神に背く書 13

mudan tensai genkin desu -yuki

外へ行きたい。この身が何処までたどり着けるのか、その果てを見てみたい。

ならば遠くへと行きましょう。もっと遠くへ。この国を出て。






窓から注ぐ温かな光が、執務机の上にさしかかっている。
硝子を一枚隔てた向こうでは小鳥が軽やかに囀り、変わり行く季節を称え歌っていた。
普段と変わらぬ穏やかな日。平凡な一日を執務をして過ごしていたフィレウスは、数枚の書類を取り上げると中に混じっていた封書に気づく。
彼は書類を置くと白い封筒を手に取って裏返し、頭文字しか書かれていない差出人の名をしばし眺めた。

三ヶ月前の事件において、イクレムの城の奥にあった離宮は内側から放たれた火の為、必死の消火も及ばす焼け落ちた。
中からは百近い焼死体が見つかったが、その中に誰の死体があったのか、襲撃者が混じっていたこともあり完全には把握出来ていない。
ただケレスメンティアをはじめ諸国にはこう発表された―――― イクレムの末王子セノワは、この騒動で焼死したと。
この事件によってイクレムとケレスメンティアの繋がりは白紙に戻されたが、それはむしろ表面的には平穏を呼ぶように思えた。
軍を退いたセーロンをはじめ周辺数ヶ国が沈静化したことに、大規模な戦争を恐れていた者たちはそろって胸を撫で下ろす。

フィレウスは封書を開けると中の手紙に目を通す。
そこには見覚えのある字で差出人の近況と、いくつかの情報が書かれていた。全てに目を通すと彼はそれを畳みなおす。
しかし読み終わったフィレウスが手紙をしまおうとした時、封筒の中に何かが残っていたのか床に固いものが零れ落ちた。
彼は身を屈めて小さな石の欠片を拾い上げる。
手の中に転がったのは澄んだ水晶の破片だ。角度によってはまるで王冠のようにも見える。
それが何を意味しているのか分からず眉を寄せていた彼は、だがふとあることを思い出して笑い出した。
「ああ、あの昔話か。確かに似ていなくもないな」
かつて二人の子供に読んでやった話。その中の一つに出てきた「水晶の冠」に似ていると、これを同封した人間は言いたいのだろう。
フィレウスは透明な輝きに得がたい過去の風景を思い出すと、それを大事に紙の中へと戻した。手紙と共に引き出しへとしまい込む。
「まったく楽しんでいるな……が、これくらいの方がよいか。あれらは生真面目すぎる」
遠くに旅立った人間を思う彼の声に、日頃の冷徹さはない。ただ生い茂る葉越しの陽光に似た感情が垣間見えるだけだ。
フィレウスは深く息を吐き出すと、瞼を閉じ思考を彼方へと彷徨わせる。
「まだ充分に間に合うだろう。あと数年は猶予が残っている。―――― 必ず間に合わせる」
誰が聞くこともない呟き。
それはフィレウスの足下へ落ちると跡形もなく消え去った。後には書類の上を走るペンの音だけが続く。






「精霊魔法とは結局、アイテアが人間に与えた庇護の欠片なんですよね。
 それを多く持ったもの、自然と融和しやすい人間が精霊術士になれる……。
 もっと言えばこの大陸自体、魔法の祝福に満ちているんです。
 これは全てアイテアと彼の子らの望んだ姿で、彼らは魔法さえあれば人が己の力で生きていけると思っていた……」
「間違ってはいないな。人は既に生活の大半を魔法に依存している」
「暗黒期はそうでもなかったんですけどね。はたして彼らがこの未来を予想していたかは不明です」
膝の上の本を閉じたティナーシャは、男の体に寄りかかると手を伸ばして彼の顔に触れた。オスカーは白い指を掴み取る。

目的であった本の破壊を含め、大方のすべきことを終えて東の大陸から帰還した二人は、森の奥にある屋敷で旅の骨休めをしていた。
東の大陸にて買い込んだ本、また異世界から持ち帰った絵本などを広げながら、ティナーシャは曖昧な笑みを洩らす。
「この大陸に生まれる子は全て神に愛された子なんです。人々は神の不在を謳いながらも何処かでそれを知っている。
 でも東の大陸は違いますよね。彼らは神を敬いつつも畏れていた。ディテルダは決して人に優しいだけの神ではなかったから」
「雲を掴むような話だな。神の不在は既に事実だ」
彼が滑らかな手の甲に口付けると魔女は嬉しそうに笑った。音もなく空中に浮かび上がり、逆さのまま男の額に顔を寄せる。
鼻孔を満たす淡い香り。彼に寄り添い続ける女、神を否定した王国の最後の女王は目を伏せた。長い睫毛が影を落とす。
かつての時代の真実が何処にあったのか。今の彼らでさえもその断片しか知り得ない。
だが僅かに残るその知識を語り継いでいくことは今後もないだろう。それはもはや忘れられた神話なのだ。
オスカーは宙を漂う妻の体を引き寄せ抱え込む。そうして彼らはまた数十年を穏やかな時の中で過ごし、新たな時代へと渡っていくのだ。






よく晴れた空は白い。
祖国のものよりもずっと近くに見える空を眺めながら、彼は深い息を吐き出した。腕の中に抱えた本を持ち直し、先へと進む。
澄んで冷えるこの空気が合っているのか、今のところ体には不調が見られない。
かと言って無理をすれば彼女が怒るだけなのだが、その苦言を聞くことは決して不快ではなかった。
彼は舗装された石畳を彼女の待つ家へ向かって歩む。

―――― 遠くへ。
そんなあやふやな願いは、二人の女によって叶えられた。
一人は歴史に潜む魔女。そしてもう一人は、ずっと彼の傍にいた少女によって。
その少女は彼のことが心配だったのか、早朝にもかかわらず家の前に出て男の帰りを待っている。
彼の姿と、抱える本の量に気づいたのか慌てて駆けよってくるところだった。
「お持ちしますわ」
「構わないよ、これくらい」
そう言って笑うと彼女は不満げに彼のことをねめつける。心配というよりも拗ねたような目は、まだ子供の頃彼女がよく見せていたものだ。
男は懐かしい思い出に笑うと、腕の中から何冊か薄いものを選んで彼女に渡した。空いた片手で彼女の手を取る。
少女は少し驚いた顔をしたが、恥ずかしそうにはにかむと男の手を引くようにして歩き出した。すらりと伸びた背筋を彼は美しく思う。
見上げた空は白い。
それは子供の頃夢みたものよりずっと茫洋たるものだ。彼らの道筋は空へは届かない。
「行きましょう」
「ああ」
それでも二人はひたすら前に歩いていく。神のいない世界を、互いだけを頼りに。
そして緩やかに蛇行する足跡はやがて、新たな歴史の中に埋もれて消えていくのだ。