神に背く書 12

mudan tensai genkin desu -yuki

空を舞っていたドラゴンはみるみる大きさを変えると、男の前に巨大な翼を畳んで降り立つ。
その背に飛び乗った男はフィレウスを一度だけ見やると、何も言わずに赤い背を叩いてドラゴンを飛び立たせた。
草原に大きな影を落とす軌跡は緩やかに空中を旋回すると、両軍がぶつかろうとするまさにその上空へと向かう。
赤いドラゴンが軍を追って徐々に降下して行く様はフィレウスの知るどの御伽噺よりも空想めいて……まるで彼には全てが悪い夢のように思えたのだった。



敵軍の先陣目掛けて進んでいくセーロン軍は、かなりの速度で草原を進軍しながらも柔軟に陣形を保っていた。
大陸では一、二を争うほどの行軍速度とそれを生かした戦術は、自ら先頭で軍を指揮するアリスティドの才腕によるものであり、普段はどうあれ戦場において彼への信頼は篤い。アリスティドは馬の手綱を操りながら、本人は義憤と思っている感情に駆られてイクレム軍を睨んだ。戦場に出てきているであろう旧友を探して視線を動かす。
「フィレウスは馬鹿だ。あいつは時に、分かりきったことも言われなければ分からない」
「言うというよりも殿下は殴られる気満々のようですが」
「殴ってから言う。その方が早い」
何処が早いのか、などと問う無駄な行為をエルはしなかった。揺れる馬上で器用に態勢を整えながら主君の様子を窺う。
彼女は猪突猛進なアリスティドの護衛も兼ねているのだ。ちょっとした異常も見逃すことは出来ない。
そしてだからこそあちこちに注意を払っていたエルは、アリスティドの側近のうち、もっとも早く「それ」に気づくことになった。
彼女は目を凝らして空を飛ぶ影を見定めると、鋭い声で主君を呼ぶ。
「殿下! 進軍を緩めて下さい!」
「何故だ! 今いい調子なのに!」
「ドラゴンが来ます!」
「え?」
この大陸では馴染みの薄い生物。童話の中でしかお目にかかれぬ生き物に、さしものアリスティドもすぐには状況を飲み込むことが出来なかった。
口を開けたまま空を見上げ、そして目を丸くする。
「あれは何だ?」
「だから、ドラゴンです」
「近づいてくるぞ」
「来ますね。進軍を止めた方がよろしいかと」
一瞬の空白。
ようやく状況を理解したアリスティドが大声で全軍に停止を命じた時、だが赤い飛影は既に両軍の衝突するであろう地点にまで迫っていた。
地を揺るがす咆哮と共に苛烈な炎が放たれ、一閃のもとに草原が焼き払われる。
膨れ上がる熱気が両軍に押し寄せ、草の焦げる臭気が辺りに広がった。
白い炎はあまりにも高温だったせいかそれ以上燃え広がることもなく、ただ焼き尽くされた地面だけがどす黒い爪痕として浮かび上がる。
唖然とする人々を前に、ドラゴンは大きな翼で突風を生みながら再び高度を上げ旋回を始めた。
豪胆な将たちでさえ度肝を抜かれるその光景に、多くの兵は戦意を挫かれ自然と馬を留める。



「殿下、これは……」
突然の来襲。
エルははじめそれをイクレムによるものかと思ったが、セーロンと同様慄いているイクレム兵の様子を見るだにそうではないらしい。
彼女は表面上は冷静さを取り繕うと主君を見やった。その判断を仰ごうと口を開きかける。
しかし彼女の言葉はアリスティドの手によって遮られた。彼は黙って左手を差し出すと「弓」と命じる。
「弓? まさか殿下、あれと戦うおつもりですか?」
「ドラゴンではない。乗っている男を打ち落とす」
「男? そんな者がおりましたか?」
「いた。あの男だ。間違いない」
―――― 誰だ、と問いたくはなったものの、まずは差し出されたままの手を何とかすることが先決である。
エルは自分の鞍にくくりつけてあったアリスティド用の強弓を外すと、矢筒と共に主君に渡した。
彼はそれを身に着けると空を飛び続けるドラゴンを狙う。
「殿下、あの男とは誰ですか」
「ユリア殿といた男だ」
「ああ、あの……。え、まさか」
「まさかではない。やはりあの男はろくでもなく悪いやつだったのだ!」
「…………」
本当に二十三歳の言うことだろうか、とエルは思ったが、アリスティドの視力がかなりよいことは彼女も知っている。
エルは夢中で弓を番える男に代わって将たちに連絡を取ると進軍を停止させた。同様に歩みを止めたイクレム軍を見やる。
敵軍の指揮を執っているはずのフィレウスの姿は見えない。後方にでもいるのだろうか。
彼女はフィレウスがこの事態をどう捉え、どう対処するのか気になった。
もしかしたらセーロンだけがドラゴンと戦わねばならないかもしれない。嫌な予感が彼女の思考をつつく。
「殿下、おやめください」
「待て。次は当たるから」
「おやめください! ドラゴンの炎など受け止められません!」
彼女は悲鳴にも似た叫びを上げると、結界を張る詠唱を始めた。
空中を旋回し続けるドラゴンはアリスティドの射る矢に気づいたのか、高度を下げセーロン軍へと向かってくる。
はたしてあの白い炎を防ぎきることが出来るのか、エルは激しい悪寒に身を震わせた。
周囲では兵たちが恐慌に陥る寸前の顔で赤いドラゴンを見上げている。

