を踏み込み、軽く手首を返して長剣を振るう。
アナの持つ剣よりもゆうに半分以上は長い片刃の剣。
だがそれは予想を遥かに越える速度を持って彼女を襲った。
アナがかろうじて相手の剣を受けられたのは、彼女自身の反射神経がよかったというより、たまたま剣を上げたその場所に打ち込まれたがゆえだろう。
高い金属音に押され半歩下がりながら、彼女は背後の男に向かって叫ぶ。
「先にお行き下さい!」
「アナ!」



―――― 自分ではおそらくこの男に勝てない。
かろうじて勝つことが出来たとしても、無傷ではいられないだろう。だが時間を稼ぐことならきっと出来る。
はじめからその為に騎士を選んだのだ。
同情だろうが愛情だろうが、ただセノワの為に。彼に未来を捧げる為に。



彼女は胴を薙ごうとする敵の剣を大きく横に跳んで避けた。相手の足を狙って剣を振るう。
しかし男は僅かに下がると、その切っ先に空を切らせた。彼女の間合いを分かっているのか余分な動作はして来ない。
再び長剣が彼女の肩へと振り下ろされる。
髪の先を刃が掠めていく空気。アナは自ら横転して逃れた。素早く体を起こすと相手の脇腹目掛けて剣を突き出す。



死の恐怖はない。
体を鈍らせるものはない。
アナは数瞬自分が人であることも忘れ、剣を振るった。
相手の刃が左腕にかかる。
焼けつくような痛み。
それは彼女に死の恐怖を呼び起こしたが、アナはその恐れをも踏み越えた。
顔を上げると相手の懐へ飛び込む。
左手で腰の短剣を抜き、相手の胸を狙った。
しかし柄に指をかけた時、彼女の指には小さな痺れが走る。
腕からの痛み。握り損ねた短剣は床に落ち高い音を立てた。
生まれた空隙に、アナは一瞬子供の頃の自分を思う。

―――― 本を、読んで。
―――― お話して。
―――― きっとむかえに来るから。
―――― もっととおくへ、いきましょう

彼女は右手の剣を上げる。
だがそれよりも早く、男の剣が彼女の首へと向かった。
避けられぬ死。
終わりを予感するアナの前に、けれどセノワの体が庇うように割り込む。
「殿下……っ!」
長剣の刃が、彼の右腕にかかる。
信じられぬその光景を見ながら、アナは何も持っていない左手を上げた。
恐ろしい速度でセノワを両断しようとする刃を、己の肘をもって受ける。



何も考えられない。
何も分からない。
全てが麻痺したかのような世界。
アナはセノワにもたれかかる様に半歩踏み出すと―――― 右手の剣を敵の喉目掛けて突きこんだ。






「その本を返して貰おう」
王太子としての威圧を込めた言葉に、だが怪しい男は微苦笑しただけだった。
閉じた本をフィレウスに向かって軽く掲げて見せる。
「何故これが欲しい? 他者を出し抜く為か? 余程己の才に自信がないのか」
「黙れ下郎! それはお前などが手にしてよいものではない。アイテアの……西の大陸より来し神の書だ!」
「神の書?」
男はその言葉を聞いて楽しそうに笑った。青い両眼に幾許かの陰惨さが宿る。
「これが神の書だと、お前はそう思っているのか? ディスカルダに生まれし人間よ。
 アイテアはこの本になど宿っていない。神の力はここにはない。これは神に背く書だ」
「神に背く書……?」
それは一体何を意味しているというのか。
フィレウスは神の加護が篤いと言われる国、本に書かれぬケレスメンティアのことを思い出した。
疑いがそのまま声と成る。
「お前はケレスメンティアの人間か?」
「いいや。俺は逸脱した者だ」
まったく意味の分からぬ答。からかわれているのかと苛立ちかけたフィレウスはついに剣を抜いた。
馬首を巡らし男へと向き直る。
「これが最後だ……本を返せ」
「弟のことが気にかかるのか?」
男は肩を竦めると本を開いた。最後の頁を片手で探り当てる。
そこに今は何が書かれているのか、息を飲むフィレウスに、男は感情の読めぬ声で記述を読み上げた。
「お前の弟は―――― 」






濃い血の匂い。
痛みに数秒間もうろうとしていたアナは、何とか揺らぐ意識を取り戻すとセノワを見つめた。
彼女を庇って前に立った男は、絹の服を赤く染め上げ床の上に座り込んでいる。
左腕の感覚がもはやない彼女は、床に跪くと右手を彼に伸ばした。薄汚れた頬に触れ、美しい顔を覗きこむ。
「殿下……ご無事で……?」
「今のところは命があるようだ。君は無事か?」
「ええ」
彼の傷がどれ程深いのか、ぱっと見ただけではよく分からない。
だが出血の量からして急いで手当てをしなければ危ないだろう。
アナは半分ほど棚が動かされ、人が一人は通れそうな隠し通路を振り返った。その先の暗い闇を見やって小さく頷く。
「立てますか? あの通路へ……」
今の彼女にセノワの体を支えられる程の力はない。
彼が怪我をしていることは承知しているが、今は彼自身の力に脱出の希望を委ねるしかなかった。
問われたセノワは苦笑を浮かべてアナを見返す。
「少し難しそうだ。足が上手く動かない」
「わたくしの肩をお使いください」
彼女は体の向きを変えると右肩を彼に向けた。だがセノワは中々動こうとしない。
これで刺客の全てが倒れたわけではないだろう。新たな追っ手に追いつかれる可能性は充分残っているのだ。
焦りを瞳に宿すアナに、けれど彼は静かに呟く。
「アナ。先に行きなさい。君一人ならまだ逃げられる」
「何を馬鹿な……わたくしは殿下をお助けする為に来たのです」
「分かっている。でもこのままでは共倒れだ。今なら君は助かる。逃げて、助けを呼びなさい。
 そして出来ればこれからは……兄上を支えてくれ」
「……そんな。私は」



彼を連れ出す為にここまで来た。その為に人知れず暗い通路を走ってきたのだ。
本当はもう一度だけ会って、話がしたかった。
彼の望みは今何処にあるのか。それは本当に自分の関われない彼方にしかないのか。
その真意に触れて、今度こそ進む道を決めようと思っていた。
まるで度し難い未練だろう。或いは自分の心を慰めるだけの愚行。
だがそれでも、フィレウスもセノワも国の為歩き出している。その背をそっと支えるくらいのことはしたかった。
少しでも何かが出来ればいい。
迷い続けた結果独り取り残され、無為のまま朽ちたくはなかった。



ただひたすら彼女を突き動かすこの感情が愛ではないのなら、それはきっと同情でもないだろう。
目を伏せたアナは己の歩んできた道筋を思い微笑む。そしてセノワを見つめると首を左右に振った。
「いいえ、殿下。どうぞ先に行かれてください。
 追っ手については心配要りません。わたくしがこちらから棚を戻しますから」
「アナ」
「殿下、わたくしは貴方様の騎士です」
左手は使えない。
先程剣を受け止めた肘から先は、筋を切られたのか出血のせいか満足に動かすことが出来なくなっていた。
ほとんど痛みを感じないのは精神的な作用だろうか。アナはそれを幸運に思ってほろ苦く微笑む。
セノワはアナの怪我に目を落とすと整った顔を歪めた。彼のそんな苦しげな表情を彼女は申し訳なく思う。
「どうぞ行かれてください。わたくしのことはお気になさらず」
「……私は元々長くは生きられぬ人間だ。そんな人間の為に君が命を費やすというのか?」
吐き出されたセノワの言葉は、まるで長年彼の喉につかえていたもののようにも聞こえた。
彼女の思いを「同情だ」と突き放した時と同じ、焦燥に駆られて空を見上げた時と同じく、望みながら諦めざるを得ない苦渋。
親愛、嫉妬、憧憬、ままならぬ無数の棘が彼の声音に重なって見える。
その痛みにアナは彼が抱えてきたものの重さを感じて、零れそうになる熱を飲み込んだ。

―――― 辛かったのは、きっと彼も同じだ。
潤んで滲む視界越しにアナはセノワを真っ直ぐに見つめる。
初めて出会った時から分かち合えなかった相違が、けれど今はそれでいいようにも思えた。
自分でも驚くほど穏やかな声で彼女は彼に語りかける。
「殿下。貴方様の生が長くとも短くとも……その時がわたくしにとって何よりも大切な時間なのです。
 私は、あなたに時間を差し上げたかった。世界を差し上げたかった。
 この思いが何であろうと、そのことには少しの偽りもございません。
 あなたを支えることを私が望んだ……だから殿下、どうか私をお使い下さい。
 私はその為の騎士でございます」
剣を右手に。思いを左手に。
この足が遠い地を踏むことがなくとも、それで構わない。
己の死の瀬戸際に立った今なら分かる。
自分のこの手が少しでも彼を先へと導く―――― たったこれだけのことが、今まで彼女を動かしてきた「願い」であったのだと。