―――― せめてアリスティドだけでも守らなければならない。
そう判断したエルは結界を狭め、強度を高めた。
そんな彼女の焦りを分かっているのかいないのか、隣の男は引き絞った弦から鋭く矢を放つ。
矢はドラゴンの飛行による風が渦巻く中、放物線を描いて飛び、標的たる男のもとへと届いた。
勢いが殺がれているとは言え、それなりの速度をもって飛来した矢を、男は軽く避けると慨嘆の声を洩らす。
「いい腕だ。遠距離射的で勝負したら負けたかもしれんな」
「こら! 下りて来い卑怯者!」
「殿下!」
地上から聞こえてくる二種の怒鳴り声に男は肩を竦めた。空中に停まるようドラゴンに命じ、眼下を覗き込む。
大きな羽ばたきは地に叩きつけるような突風を巻き起こし騎兵たちを後退させたが、アリスティドは退かなかった。
彼は前線を下げるよう指示しながらも自身はその場に残ってドラゴンを睨む。
弓を手にしたままの彼は、以前敗北した相手に向かい堂々たる声を上げた。
「下りて来ないのか! 大人しく来れば手加減してやる!」
「手加減が必要なのは俺の方だと思うが……」
男の呆れ声はそう大きくはなかったので多くの兵士たちには聞こえなかったようだ。
苦笑すると少し優しげにも見える彼は、だが激昂するアリスティドに表情を改めると、冷ややかな目でセーロン軍を見渡す。
「お前は何をしにここへ来た? 何故軍を挙げた?」 
「分かりきったことだ! セノワをケレスメンティアに差し出して取り入ろうなどとするフィレウスを……」
「その弟は死んだぞ」
熱のない響き。
男の言葉は場の空気を変えるに充分すぎるものだった。
アリスティドは唖然とした表情で男を見返す。数秒の自失の後、乾いた声がその口から洩れた。
「何故だ?」
「何故? お前もイクレムとケレスメンティアの婚姻を止める為、軍を挙げたのだろう?
 同様にもっと直接的な手段を取る人間がいるとは考えなかったのか?」
「……お前が殺したのか」
一段低くなる主君の声に、エルはぞっと青ざめた。
彼を止めなければと思うのだが、それが出来るか分からない。彼女はアリスティドに気づかれぬよう結界を維持しながら眠りの構成を組んだ。
だがそれを発動させるより早く、地上に新たな影が差す。



二重に聞こえる羽ばたき。
息を飲む数万の兵たちの上空で、闇色のドラゴンは優雅に円を描いた。
それはそのまま赤いドラゴンの傍へ下りてくると、翼を動かすことなしに宙に留まる。黒曜石に似た深淵の目がアリスティドを捉えた。
「馬鹿な……」
この大陸において、同時代に複数のドラゴンが確認されたことなどない。
一体何が起きているのか、アリスティドが言葉を失くした隙に、けれど兵たちはついに恐慌へと陥った。
まずイクレムが、そしてセーロンが、陣形を崩し退いていく。
恐怖に駆られた人間が散っていく―――― その最中で側近たちに下がるよう懇願されたアリスティドは、だが畏れを覚えながらも意を決すると再び矢を番えた。ドラゴンを操っていると思しき得体の知れぬ男に向かって、弦を引き絞る。
先程の一射よりも強く、目に見えぬほどの速度で放たれた矢。
しかしそれは標的の男には到達しなかった。一瞬で闇色のドラゴンが消え失せ、代わりに一人の女が男の前に現れる。
闇色の髪と瞳を持つ女。この大陸にはいるはずもない魔女。
国さえも滅ぼしうる彼女の眼前で、矢は何の動作もなく打ち消された。
静かな怒りに燃える目。白い指がまっすぐに驚愕するアリスティドを指す。
「殺す」
一言だけの宣告。
それを追うように女の指先から青い光が打ち出された。
恐ろしいまでの魔力を凝縮した光の線。その力は、命中すれば彼の体を隅々まで焼き尽くしていただろう。
だが青光は、女の背後から男が「待て待て」と手を取ったことにより、何もない空中を貫いていく。
「何するんですか!」と暴れる女を押さえ込みながら、男は苦笑にしか見えぬ表情でアリスティドに片手を振った。
「というわけで、もはやこの戦の意味はない。分かったらさっさと兵を連れて国に帰るんだな」
男はすっかり距離を開けたイクレム軍を振り返る。遠目に見える彼らの顔は、とても戦意があるようには見えなかった。
それを同様に感じ取ったアリスティドに向けて、男の腕の中から美しい魔法士が恫喝する。
「次は殺しますよ、馬鹿王子」
「ユ、ユリア殿……」
何を言ったらいいのか慌てる彼の前で、赤いドラゴンは再び宙へと飛び上がった。そのまま真っ直ぐ西の彼方へと消えていく。
残された人間たちに出来ることはただ、小さくなるその影を目で追うことだけだった。
がっくりと項垂れる主君を、エルが問答無用で馬ごと引いていく。



こうしてイクレム北西にて衝突しかけていた両軍は、剣を合わせる前にその意義を消失して引き下がった。
だが結局、突如現れたドラゴンとそれを操る男女の目的が何処にあったのか―――― 真実を知る者は誰一人としていない。