だからどうか先に。遠くへ。あなたの望む場所へ。



アナは右腕でセノワを抱くように包み込む。
そのまま少し力を込めると、男の痩身を自分の体全てで支えながら立たせた。
べったりと服にこびりつく血がどちらのものか分からない。
もし彼と自分が恋仲であったら、このまま共に死ぬことを望んだだろうか。そんなことを考えてアナはくすりと笑った。
浅い息を繰り返すセノワを棚に寄りかからせるようにして、先を促す。
「さぁ、殿下」
この怪我では、彼は通路を越えることが出来ないかもしれない。
そんな不安が束の間彼女の脳裏をよぎった。やはり共に行こうかと逡巡が生まれる。
けれどその迷いは廊下を近づいてくる足音が聞こえた時、綺麗に掻き消えた。アナは剣を拾い上げると背後に向かって静かな声を上げる。
「早く、外に」

アナは背筋を伸ばし剣を構える。
その後姿をセノワは瞬間、形容しがたい熱を帯びた目で見やった。
だが彼は唇を噛むと隠し通路に自分の体を滑り込ませる。
先の見えぬ闇。独りだけの道行きにセノワが足を踏み出した時、けれど彼の背後で唐突に女の声が響いた。
「ああ、こんなところにいたんですね。貴方がた」
「……あなた……え? ユリア?」
年の分からぬ細い笛のような声音。アナの困惑に気づいたセノワは壁に手をついて振り返る。
そこに誰が立っているのか、彼からはアナの影になって見えない。だがその「誰か」は鈴を振るうような声で楽しそうに笑った。
「探しましたよ。私が魔女です。さぁ王の約束通り一つだけ、願いを叶えて差し上げましょう」






フィレウスを目の前にして、男は笑った。最後の頁を見下ろす蒼い瞳に異質な翳がかかる。
「お前の弟は―――― 襲撃者に殺され息絶えたそうだ」
「……何だと?」
問いただす己の声が震えたことにフィレウスは気づかなかった。
ただ目の前が暗く歪んだような錯覚に彼は剣を取り落としそうになる。

結局は間に合わなかったのだ。
彼は焦りと使命感に捕らわれ、本に頼り、弟の命を盤上に賭けた。
だがまったくもってそれは分の悪い賭けだったのだろう。
本当にケレスメンティアに対抗したいのなら、情報が彼の国に洩れる可能性を差し引いてでもアリスティドなどに手の内を明かし、最初から協力を求めるべきであったのだ。

いくつもの悔恨が湧き上がり、彼の内腑を熱く焼いていく。
けれどその呆然とした自失からフィレウスを起こしたのは、彼の目前に立つ得体の知れない男だった。
彼と大して変わらぬ年齢に見える男は、しかし老成しているようにも聞こえる淡々とした声でフィレウスを叩く。
「どうした? まだお前にはすべきことがあるだろう。肉親の死に惑わされている場合か?」
「……お前に何が分かる」
「分かる、と言っても無意味だろうな」
男は冷めた目で緑の本を空に放り投げた。
無造作な扱いにフィレウスが思わず声をあげかけた時、だがそれは空中で燃え上がる。
小さな魔法の炎はあっという間に本を隅々まで焼き尽くし、黒い灰が風に乗って舞い上がった。フィレウスは信じられぬその光景を呆然と見やる。
この大陸に二つとない「神の書」。それがこともあろうに自分の目の前で失われてしまったのだ。
彼は本が負ってきた長い歴史と、これからの損失を思って体を震わせた。立て続けの喪失で罅割れた目が、宙に立つ男へ向けられる。
「馬鹿な……何をしたか分かっているのか?」
「勿論分かっている。誰よりもずっとな」
その時の男の声にはささやかな自嘲が感じ取れた。
だがフィレウスが男の真意を問いただすより早く、彼は懐から何かを取り出し宙に弾く。
内部から薄赤く光って見える水晶球。掌に乗るほどの小さな球は、空中で強く輝くと音もなく砕け散った。
たちまち中から鷹ほどの大きさの赤いドラゴンが飛び出し、翼を広げると空に悠々と弧を描く。
初めて見る高等魔法生物にフィレウスが瞠目して空を見上げていると、男の涼しい声が彼に届いた。
「今回はついでだ。戦を止めてやろう。―――― 次からは自分で収めるんだな」